王太子が泣きついた。笑顔で婚約破棄を受け入れただけなのに。

黒猫かの

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「対空射撃準備! 全速力で叩き落とせ! 一欠片もこの敷地内に落とすな!!」


ギルバート様の絶叫が、夕暮れの空に響き渡りました。


上空を見上げれば、ピンク色の巨大な気球が、ゆらゆらと不気味にこちらへ近づいています。


そこから吊り下げられているのは、アステリア王国の紋章がこれでもかと刺繍された、巨大な布の塊……。


風に乗って漂ってくるのは、バラの香料と、何かが発酵したような、強烈な「執着の匂い」でした。


「ギルバート様、落ち着いてくださいませ。弓矢で射抜いたら、その中の『濃縮された愛(異臭)』が広範囲に散布されてしまいますわ」


私は鼻をハンカチで押さえながら、営業用スマイルを「防護モード」で固定して進言しました。


「アイーナ! しかし、あのままでは我が家が……いや、領地全体が再起不能の異臭に包まれるぞ!」


「ご安心ください。こういうこともあろうかと、昨夜のうちに『魔導中和剤』の試作を完成させておきましたの。……マリエル様、例の魔導噴霧器を!」


「は、はい! アイーナ様! これ、本当に効くんでしょうね!? 私、もう鼻が曲がりそうですわ!」


マリエル様が、巨大な水鉄砲のような機械を抱えて走ってきました。


「ええ。隣国の特産である『氷晶石』の粉末と、私が独自に調合したハーブの抽出液を配合しました。名付けて『元婚約者の執念さえ消し去るミスト』ですわ!」


「……名前が、あまりにもそのまますぎないか?」


ギルバート様が呆れたように呟きましたが、私は気にしません。


「カイルさん! 気球が射程圏内に入ったら、捕獲ネットで一気に引きずり下ろしてください。その瞬間に、私がこのミストを全開で浴びせますわ!」


「はっ、アイーナ様! ネット射出用意!!」


元・騎士たちが、訓練通りの素早い動きで配置につきました。


気球が屋敷の真上に来たその瞬間!


「今ですわ! 放て!!」


バシュッという音と共に、巨大なネットが空を舞い、気球を搦め捕りました。


地面に激突する寸前、巨大な布から「レオン・フォン・アステリアの愛を受け取れぇぇ!」という録音音声が鳴り響きましたが……。


「はい、喜んで(消去いたします)!!」


私は迷うことなく、魔導噴霧器のレバーを引き絞りました。


シュゥゥゥーーーッ!!


白い霧が、巨大な布を包み込みます。


すると、立ち込めていた不快な異臭が、一瞬にして爽やかなレモンの香りに塗り替えられていきました。


「……消えた。あんなに強烈だった匂いが、跡形もなく……」


ギルバート様が、信じられないといった様子で深呼吸をしました。


「大成功ですわね! これ、炭鉱の臭い対策や、家畜小屋の環境改善に、金貨百枚単位で売れますわよ、ギルバート様!」


私は営業用スマイルを輝かせ、落ちてきた布を指差しました。


「そしてこの布! 上質なシルクを贅沢に使っていますわ。……除菌・消臭して、丁寧に解体すれば、素晴らしい雑巾や雑草避けのシートに生まれ変わりますわね」


「……アイーナ。貴様は、あの忌まわしい贈り物さえも『資源』として活用するのか」


「当然ですわ。ビジネスにおいて、廃棄物という言葉は存在しません。……さて、カイルさん。この『気球撃墜の報告書』と、今回の『中和剤の使用料』、そして『ゴミ処理手数料』を合わせて、アステリア王宮に請求書を送っておいてください」


「はっ! 金貨千枚ほどの請求でよろしいでしょうか?」


「いいえ、二千枚ですわ。……私の精神的苦痛への慰謝料も上乗せしてくださいな」


私は、ぐったりと地面に横たわる「愛の残骸」を見下ろし、おほほ、と笑いました。


一方その頃、アステリア王国。


「……おお! 私の『愛の気球』が、隣国の空で白く輝く光に包まれたぞ! あれはアイーナが、私の愛を全身で受け止め、浄化した証拠だ!!」


レオン殿下は、遠くの空を見つめて感動の涙を流していました。


「殿下……。あれ、明らかに撃墜されて、何か薬剤をぶっかけられたように見えましたが……」


「だまれ! あれは祝福の光だ! アイーナ、聞こえるか! 私の体臭を、君の香りで上書きしてくれたのだな! ああ、なんという熱烈なレスポンス!」


レオン殿下の脳内では、もはや「攻撃」さえも「プロポーズ」へと変換される、無敵の回路が完成していました。


「……さて。次は何を送ろうか。そうだ! 私の愛の重さを分からせるために、私の等身大の『純金像』を一万体ほど作って、彼女の屋敷の周りに配置しよう!!」


「……アステリアの国庫が、底を尽きますよ、殿下……」


侍従の必死の制止を余所に、次なる「嫌がらせ(愛)」の準備が始まろうとしていました。


一方、ヴォルフ公爵邸。


「……ふぅ。これで空気も綺麗になりましたわ。ギルバート様、お口直しに、新しい消臭ハーブを使ったゼリーでも召し上がりませんこと?」


「……ああ。いただくよ。……だがアイーナ、一つだけ約束してくれ」


ギルバート様が、私の手を優しく握り、銀色の瞳で私を真っ直ぐに見つめました。


「……私の香りは、その機械で消さないでくれ。私は、君の中に私の印を刻んでおきたいんだ」


「…………っ!!」


あまりにも不意打ちの、そして熱い言葉。


私の完璧な営業用スマイルが、熱で溶け去りそうなほど、頬が赤く染まりました。


「……善処、いたしますわ。……その、ギルバート様は変な匂いがしませんもの……」


私が小声で答えると、ギルバート様は満足そうに微笑み、私の額に深いキスを落としたのでした。
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