婚約破棄、取り消せませんわよ?

黒猫かの

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「……ここが、北の辺境ですか」

王都を出発して数日。

ネリネを乗せた辻馬車は、荒涼とした大地で停止した。

目の前に広がるのは、見渡す限りの枯れ野と、遠くに見える険しい雪山。

そして、どこからともなく聞こえる不気味な獣の遠吠え。

「じょ、嬢ちゃん。ここまでだ。これ以上先へは行けねぇ」

御者が青ざめた顔で振り返る。

「契約では『辺境伯の屋敷まで』のはずですが?」

「無理無理! あそこに見える森、あれ『死喰い森』って呼ばれてるんだぞ!? あの中を抜けないと屋敷には行けないんだ。俺はまだ死にたくねぇ!」

御者はネリネの荷物(金貨とティーセットと着替え)を、半ば放り投げるように地面に下ろした。

「釣りはいらねぇ! 達者でな!」

「あ、ちょっと待ちなさい! 契約不履行で違約金が……」

ネリネの抗議も虚しく、馬車は砂煙を上げてUターンし、全速力で逃げ去っていった。

取り残されたのは、ドレス姿の令嬢一人と、山のような荷物だけ。

ヒュオオオオ……。

寒風が吹き抜ける。

普通なら絶望して泣き崩れるシチュエーションだ。

だが、ネリネは落ちているトランクに腰掛け、優雅に携帯用ポットから紅茶を注いだ。

「ふぅ……。まあ、リスク回避行動としては合理的ですわね。臆病な人材は管理コストがかかりますし」

彼女は冷静に周囲を観察(スキャン)する。

「気温は氷点下に近いですが、湿度は低め。土壌は……ふむ、痩せていますが鉱物資源の反応あり。それに、この植生……王都では高値で取引される薬草が雑草のように生えていますわね」

ネリネの目が「¥(円マーク)」ならぬ「G(ゴールドマーク)」に変わる。

「素晴らしい。やはりここは未開拓のブルーオーシャン。来て正解でしたわ」

ズシン、ズシン。

その時、地面が揺れた。

紅茶の液面が波紋を描く。

「あら?」

ネリネが顔を上げると、森の奥から『それ』は現れた。

体長三メートルはあろうかという、巨大な赤い熊。

全身が炎のような体毛で覆われ、口からは涎(よだれ)と共に硫黄の臭気を撒き散らしている。

指定危険魔獣『フレイム・グリズリー』だ。

「グルルルルル……」

熊はネリネを見下ろし、獲物を見つけた喜びに目を細める。

通常、王立騎士団が一個小隊で挑むレベルの怪物である。

しかし、ネリネはティーカップを置くと、懐から手帳を取り出した。

「フレイム・グリズリー……。推定ランクB。肝臓は万能薬の材料、爪は魔剣の触媒、毛皮は耐火服の素材として最高級……」

彼女は素早くそろばん(折りたたみ式)を弾く。

「市場価格で、一頭あたり金貨八百枚といったところかしら。まさか到着早々、ボーナス支給(臨時収入)があるとは」

「ガァァァァッ!!」

熊が咆哮を上げ、巨大な腕を振り上げた。

ネリネは動かない。

逃げても無駄だと計算済みだからだ。

彼女はただ、熊の動きを観察し、その軌道を予測する。

(右腕の筋肉の収縮率からして、振り下ろしまで〇・八秒。私の身体能力なら、左斜め四十五度にステップすれば回避可能。ですが、荷物が潰れるのは損失ですわね……)

ネリネが護身用のナイフ(ペーパーナイフだが切れ味は抜群)を構えた、その瞬間。

ヒュンッ!!

鋭い風切り音が空気を裂いた。

ドサッ。

ネリネの目の前に、何かが落ちてきた。

それは、振り上げられたはずの熊の右腕だった。

「……はい?」

「オォォォォッ!?」

熊が遅れて悲鳴を上げる。

自分の腕が切断されたことに気づいていないほどの速さ。

その直後。

黒い疾風が、ネリネと熊の間に割り込んだ。

「下がっていろ」

低く、腹の底に響くような男の声。

現れたのは、漆黒の毛皮のマントを纏い、身の丈ほどある大剣を軽々と構えた大男だった。

黒髪、黒目、無精髭。

その眼光は、魔獣よりも鋭く、そして狂暴だ。

「邪魔だ、デカブツ」

男は吐き捨てると、目にも止まらぬ速さで大剣を一閃させた。

ズバァァァァンッ!!

一撃。

たった一撃で、巨大な熊の首が胴体から離れ、宙を舞った。

大量の血飛沫が舞うが、男はマントを翻してそれを防ぐ。

ドスーン!!

巨体が地響きを立てて倒れた。

静寂が戻る。

男は血振るいをして大剣を背中に収めると、ネリネの方へゆっくりと振り返った。

その顔は凶悪そのもの。

「おい、女」

「……はい」

「怪我はねぇか。ここは王都の遊び場じゃねぇぞ。死にたくなけりゃ……」

男はネリネを威圧し、追い返そうとした。

だが、ネリネの反応は彼の予想を裏切るものだった。

パチ、パチ、パチ、パチ。

静かな拍手の音が響く。

「す……素晴らしいですわ!!」

ネリネは目を輝かせ、男に歩み寄った。

「え?」

男がたじろぐ。

ネリネは倒れた熊と、男の腕を交互に見比べる。

「あの一撃……無駄な予備動作が一切ない、完璧なエネルギー効率! しかも、首の切断面をご覧ください! 骨の継ぎ目を正確に捉えているため、刃こぼれも最小限! そして何より……」

ネリネは熊の死体に駆け寄り、切断された首を持ち上げた(重いが気合で)。

「毛皮(商品)を傷つけずに、急所のみを破壊するこの精密さ! 素材の価値を理解した上での処理……プロフェッショナルな仕事ですわ!」

「は、はぁ?」

男はポカンと口を開けた。

普通、血まみれの熊と男を見たら悲鳴を上げるか、腰を抜かすはずだ。

なのに、この女は熊の死体を「商品」と呼び、剣技の「燃費」を褒めている。

「貴方、お名前は? どこの騎士団の所属ですか? 時給いくらで働いていますの?」

ネリネは男に詰め寄る。

男の太い腕の筋肉を、扇子でツンツンとつついた。

「この上腕二頭筋の張り……ただの筋肉ではありませんね。実用的な『使える筋肉』です。メンテナンスが行き届いている証拠ですわ。美しい……実に効率的です!」

「お、おい、触るな!」

男は顔を赤くして後ずさる。

魔獣には滅法強いが、女性(しかも変な)には免疫がないらしい。

「俺は……シリウスだ。シリウス・グラン」

「シリウス様? ……あら」

ネリネは記憶のデータベースを検索する。

「シリウス・グラン……辺境伯ご本人ではありませんか」

「そうだ。俺がここの領主だ」

シリウスはむすっとした顔で腕組みをする。

彼こそが「北の黒狼」と恐れられる男。

だが、ネリネにとっては恐怖の対象ではなく、最高の「優良物件」に見えた。

(強い、速い、無駄がない。私の求めていた『究極の効率化ボディ』がここに!)

ネリネは優雅にカーテシー(挨拶)をした。

「お初にお目にかかります。わたくし、ネリネ・フォン・ベルガモットと申します。とある事情で無職になりましたので、こちらの領地で再就職させていただきたく参りました」

「は? ベルガモット……公爵家の令嬢か? なんでこんな所に」

「話せば長くなりますが、要約しますと『慰謝料を持って家出してきた』というところです」

ネリネはニッコリと微笑む。

「シリウス様。貴方のその腕(筋肉)、気に入りました。私と契約しませんか?」

「け、契約? なんの」

「私の『手足』兼『用心棒』としての雇用契約です。もちろん、報酬は弾みますわよ?」

シリウスは頭を抱えた。

王都から来たという令嬢は、どう見ても正気ではない。

だが、熊を前にしても眉一つ動かさず、自分の剣技を「効率」という言葉で評価したその瞳には、不思議な力が宿っていた。

「……変な女だ」

シリウスはため息をつき、熊の死体を片手で軽々と担ぎ上げた。

「とりあえず屋敷に来い。こんな所で立ち話をしてたら、次はワイバーンが降ってくるぞ」

「まあ、ワイバーン! 皮膜が高級傘の材料になりますわね!」

「……お前、本当に公爵令嬢か?」

「合理主義者です」

こうして、ネリネとシリウスの出会いは果たされた。

ロマンチックな予感はゼロ。

あるのは、獲物の査定額と、筋肉への称賛だけ。

だが、ネリネは確信していた。

この男となら、どんな過酷な辺境生活も「黒字」に変えられると。

「さあ、案内してくださいませ! 私の新天地(職場)へ!」

ネリネは意気揚々と歩き出す。

その背中を見ながら、最強の騎士シリウスは、なぜか背筋に寒気を感じていた。

(……なんか、熊より厄介なのを拾っちまった気がする)

その予感は、屋敷に到着した瞬間に的中することになる。
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