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「さあ、ここからは私の聖域ですわ。ギルバート様はそこの椅子に座って、大人しく待っていてくださいな」
公爵邸の広大なキッチン。私はエプロンをきりりと締め、戦場に赴く将軍のような面持ちで包丁を握りました。
「……アイーナ。本当に貴様が作るのか? 料理人に任せればいいだろう」
ギルバート様は不思議そうに、私の手元を覗き込んでいます。
「いいえ、これは魂の救済なのです。王妃教育の一環として『毒味の作法』や『メニュー構成』を叩き込まれましたが、実際に自分で味付けを調整することだけは許されませんでした。今、私はその呪縛から解き放たれ、己の舌のみを信じて鍋に向かっているのですわ!」
私は流れるような手つきで、先ほど市場で手に入れたモツを下処理していきます。
「……手際が良すぎる。貴様、本当に今まで一度も料理をしたことがないのか?」
「ええ、実戦は初めてです。ですが、脳内シミュレーションは数千回繰り返してきました。完璧です。見てください、この大根の面取り。美しくありませんこと?」
私は営業用スマイルを浮かべながら、高速で野菜を刻んでいきました。
ギルバート様は呆れたように息を吐きながらも、その目は私の動きに釘付けになっています。
「……ふん。口だけではないようだな」
「当然ですわ。さあ、火加減を調整して……じっくりコトコト煮込みます。隠し味は、お父様の部屋からこっそり拝借してきた高級ブランデーです」
「……それは隠し味の域を超えている気がするが」
「いいのです。お酒はお肉を柔らかくしますし、何より贅沢な気分になれますもの!」
キッチンに、香ばしい味噌と出汁、そしてほのかなお酒の香りが漂い始めました。
その匂いに釣られるように、ジョッキを片手に持ったお父様がふらふらと現れました。
「おお、アイーナ! いい匂いじゃないか。……ん? 隣にいるその物騒な面構えの男は誰だ?」
「こんにちは、お父様。こちらは荷物持ちのギルバート様です。お礼に一口食べさせてあげる約束なんですの」
「荷物持ち……? アイーナ、お前。この男から漂う剣気は、ただの荷物持ちのそれじゃないぞ。どこの騎士団の回し者だ?」
お父様が鋭い視線をギルバート様に向けました。
ですが、ギルバート様は眉一つ動かさず、静かに頭を下げました。
「……通りすがりの、腹を空かせた男です、ルベル公爵」
「ほう。俺の殺気を平然と受け流すか。気に入った。アイーナ、この男の分もたっぷり作ってやれ。強い奴が美味そうに食う姿を見るのは、酒の肴になるからな!」
「はい、喜んで! ちょうど出来上がりましたわ!」
私は三人の前に、あつあつのモツ煮込みを並べました。
まずはギルバート様が一口。……その瞬間、彼の銀色の瞳が大きく見開かれました。
「…………美味い。なんだ、これは。濃厚だが、後味は驚くほど上品だ」
「でしょう? 下処理を徹底しましたから。お父様もどうぞ!」
「ぐおぉぉ! これだ! これだよアイーナ! この脂の甘みが、冷えたビールに最高に合う!」
二人が競うように食べる姿を見て、私は満足げに頷きました。
これです。私が求めていたのは、この「飾らない幸せ」なのです。
しかし。
幸せな時間は、突如として鳴り響いた「不吉なラッパの音」によって中断されました。
「アイーナ!! いるのは分かっているぞ! 庭の木に男を連れ込んだという不謹慎な噂、この私が直々に確かめてやる!!」
……また来ました。
私は手に持っていたお玉を、危うく床に叩きつけそうになりました。
「……お父様。今すぐあの門を、永久に溶接してもよろしいでしょうか?」
「いいぞ、アイーナ。だがその前に、俺の煮込みを邪魔した罪を償わせる必要があるな」
お父様の目が、酔っ払いから「冷徹な政治家」のそれに切り替わりました。
一方で、ギルバート様は静かに口元を拭い、立ち上がりました。
「……アイーナ。一つ提案がある。あの騒がしい男を黙らせる役、私が引き受けてもいいか?」
「え? ギルバート様が?」
「あのご馳走の代金だ。……少し、運動がしたくなった」
ギルバート様の口角が、ほんのわずかに上がりました。
それは、戦場での勝利を確信した肉食獣のような笑みでした。
「あら、それは助かりますわ。では、ギルバート様。……存分に、営業スマイル(物理)で対応して差し上げて?」
「承知した」
窓の外では、豪華な馬車から降り立ったレオン殿下が、自信満々に胸を張っていました。
その後ろには、やはりマリエル様が「もう帰りましょうよぉ」と泣き言を言っています。
そこへ、キッチンから直接庭へと飛び出したギルバート様が、影のように立ちはだかりました。
「……そこまでだ、アステリアの小童(こわっぱ)」
「な、なんだ貴様は!? アイーナの愛人か!? いや、さては私に雇われたい刺客か何かか!?」
レオン殿下の妄想は、今日も絶好調。
ですが、次の瞬間。
ギルバート様が鞘のまま突き出した剣先が、レオン殿下の喉元でピタリと止まりました。
「……愛人ではない。私はただの、『煮込み料理の信奉者』だ」
「に、煮込み……? 何を言っているんだ貴様は!」
「彼女の休息を邪魔する者は、私が許さん。……消えろ」
ギルバート様から放たれた圧倒的な殺気に、レオン殿下の白馬がヒヒーンと鳴いて逃げ出しました。
「ひ、ひぃぃぃっ! アイーナ! さてはお前、私に嫉妬させすぎて、こんな恐ろしい怪物を生み出してしまったのか!? お前の愛は……お前の愛は重すぎるーーー!!」
レオン殿下は、そのままマリエル様を置き去りにして、全力疾走で逃げていきました。
「……アイーナ様。……あの、私、あの方と一緒に帰りたくないんですけど……ここで皿洗いとかしてもいいですか?」
一人残されたマリエル様が、涙目で私を見つめてきました。
私は最高の営業用スマイルで答えました。
「ええ、いいですわよ。人手はいくらあっても困りませんもの!」
公爵邸の広大なキッチン。私はエプロンをきりりと締め、戦場に赴く将軍のような面持ちで包丁を握りました。
「……アイーナ。本当に貴様が作るのか? 料理人に任せればいいだろう」
ギルバート様は不思議そうに、私の手元を覗き込んでいます。
「いいえ、これは魂の救済なのです。王妃教育の一環として『毒味の作法』や『メニュー構成』を叩き込まれましたが、実際に自分で味付けを調整することだけは許されませんでした。今、私はその呪縛から解き放たれ、己の舌のみを信じて鍋に向かっているのですわ!」
私は流れるような手つきで、先ほど市場で手に入れたモツを下処理していきます。
「……手際が良すぎる。貴様、本当に今まで一度も料理をしたことがないのか?」
「ええ、実戦は初めてです。ですが、脳内シミュレーションは数千回繰り返してきました。完璧です。見てください、この大根の面取り。美しくありませんこと?」
私は営業用スマイルを浮かべながら、高速で野菜を刻んでいきました。
ギルバート様は呆れたように息を吐きながらも、その目は私の動きに釘付けになっています。
「……ふん。口だけではないようだな」
「当然ですわ。さあ、火加減を調整して……じっくりコトコト煮込みます。隠し味は、お父様の部屋からこっそり拝借してきた高級ブランデーです」
「……それは隠し味の域を超えている気がするが」
「いいのです。お酒はお肉を柔らかくしますし、何より贅沢な気分になれますもの!」
キッチンに、香ばしい味噌と出汁、そしてほのかなお酒の香りが漂い始めました。
その匂いに釣られるように、ジョッキを片手に持ったお父様がふらふらと現れました。
「おお、アイーナ! いい匂いじゃないか。……ん? 隣にいるその物騒な面構えの男は誰だ?」
「こんにちは、お父様。こちらは荷物持ちのギルバート様です。お礼に一口食べさせてあげる約束なんですの」
「荷物持ち……? アイーナ、お前。この男から漂う剣気は、ただの荷物持ちのそれじゃないぞ。どこの騎士団の回し者だ?」
お父様が鋭い視線をギルバート様に向けました。
ですが、ギルバート様は眉一つ動かさず、静かに頭を下げました。
「……通りすがりの、腹を空かせた男です、ルベル公爵」
「ほう。俺の殺気を平然と受け流すか。気に入った。アイーナ、この男の分もたっぷり作ってやれ。強い奴が美味そうに食う姿を見るのは、酒の肴になるからな!」
「はい、喜んで! ちょうど出来上がりましたわ!」
私は三人の前に、あつあつのモツ煮込みを並べました。
まずはギルバート様が一口。……その瞬間、彼の銀色の瞳が大きく見開かれました。
「…………美味い。なんだ、これは。濃厚だが、後味は驚くほど上品だ」
「でしょう? 下処理を徹底しましたから。お父様もどうぞ!」
「ぐおぉぉ! これだ! これだよアイーナ! この脂の甘みが、冷えたビールに最高に合う!」
二人が競うように食べる姿を見て、私は満足げに頷きました。
これです。私が求めていたのは、この「飾らない幸せ」なのです。
しかし。
幸せな時間は、突如として鳴り響いた「不吉なラッパの音」によって中断されました。
「アイーナ!! いるのは分かっているぞ! 庭の木に男を連れ込んだという不謹慎な噂、この私が直々に確かめてやる!!」
……また来ました。
私は手に持っていたお玉を、危うく床に叩きつけそうになりました。
「……お父様。今すぐあの門を、永久に溶接してもよろしいでしょうか?」
「いいぞ、アイーナ。だがその前に、俺の煮込みを邪魔した罪を償わせる必要があるな」
お父様の目が、酔っ払いから「冷徹な政治家」のそれに切り替わりました。
一方で、ギルバート様は静かに口元を拭い、立ち上がりました。
「……アイーナ。一つ提案がある。あの騒がしい男を黙らせる役、私が引き受けてもいいか?」
「え? ギルバート様が?」
「あのご馳走の代金だ。……少し、運動がしたくなった」
ギルバート様の口角が、ほんのわずかに上がりました。
それは、戦場での勝利を確信した肉食獣のような笑みでした。
「あら、それは助かりますわ。では、ギルバート様。……存分に、営業スマイル(物理)で対応して差し上げて?」
「承知した」
窓の外では、豪華な馬車から降り立ったレオン殿下が、自信満々に胸を張っていました。
その後ろには、やはりマリエル様が「もう帰りましょうよぉ」と泣き言を言っています。
そこへ、キッチンから直接庭へと飛び出したギルバート様が、影のように立ちはだかりました。
「……そこまでだ、アステリアの小童(こわっぱ)」
「な、なんだ貴様は!? アイーナの愛人か!? いや、さては私に雇われたい刺客か何かか!?」
レオン殿下の妄想は、今日も絶好調。
ですが、次の瞬間。
ギルバート様が鞘のまま突き出した剣先が、レオン殿下の喉元でピタリと止まりました。
「……愛人ではない。私はただの、『煮込み料理の信奉者』だ」
「に、煮込み……? 何を言っているんだ貴様は!」
「彼女の休息を邪魔する者は、私が許さん。……消えろ」
ギルバート様から放たれた圧倒的な殺気に、レオン殿下の白馬がヒヒーンと鳴いて逃げ出しました。
「ひ、ひぃぃぃっ! アイーナ! さてはお前、私に嫉妬させすぎて、こんな恐ろしい怪物を生み出してしまったのか!? お前の愛は……お前の愛は重すぎるーーー!!」
レオン殿下は、そのままマリエル様を置き去りにして、全力疾走で逃げていきました。
「……アイーナ様。……あの、私、あの方と一緒に帰りたくないんですけど……ここで皿洗いとかしてもいいですか?」
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私は最高の営業用スマイルで答えました。
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