婚約破棄、取り消せませんわよ?

黒猫かの

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「ひいっ……ひいっ……! もう無理……足が……足が棒のようだ……!」

北の辺境、騎士団の練兵場。

早朝の冷たい空気の中、情けない悲鳴が響き渡っていた。

声の主は、かつての第二王子、現在は「訓練生No.0(ゼロ)」と呼ばれているギデオンだ。

彼は、ボロボロのトレーニングウェア(騎士団のお古)を着せられ、泥まみれになりながらスクワットをさせられていた。

「声が小さいぞNo.0! まだ三百回だ! あと九千七百回!」

鬼教官と化した副団長ボルグが、竹刀で地面を叩く。

「む、無理だぁ! 僕は王子だぞ! こんな……こんな下賎な真似ができるかぁ!」

ギデオンはその場にへたり込んだ。

生まれた時からスプーンより重いものを持ったことがない彼にとって、辺境の基礎訓練は拷問に等しい。

「休憩! 休憩を要求する! ティータイムだ!」

「甘えるな! 戦場で敵が休憩をくれるか! 立て!」

「嫌だ嫌だ嫌だぁぁぁッ!」

ギデオンは子供のように手足をバタつかせ、駄々をこねる。

その様子を、木陰からネリネとミモザが冷ややかに観察していた。

「……酷いありさまですわね。基礎体力が一般兵の平均値を大きく下回っています。これでは労働力としての資産価値(バリュエーション)はマイナスです」

ネリネは手元のクリップボードに『F(不可)』の文字を書き込む。

「マイナスどころか、介護コストがかかってますよ。さっきも『靴紐が結べない』って泣いてましたし」

ミモザが呆れ顔でスナック菓子を齧る。

「ですが、ここが正念場です。彼を更生(リサイクル)できれば、王家との交渉材料としての品質が保証されます。……ミモザ様、水を与えてあげなさい。脱水症状で死なれては困ります」

「了解でーす。……ほらよ、ギデオン様。お水ですよー」

ミモザはホースの水(冷水)を、ギデオンの頭から容赦なくぶっかけた。

「ぶべらっ!? つ、冷たっ!?」

「あ、ごめんなさい。手元が狂いました(棒読み)」

「貴様らぁ……! 覚えてろよ……!」

ギデオンは濡れ鼠になりながら、ギリギリと歯ぎしりをした。

彼のプライドはズタズタだった。

元婚約者に見下され、浮気相手に水をかけられ、野蛮な騎士たちに怒鳴られる。

(許さない……許さないぞネリネ! シリウス! 僕にこんな屈辱を与えて、ただで済むと思うな!)

ギデオンの手が、ウェアの懐に忍ばせた「ある物」に触れた。

それは、彼が王城を出る際、宝物庫からこっそり持ち出した「切り札」だった。

(これさえ使えば……!)

ギデオンの目に、狂気じみた光が宿る。

「おいNo.0! いつまで寝ている! 立て!」

ボルグが近づいてくる。

その瞬間。

「うおおおおぉぉぉッ!!」

ギデオンは奇声を上げ、跳ね起きた。

そして、懐から禍々しいオーラを放つ「赤い水晶」を取り出し、高々と掲げた。

「ひれ伏せ愚民ども! 僕を誰だと思っている! 選ばれし王族、ギデオン様だぞ!」

「あん? なんだそりゃ」

ボルグが立ち止まる。

ネリネが目を細めた。

「……あれは?」

「ネリネ様! あれ、王家の宝物庫にあった国宝級魔道具『紅蓮の魔石』ですよ!」

ミモザが叫ぶ。

「えっ、盗んだんですかあの人!? 犯罪者じゃないですか!」

「……なるほど。窃盗罪が追加されましたね。刑期が伸びますわ」

ネリネは冷静だが、事態は少し深刻だった。

『紅蓮の魔石』は、込められた魔力を増幅し、周囲を焼き尽くす広範囲攻撃魔法を発動させる危険物だ。

「はーっはっは! ビビったか! これを使えば、この薄汚い屋敷など一瞬で灰にできるんだぞ!」

ギデオンは勝ち誇ったように叫ぶ。

「ネリネ! 今すぐ僕に土下座して靴を舐めろ! そしてシリウスの首を差し出せ! そうすれば命だけは助けてやる!」

完全に逆ギレである。

騒ぎを聞きつけたシリウスが、大剣を持って駆けつけた。

「なんだ、騒がしい。……おい王子、変な石ころ持って何やってる」

「石ころだと!? 無知な野蛮人が! これは古代魔法文明の遺産だ! 貴様らごときが一瞬で消し炭になる最終兵器だ!」

ギデオンは魔石をシリウスに向ける。

「死ね! 筋肉ダルマ! 《エクスプロージョン・フレア》!!」

彼は呪文(のようなもの)を叫び、魔石に全魔力を注ぎ込んだ。

カッ!!

魔石が激しく発光する。

周囲の空気が熱波で揺らぐ。

「やばい! 全員伏せろ!」

騎士たちが慌てて地面に伏せる。

しかし、ネリネだけは立ったまま、冷静にその光景を観察していた。

そして、ポツリと呟いた。

「……馬鹿な」

「え?」

ミモザが聞き返す。

「マニュアル(取扱説明書)を読んでいませんね、あの方」

「はい?」

ネリネが解説する暇もなかった。

ギデオンの手の中で、魔石は暴走を始めた――が、光の放出方向がおかしい。

ブシュシュシュシュ……!!

「え? あ、あれ?」

ギデオンが焦る。

本来なら前方へ放たれるはずの炎が、なぜか魔石の「後ろ側」、つまりギデオンの顔面に向かって逆流し始めたのだ。

「あ、熱っ! ちょ、待って! なんでこっちに来るの!?」

「……その魔道具は『指向性』の設定が必要です。魔力を込める際、紋章の刻印を相手に向けなければ、術者にバックファイアします」

ネリネが解説音声のように淡々と言う。

「基本的な操作ミス(ヒューマンエラー)ですわ」

「うわあああ! 消えろ! 止まれ! ママァァァッ!」

ギデオンはパニックになり、魔石を振り回すが、炎は容赦なく彼を包み込む。

ドッカァァァァァン!!!

小規模な爆発音と共に、黒い煙が立ち上った。

「…………」

練兵場に静寂が戻る。

煙が晴れると、そこには。

ドリフのコントのように、髪の毛がチリチリのアフロになり、顔面が真っ黒に焦げたギデオン王子が立っていた。

服はボロボロ、口からはプス……と白い煙が出ている。

「……あ……う……」

王子はふらふらとよろめき、白目を剥いてその場に倒れた。

ドサッ。

「……自爆、ですね」

シリウスが呆れて言った。

「ああ。自分の魔力で自分を焼くとは、ある意味『自家発電』と言えなくもありません」

ネリネは倒れた王子の元へ歩み寄り、黒焦げの顔を見下ろした。

幸い、命に別状はないようだ。魔力が少なかったのが幸いしたのか、あるいは悪運が強いのか。

「しかし、貴重な魔道具を破損させ、あまつさえ訓練時間を浪費させるとは……」

ネリネは懐から請求書を取り出し、さらに項目を追加した。

「『魔道具修理代』および『爆発による地面修復費』、追加です」

「ネリネ様、鬼ですね」

ミモザが笑う。

「自業自得です。……ボルグ、この黒焦げを医務室へ。治療が済み次第、訓練再開です。午後は座学で『魔道具の正しい使い方』を叩き込みなさい」

「イエッサー! ……しっかし、ここまで使えないとはなぁ」

騎士たちが王子を担架(という名の板)に乗せて運んでいく。

その姿は、哀れを通り越して、もはやマスコットキャラクターのような愛嬌すら感じさせた。

「……ふぅ。手間のかかる捕虜ですこと」

ネリネはため息をつく。

シリウスが隣に立ち、肩をすくめた。

「まあ、大事に至らなくてよかったじゃないか。あいつの『無能さ』が、今回は俺たちを救ったな」

「皮肉な結果ですわね。有能な敵なら脅威でしたが、無能な敵は自滅する。……勉強になります」

ネリネは遠くの空を見上げた。

「ですが、これで王家も黙ってはいないでしょう。国宝を持ち出した王子が帰ってこないとなれば……」

「次は国王か?」

「ええ。ラスボスの登場ですわね」

ネリネの予感は的中する。

数日後。

黒焦げ王子がリハビリ・スクワットに励む辺境の地に、王家の紋章を掲げた、最も豪華で、最も威厳のある馬車列が到着することになる。

ついに、国王自らが乗り込んでくるのだ。

「……準備をしましょう、閣下。最後の大商談(プレゼン)です」

「ああ。腹を括るか」

ネリネとシリウスは顔を見合わせ、不敵に笑った。

王子の自爆は、単なるコメディショーの幕引きに過ぎない。

本当の戦い――辺境の未来を決める交渉は、これからが本番だった。
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