王太子が泣きついた。笑顔で婚約破棄を受け入れただけなのに。

黒猫かの

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「アイーナ! さあ、その小麦粉まみれの生活は終わりだ。私の慈悲深い抱擁の中へ戻ってくるがいい!」


黄金の鎧を夕日に輝かせ、レオン殿下が声高らかに宣言しました。


その後ろには、三十人ほどの近衛騎士たちが整列しています。……が、よく見ると彼らの顔は土気色で、目の下には深いクマが刻まれていました。


「殿下、お久しぶりですわね。一応お伺いしますが……その騎士様たちは、私を強制連行するために連れてこられたのですか?」


私は営業用スマイルを「氷結モード」で貼り付け、レオン殿下を冷ややかに見据えました。


「強制連行ではない! 保護だ! アイーナ、お前は隣国の男に洗脳され、慣れない労働で心身ともに疲弊している。私は主君として、そして愛する男として、お前を救わねばならんのだ!」


「……あの。私は今、人生で一番健康で、おまけに今日の売上で懐もホカホカなのですが」


私はチラリと、背後の騎士たちに視線を送りました。


「それより騎士の皆様。……殿下の『アイーナ探し』に付き合わされて、ここ数日、まともに睡眠を取れていますの?」


騎士たちの一人が、ビクンと肩を揺らしました。


「……え? アイーナ様、それは……」


「カイルさん、あなた昨日も夜通しで殿下の『アイーナへの愛のポエム』の清書をさせられていたのではありませんか? そのクマ、尋常ではありませんわよ」


「な、なぜそれを……!?」


「分かりますわ。私がいた頃は、私が殿下のポエムを全て『機密文書(シュレッダー行き)』として処理して、皆様に休息を与えていましたもの」


私の言葉に、騎士団の中に動揺が走りました。


「……皆様。今の王宮の労働環境はどうです? 残業代は出ていますの? 殿下の思いつきの視察に付き合わされて、夕食を抜きにされてはいませんか?」


「…………っ!!」


騎士たちが一斉に視線を逸らしました。沈黙こそが、肯定の証です。


「アイーナ! 私の騎士たちを誘惑するのはやめろ! 彼らは誇り高きアステリアの盾だぞ!」


「殿下。盾だって、磨いて休ませなければ錆びて壊れますわ。……騎士の皆様。我がルベル公爵家では現在、警備担当の増員を検討しております。時給は王宮の二倍、三食昼寝付き。有給休暇も完全消化。……どうかしら?」


「「「「に、二倍……!!」」」」


騎士たちの目に、希望という名の怪しい光が宿りました。


「ちょっと待て! アイーナ! 国家公務員を公然と引き抜こうとするな!」


「あら、これは『救済』ですわ。殿下のおっしゃる通り、私は慈悲深い女ですから。……さあ、皆様。その重い鎧を脱いで、こちら側へいらっしゃいませんか? 今なら美味しい焼きたてのパンも付いていますわよ」


私はマリエル様が持っていた余りのパンを、手品のように掲げました。


「……俺は、もう限界だ。殿下の『アイーナ様はどこだー!』という叫び声で夜中に起きるのはもう嫌だ!」


「私もだ! 婚約破棄したのは殿下なのに、なぜ俺たちが謝罪行脚をさせられなきゃならないんだ!」


一人、また一人と、騎士たちがレオン殿下の背後から離れ、私の元へと歩いてきました。


「おい! お前たち、反逆だぞ! 戻れ! 戻るんだ!」


レオン殿下の叫びも虚しく、三十いた騎士団は、ものの数分で五人にまで激減しました。


「……ふん。口の減らない男だ」


それまで静観していたギルバート様が、ゆっくりと前に出ました。


「貴様……。自分の部下の管理すら満足にできず、女に泣きつくとは。アステリアの王太子の器とは、その程度か?」


「なにをっ! 隣国の、素性も知れぬ騎士風情が!」


「素性……か。アイーナ、この男をどうする。望むなら、今ここで私の国へ拉致してやってもいいが?」


ギルバート様が物騒な提案をしながら、剣の柄に手をかけました。


「いいえ、ギルバート様。拉致なんて手間がかかることはいたしませんわ。……殿下。本日はもうお引き取りください。これ以上騒がれるようでしたら、今回の『騎士団引き抜き事件』の詳細を、全てお父様経由で議会へ報告いたします」


「ぐ、議会だと……!?」


「ええ。殿下が私的な理由で近衛を動かし、職権乱用で労働環境を悪化させた結果、集団離職を招いた……。これ、王位継承権に響く大スキャンダルになりませんこと?」


私はこれ以上ないほど輝かしい、しかし眼光の鋭い笑顔を向けました。


レオン殿下は顔を青くしたり赤くしたりした後、最後に絞り出すように叫びました。


「……アイーナ! そこまでして私を追い詰め、二人きりになりたいというのか……! 分かった、今日のところは退いてやる! だが、覚悟しておけよ!」


レオン殿下は、わずかに残った騎士たちを引き連れて、全力で馬を走らせていきました。


「……アイーナ様。……あの方、本当に救いようがないですね」


マリエル様が、呆れ果てた顔でパンを齧りながら呟きました。


「ええ、本当に。……さて、新しく雇うことになった騎士の皆様。まずは店の片付けから手伝っていただきますわよ! 働かざる者、パン食うべからずです!」


「「「「はっ! 喜んで!!」」」」


元気よく返事をした元・近衛騎士たちが、一斉にほうきと雑巾を手に取りました。


その光景を眺めながら、ギルバート様が私の隣に並びました。


「アイーナ。貴様はやはり、一国の女王にでもなった方がいい。……あるいは、私の隣で、もっと広い世界を動かしてみるか?」


「あら、ギルバート様。それは、さらなる『副業』のお誘いかしら?」


「……フッ。どうとでも取れ」


ギルバート様の瞳に、今まで見たことのない熱い色が灯りました。


自由を満喫する私の周りに、少しずつ、しかし確実に新しい勢力が築かれようとしていました。
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