王太子が泣きついた。笑顔で婚約破棄を受け入れただけなのに。

黒猫かの

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「……アイーナ。今夜の夜会は、私と君の婚約を正式に発表する場だ。だが、面白くない顔をしている連中も多い。……無理に笑う必要はないぞ?」


ヴォルフ公爵邸の鏡の前。最高級のドレスに身を包んだ私を見て、ギルバート様が心配そうに声をかけました。


「あら、ギルバート様。無理に笑うなんて、プロの私に対して失礼ですわ。……見てください、この口角の角度。今日も完璧に『黄金比』を維持しておりますわよ」


私は鏡の中の自分に向かって、一分の隙もない営業用スマイルを披露しました。


「……その笑顔、たまに味方の私でも背筋が寒くなるのだがな。……まあいい、行こう。私の隣は、世界で君にしか務まらん」


ギルバート様にエスコートされ、私たちは豪華な王宮の舞踏会場へと足を踏み入れました。


会場に入った瞬間、突き刺さるような視線。
「アステリアの汚れた令嬢」「商売人のような女」「公爵家に相応しくない」……そんなひそひそ話が、私の優れた聴覚に次々と飛び込んできます。


「……ギルバート・ヴォルフ閣下。お待ちしておりましたぞ」


私たちの前に立ちはだかったのは、隣国随一の保守派として知られるゼノス侯爵でした。
彼の後ろには、同じく眉をひそめた数人の老貴族たちが並んでいます。


「閣下。失礼ながら、アステリアから逃げてきた、いわく付きの令嬢を公爵夫人に迎えるなど……我が国の伝統を汚す行為です。今すぐ再考を」


ゼノス侯爵が、私を無視してギルバート様に迫りました。


「ゼノス。アイーナはすでに陛下から経済特使の任命を受けている。彼女の功績は、この国の帳簿が証明しているはずだが?」


ギルバート様が冷徹な声で応じましたが、侯爵は引き下がりません。


「数字がどうあれ、血統と品位の問題です! あのような、市場のパン屋で働くような女が……」


「あら、失礼。……ゼノス侯爵。パン屋で働くことが、品位を欠く行為だとおっしゃるのですか?」


私は一歩前に出ると、最高に輝かしい、しかし冷気を含んだ笑顔を向けました。


「……ふん。そうだ! 高貴な身分であれば、もっと優雅に振る舞うべきだろう!」


「左様でございますか。……ですが、侯爵。あなたが今日着ていらっしゃるその立派な正装、そして先ほど召し上がっていた最高級のワイン。……それらを調達するための資金が、私の『パン屋の管理システム』から算出された税収増によって賄われていることは、ご存知かしら?」


「……なっ!?」


「さらに申し上げれば、侯爵。あなたの領地にある三つの鉱山。……昨年度、閉鎖寸前でしたわね? それを救ったのは、私が提案した『新技術の導入と労働環境の改善』。つまり、私の『商売人根性』ですわ」


私は懐から、小さく折り畳んだ一通のリストを取り出しました。


「もし私がギルバート様との婚約を解消し、この国から手を引けば……。侯爵、あなたの領地は来月中に不渡りを出します。……そうなれば、伝統も品位も、泥の中に沈むことになりますわね。……それでも、反対なさいますか?」


「…………ぐ、ぬぅ。……そ、それは……」


ゼノス侯爵の顔が、赤から白、そして青へと目まぐるしく変化しました。


「反対なさるのは自由ですわ。……ですがその場合、私の『事後処理費用』として、侯爵家の資産を差し押さえる手続きに入らせていただきますが、よろしいかしら?」


私は首を少し傾け、おほほ、と高らかに笑いました。


「……ゼノス、もういい。アイーナに盾突くのは、我が国の国庫に火を放つのと同じだ。……分かったら、さっさとその不愉快な顔をどけろ」


ギルバート様が追い打ちをかけると、保守派の貴族たちは、まるで脱兎のごとく会場の隅へと逃げていきました。


「……ふぅ。……ギルバート様。今のやり取り、何か問題がありましたかしら?」


「いや、完璧だ。……だがアイーナ。君が微笑むたびに、また一人、この国の実力者が戦意を喪失していくのを見るのは……少しだけ複雑な気分だよ」


「あら。平和的な解決ですわ。……あ、見てください! あちらで、さらに平和的な光景が!」


私が指差した先。
会場の隅で、なぜか「予備のパン」を運ぶ給仕として働かされているレオン殿下の姿がありました。
もちろん、服は麻袋をリメイクした『略装』です。


「皆様! アステリアからやってきた看板息子レオナルドです! アイーナ様と閣下の婚約を祝して、本日は特別に……一個買うごとに私の愛のウインクをサービスいたします!!」


「……い、いりませんわ!!」


令嬢たちが悲鳴を上げて逃げ出し、マリエル様がレオン殿下の頭をトレイで叩きました。


「レオン様! 『ウインク』はオプション料金一回につき金貨一枚だって、アイーナ様に言われたでしょう!? 安売りしないでくださいな!」


「……マリエル、厳しいぞ! だが、アイーナが見ている前で、私はさらなる売上を……!」


レオン殿下の熱い視線に、私は静かに目を逸らしました。


「……ギルバート様。……あの殿下の『維持費』、もう少し上げてもよろしいかしら?」


「……ああ。国王陛下なら、喜んで払うだろうな」


私たちは顔を見合わせ、夜会の中心で、今度は本当の意味での柔らかな笑顔を交わしました。


自由を掴み取った元・悪役令嬢。
彼女の戦場は、今や一つの国を、そして人々の心を動かす大きな舞台へと変わっていたのです。
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