婚約破棄、取り消せませんわよ?

黒猫かの

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「待ってください! ネリネ様! 待って、行かないでぇぇぇッ!!」

王宮の裏口、使用人たちが使う通用門の前で、悲痛な叫び声が響いた。

ネリネが馬車に荷物を積み込ませている最中のことだ。

ネリネは優雅に振り返る。

そこには、ドレスの裾を泥で汚しながら、全力疾走してくる男爵令嬢ミモザの姿があった。

「あら、ミモザ様。勝利の祝杯をあげる時間ではありませんの? わざわざ敗走する私を嘲笑いに来るとは、意外と性格が悪くていらっしゃいますね。好感が持てます」

「違います! そういうんじゃないんです!」

ミモザはネリネの足元に滑り込むようにして止まり、肩で息をする。

その瞳は潤んでおり、まるで捨てられた子犬のよう……に見えるが、ネリネの観察眼は誤魔化せない。

その瞳にあるのは「恐怖」と「絶望」だ。

「はぁ、はぁ……ネリネ様、お願いです。戻ってきてください! あの王子(粗大ゴミ)を置いていかないで!」

「……はい?」

ネリネは思わず耳を疑った。

恋敵であるはずのヒロインが、なぜか敵(王子)の返品を求めてきている。

「何を仰っているのです。貴女があの方と『真実の愛』で結ばれたいと願ったのでしょう? 私は身を引きました。どうぞ、二人で幸せな地獄(お花畑)へ落ちてくださいませ」

「無理です! 私、ただの男爵令嬢ですよ!? あんなモンスターの飼育係、務まるわけないじゃないですか!」

ミモザは半泣きで叫んだ。

「さっき少し話しただけで限界でした! 『僕の靴下が片方ないんだけど、魔法で消えたのかな?』とか真顔で言ってくるんですよ!? 三十秒で会話が成立しなくなりました!」

「ああ……それは通常運転ですわね」

ネリネは同情的に頷く。

「ギデオン殿下は『自分の身の回りの世話は妖精さんがやってくれている』と本気で信じている節がありますから。靴下はベッドの下、カフスボタンは枕の下、思考能力は母親の胎内に置いてきたのです」

「そんなの無理ぃぃッ! 私、玉の輿に乗りたかっただけで、介護士になりたかったわけじゃないんです!」

ミモザが頭を抱えてしゃがみ込む。

その姿を見て、ネリネの中に奇妙な感情が芽生えた。

呆れ半分、そして、同じ苦労を知る者への共感半分。

ネリネは懐から一冊の分厚いファイルを出し、ミモザの目の前に落とした。

ズシン。

地面が揺れるほどの重量感。

「これは……?」

「『ギデオン殿下取り扱いマニュアル・完全版』です」

「分厚っ!?」

「全五百ページあります。殿下の起床時の機嫌の取り方から、偏食のメニューリスト、公務をサボろうとした時の捕獲ルート、そして癇癪を起こした際の鎮静剤(アメちゃん)の投与タイミングまで、全て網羅してあります」

ネリネは淡々と説明する。

「これを熟読し、実践すれば、ギリギリ『王族としての体裁』を保たせることは可能です。ただし、貴女の自由時間は一日平均十五分になると思ってください」

ミモザは震える手でマニュアルを開いた。

『第3章:食事について。ブドウの皮は剥いて差し出すこと。種が入っていると不機嫌になり、国会を欠席する恐れあり』

『第5章:トイレについて。紙がないと叫ばれた場合、速やかに……』

パタン。

ミモザはそっとファイルを閉じた。

その目は死んでいた。

「……ネリネ様」

「なんでしょう」

「ネリネ様は、天才です。これだけの業務をこなしながら、あんな高笑いの練習までしていたなんて……」

「高笑いはストレス発散の一環です」

「尊敬します。私、ネリネ様のこと、ただの意地悪な令嬢だと思ってました。でも違った。あなたは、この国の守護神だったんですね……」

「過大評価ですわ。私はただ、効率を愛する一介の事務屋です」

ネリネは時計を見る。

「さて、お喋りはこれくらいにしましょう。出発の時間が迫っています」

「待ってください! 連れてってください! 私も一緒に!」

ミモザがネリネのドレスの裾にしがみつく。

「私、計算得意なんです! 簿記2級持ってます! お茶淹れるのも上手いです! だから雇ってください!」

「却下します」

ネリネは即答した。

「貴女には大事な役目があります。ギデオン殿下の『おもり』という、国益に関わる重大な任務が」

「そんなぁぁぁ!」

「安心なさい。人間、死ぬ気でやれば意外となんとかなります。慣れれば三日で悟りを開けますわ」

ネリネはふわりと微笑んだ。

それは、戦場から一人だけ離脱する兵士が、残される戦友に向ける哀れみと優越感の入り混じった笑顔だった。

「では、ごきげんよう、次期王太子妃殿下(犠牲者)。貴女の未来に、幸多からんことを(祈ってはいませんが)」

「あ、悪魔ぁぁぁッ!!」

ネリネは軽やかに馬車に乗り込んだ。

御者が鞭を振るう。

馬車はゴトゴトと動き出し、夜の闇へと消えていく。

取り残されたミモザは、地面に落ちた分厚いマニュアルと、遠ざかる馬車のランプを交互に見つめ、呆然と立ち尽くしていた。

そこへ、建物の影からギデオン王子が現れる。

「おーい、ミモザァ。僕のハンカチ知らない? 鼻水が出ちゃったんだけど」

王子の間の抜けた声。

ミモザの中で、何かがプツンと切れた。

彼女はマニュアルを拾い上げ、胸に抱く。

(……逃げよう)

その決意は、ネリネのそれよりも固く、そして早かった。

(今夜中に荷物をまとめて、私も高飛びする。行き先は……そう、ネリネ様が行くと言っていた『北の辺境』しかない!)

ミモザは王子に対し、ニッコリと営業用スマイルを向けた。

「殿下、ハンカチならあちらにございますわ」

「え? どこ?」

「あちらです(地獄の底です)」

王子がそっぽを向いた隙に、ミモザは脱兎のごとく走り出した。

「待っててくださいね、ネリネ様! 私、絶対に追いかけますからぁぁッ!!」

こうして、王都から二人の有能な令嬢が消えた。

残されたのは、本当に何もできない王子と、翌朝になって事態の深刻さに気づき顔面蒼白になる国王たちだけであった。

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