婚約破棄、取り消せませんわよ?

黒猫かの

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「……それで? 近衛騎士団の精鋭十名が、たった一人の令嬢に投げ飛ばされたと? ドレス姿のまま?」

王宮の執務室。

深夜にもかかわらず呼び出された国王は、包帯だらけで整列する騎士たちを見て、こめかみを指で押さえていた。

「は、はい……。『てこの原理』という謎の武術を使われまして……手も足も出ませんでした」

騎士団長が恥じ入るように報告する。

国王は深く、重いため息をついた。

「やはり、彼女を敵に回すべきではなかったか……」

机の上には、山のような未決裁の書類が積まれている。

これまでネリネが裏で処理していた外交文書、予算案、そしてバカ息子ギデオンの不始末の数々だ。

ネリネがいなくなってまだ数時間しか経っていないというのに、王宮の行政機能はすでに麻痺し始めていた。

「父上ぇ~! 僕のパジャマのズボンのゴムが緩んでるんだけどぉ! ネリネ呼んでよぉ! 直させてよぉ!」

廊下から、ギデオン王子の情けない叫び声が聞こえてくる。

国王は虚空を見つめた。

「……誰か、あのバカを静かにさせろ」

「はっ! しかし、殿下をあやせるのはネリネ様だけでして……」

「ええい、もういい! 通信魔道具を持て! ネリネに繋げ! どんな条件を呑んででも連れ戻すのだ!」

国王の悲痛な叫びが、夜の王城に虚しく響いた。

***

一方その頃、王都から数キロ離れた街道。

ゴトゴトと揺れる辻馬車の中で、ネリネは優雅に紅茶を啜っていた。

揺れる車内でも一滴もこぼさないバランス感覚は、長年の激務で培われた体幹のおかげである。

その時、彼女のバッグの中でブブブブ……と不快な振動音が鳴り響いた。

「あら、着信?」

ネリネが取り出したのは、手のひらサイズの水晶玉。

王家専用の緊急通信魔道具である。

水晶が輝き、空中にホログラムのように国王の必死な顔が投影された。

『ネ、ネリネ! やっと繋がったか!』

「こんばんは、陛下。深夜のテレワークご苦労様です。労働基準法違反ではありませんか?」

『茶化している場合ではない! 頼む、戻ってきてくれ! お前がいなくなって、城は大混乱なのだ!』

国王が画面越しに拝み倒してくる。

『ギデオンが泣き止まんのだ! それに、明日のサミットの資料がどこにあるか分からん! お前しか知らない暗号でファイリングされているだろう!?』

「ああ、あれですね」

ネリネはクッキーをかじりながら答える。

「資料は全て『無能別カテゴリー』に分類してあります。殿下の分は『燃えるゴミ』の棚、陛下の分は『要再提出』の棚を探してください」

『なんて分類だ! ……いや、そんなことはどうでもいい! 慰謝料なら倍払う! 公爵の地位も約束しよう! だから……!』

「却下します」

ネリネの声は冷たかった。

「陛下。私は提示された条件――婚約破棄を受け入れ、合意書にサインしました。契約は終了したのです。再契約の意思はありません」

『そこをなんとか! 国のためだと思って!』

「国のため? いいえ、それは『王家の体裁』のためでしょう?」

ネリネは目を細める。

「私は十八年間、国のために尽くしてきました。ですが、その対価として得られたのは、過労とストレス、そして婚約者からの裏切りでした。……投資対効果(ROI)が悪すぎます」

『ネリネ……』

「私はこれから、私のために生きます。自分の能力を、自分自身の幸福(利益)のために投資するのです」

ネリネは水晶玉を持ち上げた。

「というわけで、以後の連絡は不要です。着信拒否設定にさせていただきますわ」

『ま、待て! 待ってくれぇぇぇ!』

「ごきげんよう、陛下。どうぞ、残された優秀な人材(笑)で頑張ってくださいませ」

ブツン。

ネリネは一方的に通信を切った。

そして、

「御者さん、窓を開けてくださる?」

「へ、へい」

ネリネは開いた窓から、高価な通信魔道具を夜の闇へと放り投げた。

ヒュ~~~……ポチャン。

街道沿いのドブ川に落ちる音がした。

「ああ、スッキリしましたわ! これで完全に『圏外』です!」

ネリネは背伸びをする。

御者の男が、バックミラー越しに恐る恐る話しかけてきた。

「あ、あのよぉ、嬢ちゃん。相手、国王陛下だろ? あんな風に切っちゃって大丈夫なのかい?」

「問題ありません。今の私はただの一般市民。王の命令を聞く義務もなければ、深夜の愚痴に付き合う義理もありません」

「すげぇ度胸だな……。で、本当に行くのか? 『北』へ」

御者の声が震える。

行き先は、王国の最北端。

文明の最果てにして、魔獣が跋扈(ばっこ)する危険地帯――辺境伯領だ。

「ええ、全速力で」

「あそこはヤバいぜ? 『北の黒狼』って呼ばれる騎士がいるんだが、噂じゃ毎日魔獣の生肉を食らって、気に入らない人間は剣の錆にするって話だ。王都のひ弱な令嬢が行くような場所じゃねぇよ」

「魔獣の生肉……衛生観念に問題がありそうですわね。あとで加熱調理の指導をしなければ」

「いや、そういう問題じゃなくて!」

ネリネは懐から地図を取り出し、広げた。

そこには、北の地勢や資源分布がびっしりと書き込まれている。

「御者さん、貴方は『リスク』しか見ていませんわね。私は『リターン』を見ています」

「リターン?」

「北の辺境は、確かに危険です。ですが、その分、王都の貴族たちは怖がって誰も近づかない。つまり、手付かずの資源、未開発の土地、そして既得権益を持たない自由な市場があるということです」

ネリネの瞳が、金貨のようにギラリと輝く。

「魔獣? いいえ、あれは『歩く素材(お宝)』です。皮は防具に、牙は工芸品に、肉は高級食材になる。適切な管理と物流さえ整えれば、北は宝の山に化けますわ」

「……あ、あんた、本当に何者なんだ?」

「ただの合理主義者です」

ネリネは地図を畳み、遠くに見えてきた山脈を見つめた。

夜が明け始め、東の空が白んでくる。

それは、彼女の新しい人生の夜明けでもあった。

「さあ、急いでください。目的地到着予定時刻まであと二時間。遅延は許しませんわよ?」

「へ、へい! 分かったよ!」

御者はやけくそ気味に馬に鞭を入れた。

こうして、ネリネは生まれ育った王都を捨てた。

思い出も、地位も、名誉も、全て置き去りにして。

持っていくのは、現金(八万枚)と、己の頭脳、そして鋼のメンタルのみ。

「待っていてくださいませ、辺境の地よ。私が劇的ビフォーアフターを施して差し上げますわ!」

ネリネの野望に満ちた高笑いが、朝霧の中に消えていく。

その数時間後。

彼女はまだ知らなかった。

「宝の山」と呼んだその場所が、想像を絶する『汚部屋』ならぬ『汚領地』であることを。

そして、そこで出会う『北の黒狼』が、意外にも彼女の人生計画を(良い意味で)狂わせる存在になることを。
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