婚約破棄、取り消せませんわよ?

黒猫かの

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「……ゼロ」

ネリネの無慈悲なカウントダウンが終了した。

執務室には、重苦しい沈黙が流れる――わけではない。

シリウス・グラン辺境伯は、額に大量の汗を浮かべ、挙動不審に視線を彷徨わせていた。

「あー……その、なんだ。心の準備というものがだな……」

「往生際が悪いですわ、閣下。男に二言はないはずです」

ネリネは扇子をピシャリと閉じ、腕組みをして彼を見下ろす(実際には身長差で見上げているが、態度は見下ろしている)。

「先ほど陛下に宣言してしまいました。『結婚する』と。今さら撤回すれば、私は嘘つき呼ばわりされ、王家に対する偽証罪に問われる可能性があります。社会的信用(クレジット)に関わる問題です」

「お前が勝手に言ったんだろうが!」

シリウスが叫ぶが、ネリネは聞く耳を持たない。

「ですので、形式だけで結構です。私の『既成事実』を『真実』にするための言質(げんち)をください」

ネリネは淡々と迫る。

まるで未払いの請求書を取り立てるような態度だ。

だが、その耳が熟れたトマトのように赤いことを、シリウスは見逃さなかった。

(……くそっ。こんな強引な女、見たことねぇ)

シリウスは大きく息を吐き、覚悟を決めたように天井を仰いだ。

そして、ガシガシと乱暴に頭をかきむしると、ドカッと椅子から立ち上がり、ネリネの前に立った。

その威圧感ある巨体に、ネリネがわずかに身を引く。

「……分かった。降参だ」

シリウスはその場に片膝をついた。

騎士が主君に忠誠を誓う、最敬礼の姿勢だ。

「え……?」

予想外の行動に、ネリネが目を丸くする。

シリウスは、ネリネの手をそっと取り、そのゴツゴツした掌で包み込んだ。

剣ダコだらけの、無骨で、熱い手。

「指輪はねぇ。花束も用意してねぇ。……お前の言う通り、準備不足だ」

シリウスは真っ直ぐにネリネの瞳を見つめる。

その瞳は、北の湖のように深く、静かで、真剣だった。

「だが、これだけは約束できる」

「……なんでしょう」

「俺は、お前の邪魔をしない。お前の計算を否定しない。お前が『こうしたい』と思ったことを、全力で力(物理)で支える」

シリウスは言葉を選ぶように、ゆっくりと紡ぐ。

「俺は馬鹿だから、難しい計算はできん。商売のことも分からん。だが、お前が誰かに傷つけられそうになったら、俺が盾になる。お前が道に迷ったら、俺が剣で切り開く」

「…………」

「ネリネ。俺の人生(リソース)を、全部お前に預ける。……好きに使ってくれ」

それは、世界で一番不器用で、世界で一番ネリネらしい「愛の告白」だった。

「俺と、結婚してくれないか」

直球の言葉。

ネリネの頭の中で、常に稼働している高速演算回路が、プツンと停止した。

(……非効率です)

思考の片隅で、理性が警報を鳴らす。

(資産の譲渡契約としては曖昧すぎます。具体的な権限範囲も不明確。リスク管理ができていません。……なのに)

胸の奥が、温かい何かで満たされていく。

計算できない。

数値化できない。

ただ、目の前の男が愛おしくてたまらないという感情だけが、暴走(オーバーフロー)していた。

ネリネは震える声で、必死にいつもの調子を取り戻そうとした。

「……条件、確認しました」

彼女は扇子で顔を隠す。隠さないと、涙がこぼれそうだったから。

「貴方の人生(リソース)、確かに受領いたしました。管理手数料は高くつきますが……特別に、永久無料キャンペーンを適用して差し上げます」

「ははっ、そいつはお得だな」

シリウスが破顔する。

「……契約成立、でいいんだな?」

「ええ。……謹んで、お受けいたします」

ネリネが小さく頷いた瞬間。

バンッ!!

執務室の扉が勢いよく開かれた。

「おめでとうございまぁぁぁすッ!!!」

「ヒューヒュー! 閣下やったぜ!」

「姉さん! いや奥様!」

雪崩れ込んできたのは、ミモザ、ポポ、ボルグ、そして数十名の騎士たちだった。

彼らはクラッカーを鳴らし、花びらを撒き散らし、口笛を吹いて祝福する。

「お、お前ら! 盗み聞きしてやがったな!?」

シリウスが顔を真っ赤にして怒鳴る。

「当たり前じゃないですか! こんな歴史的瞬間、見逃したら一生の損ですよ!」

ミモザが涙目でハンカチを噛んでいる。

「ああ、尊い……! 『人生を預ける』ですって! 録音魔道具があればミリオンセラー確実でしたのに!」

「うるさい! 仕事に戻れ!」

「今日はもう祝日です! ネリネ様が以前『慶事の際は特別休暇を与える』って言ってましたもん!」

騎士たちがネリネを見る。

ネリネは涙を拭い、呆れたように、しかし満面の笑みで宣言した。

「……仕方ありませんね。本日は『辺境伯成婚記念日(仮)』として、半休とします! ただし、明日の業務は倍速でこなすこと!」

「イエッサー!!」

「宴だー! 酒だー!」

「ギデオン王子にも祝わせようぜ!」

「あいつも今頃、筋肉痛で泣きながら祝ってくれるさ!」

騎士たちがシリウスとネリネを担ぎ上げようとする。

「おい、やめろ! 俺はいいが、ネリネを落とすなよ!」

「きゃっ! ちょっと、揺れますわ! 乗り心地が悪いです!」

騒がしくも温かい祝福の輪。

ネリネはシリウスの肩に手を置き、彼と視線を交わした。

言葉はなくても、通じ合っていた。

(これから忙しくなりますわよ、旦那様)

(望むところだ、奥様)

***

その夜。

宴会騒ぎが落ち着いた頃、ネリネは自室で一人、静かに手帳を開いていた。

『プロジェクト・マリッジ』

そう書かれたページに、彼女は新しい項目を書き加えていく。

1.結婚式の準備(招待状リスト作成、引き出物の選定)
2.王都への一時帰国(婚約の正式発表、および社交界への牽制)
3.ギデオン王子の処分決定
4.新居の改装(ダブルベッドの購入、プライバシーの確保)

ペンを走らせながら、ネリネはふと手を止めた。

左手の薬指。

そこにはまだ、指輪はない。

だが、シリウスに握られた熱さが、まだ残っているような気がした。

「……指輪なんて、ただの鉱物ですもの。あの方の『言葉』の方が、よほど耐久年数が長そうですわ」

ネリネは独り言を漏らし、ふふっと笑った。

そこへ、窓ガラスがコンコンと叩かれた。

「?」

開けると、そこにはシリウスが立っていた。

バルコニー伝いに来たらしい。不法侵入である。

「……閣下。玄関から入るという常識はお忘れで?」

「い、いや、みんなに見つかると冷やかされるからな」

シリウスは照れ臭そうに、ポケットから何かを取り出した。

「これ」

差し出されたのは、小さな、銀色のリングだった。

飾り気のない、シンプルな金属の輪。

「……指輪、ですか?」

「あー……さっき、ボルグに無理言って、武器庫の余り鉄を加工してもらった。宝石なんかついてないし、急造品だが……」

シリウスは視線を逸らす。

「やっぱり、形だけでもあった方がいいかと思ってな。……サイズ、合うか分からんが」

ネリネは、その無骨な指輪を受け取った。

よく見れば、内側に歪な文字で『N & S』と刻まれている。

余り鉄。

加工時間数時間。

市場価値、ほぼゼロ。

だが、ネリネにとって、それは世界最高峰のダイヤモンドよりも輝いて見えた。

「……鉄は、硬度が高く、耐久性に優れています。実用的で、素晴らしい素材ですわ」

ネリネは左手を差し出した。

「はめてくださいませ」

「……ああ」

シリウスの震える手が、ネリネの薬指に指輪を通す。

サイズは、奇跡的にぴったりだった。

「……似合うか?」

「ええ。私の指には、ダイヤよりも鉄の方がお似合いですわ」

ネリネは指輪を愛おしそうに眺め、そしてシリウスに抱きついた。

「ありがとうございます、あなた」

夜風が二人を包む。

北の星空の下、最強の合理主義者と最強の騎士は、ようやく本当の意味で結ばれたのだった。

そして翌日。

「さて、感傷に浸る時間は終了です! これより『王都殴り込みツアー』の準備を開始します!」

ネリネの号令が飛ぶ。

幸せな夜は終わり、再び戦い(ビジネス)の日々が始まる。

目指すは王都。

かつて自分を捨てた場所へ、今度は「勝者」として凱旋するために。
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