婚約破棄、取り消せませんわよ?

黒猫かの

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「積み荷の確認。金貨八万枚、着替えのドレス最小限、保存食三ヶ月分、そしてティーセット一式……よし、完璧ですわ」

王都の城門近く。

月明かりの下、ネリネは辻馬車の荷台をチェックし、満足げに頷いた。

実家に戻るつもりなど毛頭ない。

あの屋敷に戻れば、父公爵が泣きついてくるか、もしくは「金返せ」と喚き散らすかの二択だ。

そんな非生産的な時間に付き合う義理はない。

ネリネは事前に手配していた「運び屋」の男に声をかける。

「御者さん、予定通り北の関所へ。夜明けまでに王都領を出ます」

「へいよ、嬢ちゃん。……でも本当によかったのかい? あんた、さっきまでお姫様みたいな格好でパーティーにいたんだろ?」

「『元』お姫様です。今はただの資産家(ニート)ですわ。さあ、馬を出して」

ネリネが馬車に乗り込もうとした、その時だった。

カシャーン、カシャーン!

金属鎧の擦れる音が、周囲を取り囲んだ。

「待てぇぇぇいッ!!」

現れたのは、王家の紋章が入った白マントを羽織る集団。

王宮近衛騎士団である。

その数、およそ十名。

彼らは槍を構え、ネリネの馬車を完全に包囲した。

「ネリネ・フォン・ベルガモット! 国王陛下より『待った』がかかった! 直ちに城へ戻り、事情説明を行え!」

騎士の一人が声を張り上げる。

ネリネは馬車のステップに足をかけたまま、深いため息をついた。

「はぁ……。『待った』で止まるのは将棋と人生ゲームくらいですわ。私の人生に一時停止ボタンはありません」

「ふざけるな! これは王命だ! ギデオン殿下との婚約破棄、および公爵家との絶縁……事態が大きすぎる! 一度冷静になって話し合う必要がある!」

「話し合い? 不要です。書類は全て提出済み。受理印も押しました。これ以上の拘束は、私の『移動の自由』を侵害する不法行為に当たります」

ネリネは懐から、先ほど王子にサインさせた合意書の写し(コピー)をヒラヒラと見せる。

「法的には、私は現在フリーの一般市民。貴方たちに私を止める権限はありません」

「ぐぬぬ……! 屁理屈を!」

騎士たちは顔を見合わせる。

確かに書類上は成立しているかもしれないが、王家のメンツが許さない。

リーダー格の騎士が、剣の柄に手をかけた。

「口で言って分からぬなら、実力行使だ! 悪いが、手荒な真似をしてでも連れ戻す! かかれ!」

「おっと、嬢ちゃん! 逃げろ!」

御者が叫ぶが、ネリネは動かない。

いや、動かないのではない。

彼女は、ドレスの裾をわずかに持ち上げ、静かに構えを取ったのだ。

「実力行使……そうですか。話し合いよりは、その方が『早い』かもしれませんね」

「舐めるな! たかが令嬢一人、捕縛など赤子の手を捻るようなもの!」

大柄な騎士が一人、ネリネに向かって飛びかかった。

腕を伸ばし、彼女の細い肩を掴もうとする。

その瞬間。

ネリネの体が、ふわりと沈んだ。

「え?」

騎士の手が空を切る。

次の瞬間、視界がぐるりと回転した。

ドォォォォン!!

「ぐあぁっ!?」

背中から地面に叩きつけられ、騎士は悲鳴を上げた。

何が起きたのか分からない。

彼はただ、ネリネに触れようとしただけなのに、気づけば空を飛んでいたのだ。

「な、なんだ今の技は!?」

「『てこの原理』ですわ」

ネリネは涼しい顔で、投げ飛ばした騎士を見下ろす。

「相手の力を利用し、重心を崩して投げる。ドレスの重みは遠心力を生むのに丁度良いウェイトになりますの。……物理法則は、誰にでも平等ですわよ?」

「き、貴様……!」

「さあ、次の方どうぞ。急いでいますので、まとめて来ていただいても構いませんわ」

ネリネが扇子で「カモン」と手招きをする。

プライドを傷つけられた騎士たちが、一斉に襲いかかった。

「囲め! 一斉に押さえ込め!」

「おらぁぁぁッ!」

四方八方から伸びる屈強な男たちの腕。

だが、ネリネは舞踏会で踊るかのように、軽やかにステップを踏んだ。

右から来る騎士の手首を掴み、その回転を利用して左の騎士にぶつける。

「はい、衝突エネルギーの保存」

「ぐべっ!」

後ろから抱きつこうとした騎士の足を、ドレスの裾で巧みに払い、自重で転ばせる。

「摩擦係数の減少にご注意を」

「ぶべらっ!」

剣を抜こうとした騎士の懐に入り込み、掌底(しょうてい)を顎に一撃。

「脳震盪(のうしんとう)による強制シャットダウンです」

「あがっ……」

バタン、バタン、ドサッ。

わずか一分足らずの出来事だった。

十名の近衛騎士たちが、地面の上で芋虫のように転がり、呻き声を上げている。

その中心で、ネリネは乱れた髪を指先で直し、ドレスの埃を払った。

「ふぅ。運動不足解消には丁度良いエクササイズでしたわ」

御者が口をあんぐりと開けて、ポカーンとしている。

「じょ、嬢ちゃん……あんた、何者だ? 本当に公爵令嬢か?」

「ええ。淑女の嗜(たしな)みとして、護身術を少々」

「嗜みのレベル超えてるだろ……」

「父がカジノで負けて借金取りが屋敷に押し寄せてきた時、いちいち悲鳴を上げるのが面倒だったので習得しましたの。自分の身は自分で守る、これが最もコストパフォーマンスが良い保険ですから」

ネリネは倒れている騎士たちのリーダーに近づき、その胸元を踏みつけた。

「ぐぅ……」

「王宮に戻ったら、陛下にお伝えください。『追手は不要。送れば送るほど、治療費と入院費で国庫を圧迫することになりますよ』と」

「は、はい……」

「よろしい」

ネリネはニッコリと微笑み、足をどける。

そして、優雅に馬車のステップを上がった。

「では、今度こそ出発です。目指すは北の辺境!」

「あ、ああ! 合点承知!」

御者が正気に戻り、馬に鞭を入れる。

馬車はスピードを上げ、開かれたままの城門を駆け抜けた。

背後で、騎士たちの情けない呻き声が遠ざかっていく。

ネリネは窓から外を眺め、夜風に当たった。

「さて、王都のしがらみはこれで全て断ち切りました。ここからは未知の領域……魔獣が出るという北の地」

不安?

いいえ。

ネリネの胸にあるのは、これから始まる新しい生活への、計算できないほどの期待感だけだった。

「まずは住居の確保、そしてライフラインの整備……ふふっ、やりがいのある仕事が山積みですわね!」

月に向かって不敵に笑うその姿は、紛れもなく「最強の悪役令嬢」そのものであった。

だが、彼女はまだ知らない。

彼女が向かう先には、物理法則も通じないような「筋肉」と「野生」の塊が待っていることを。
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