婚約破棄、取り消せませんわよ?

黒猫かの

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「……揺れますわね」

王都を出て数日。

北へと向かう馬車の中で、ネリネは手元のティーカップが微かに震えるのを見て、眉をひそめた。

窓の外の景色は、整備された石畳の街道から、ゴツゴツとした未舗装の土の道へと変わっていた。

車輪が石を乗り越えるたびに、ガタン、ゴトンとお尻に衝撃が走る。

「サスペンションの改良が必要です。この振動係数では、私の業務効率が五%低下します」

「文句を言うな。これが『北』の道だ」

対面に座るシリウスが、懐かしそうに窓の外を眺めて言う。

「王都の道は平らすぎて、馬が足を取られやすい。このくらいのデコボコがあった方が、踏ん張りが効くんだよ」

「……なるほど。悪路もまた、生存のためのトレーニング環境ということですね」

ネリネは納得し、カップを置いた。

確かに、揺れは激しい。

だが、不思議と不快ではなかった。

王都の空気は、香水や排気ガス、そして人々の欲望が入り混じった澱(よど)んだものだった。

それに比べて、窓から吹き込む風はどうだ。

冷たく、土と草の匂いがして、肺の奥まで洗われるようだ。

「……王都の煌びやかな舞踏会も、悪くはありませんでした」

ネリネは独り言のように呟く。

「ですが、あそこは『消費』の場です。着飾り、食べ、噂話をする……何も生み出しません。対してここは……」

「ここは?」

「『生産』の場です。何もない荒野だからこそ、これから何でも作れる。……やはり私には、こちらの泥臭い空気の方が性に合っていますわ」

ネリネがふわりと微笑む。

シリウスは、その笑顔を見て少しドキッとした後、照れ隠しのように視線を逸らした。

「……お前がそう言ってくれて、安心したよ。王都の暮らしを捨てさせたこと、少しは悪いと思ってたからな」

「あら、罪悪感(ギルティ)を感じる必要はありません。私は自分の意思で、最も利益率の高い『優良物件(あなた)』を選んだのですから」

ネリネは扇子でシリウスの太い腕をツンとつつく。

「それに、これからの計画を考えれば、王都などに構っている暇はありません」

「計画? 温泉リゾートの件か?」

「それも重要ですが、もっと長期的な……『後継者育成計画(サクセッション・プラン)』についてです」

ネリネは手帳の新しいページを開いた。

そこには『人材確保:自家生産ルート』という、何やら怪しげなタイトルが書かれている。

「……なんだそれは。新しい騎士でも雇うのか?」

「いいえ。外部採用(リクルート)ではありません。内部での新規製造です」

ネリネは真顔で、シリウスの目を真っ直ぐに見つめた。

「つまり、私と貴方の『子供』についてです」

「ぶふっ!?」

シリウスが飲んでいた水を盛大に吹き出した。

「こ、子供ッ!?」

「汚いですわ、閣下。拭いてください」

ネリネは冷静にハンカチを差し出す。

シリウスは顔を真っ赤にして咳き込んだ。

「ごほっ、ごほっ! お前……いきなり何を……!」

「重要な経営課題です。グラン辺境伯家の存続と、領地の永続的な発展のためには、優秀な後継者が不可欠。リスク管理の観点からも、早急に着手すべきプロジェクトです」

ネリネは指示棒(ペン)を取り出し、空中に遺伝子の組み合わせ図のようなものを描き始めた。

「シミュレーションを行いました。貴方の『規格外の身体能力(フィジカル)』と、私の『合理的頭脳(ロジック)』……この二つの遺伝形質を掛け合わせれば、理論上、文武両道の『SSランク人材』が誕生する確率が高いです」

「……お前、子供のことを『人材』とか『製造』とか言うな」

シリウスが頭を抱える。

ムードもへったくれもない。

だが、ネリネは止まらない。

「第一子は男児が望ましいですね。貴方の剣技を継承させ、魔獣討伐の効率を上げます。第二子は女児で、私の経営手腕を叩き込み、財務基盤を盤石にします。教育カリキュラムは、三歳から簿記と剣術を並行して……」

「ストップ! ストップだネリネ!」

シリウスが慌ててネリネの手を掴んだ。

「……計算は分かった。だがな、子供は計画通りに作るもんじゃねぇだろ」

「では、どうやって?」

「それは、その……愛し合った結果として、天から授かるもんだ」

シリウスはしどろもどろになりながら、真っ赤な顔で言う。

「俺は……優秀な人材が欲しいわけじゃない。お前との子供なら、剣ができなくても、計算ができなくても……ただ、元気で笑っていてくれれば、それでいい」

「…………」

ネリネのペンが止まった。

彼女は瞬きをし、扇子で口元を隠した。

「……非効率です」

「あん?」

「能力を求めないなんて、投資対効果が悪すぎます。……ですが」

ネリネの頬が、夕焼けのように赤く染まる。

「『ただ笑っていてくれればいい』……ですか。……ふふっ。貴方らしい、甘くて非合理的な考えですわね」

「悪かったな」

「いいえ。……悪くありません」

ネリネはシリウスの大きな手に、自分の手を重ねた。

「では、計画を修正します。目標は『SSランク人材』ではなく、『世界一幸せな家族』の構築、に変更します」

「……ああ。それなら承認(サイン)してやる」

二人は見つめ合い、笑った。

馬車の中は、王都の夜会よりもずっと温かく、甘い空気に包まれていた。

「……で、具体的にはいつ着手します?」

「だーっ! お前はすぐそういう方向に!」

「スケジュール調整は重要です!」

ギャーギャーと言い合っているうちに、馬車は森を抜け、見慣れた岩山へと差し掛かった。

「おっ、見えてきたぞ」

シリウスが窓を開ける。

遠くの崖の上に、無骨な石造りの屋敷が鎮座している。

かつては「ゴミ屋敷」だったが、今は窓ガラスがピカピカに磨かれ、煙突からは温かそうな煙が立ち上っている。

屋敷の前の広場には、大勢の人影が見えた。

「おーい!! 閣下ー!! 姉さーん!!」

「帰ってきたぞー!!」

騎士たちが手を振り、帽子を投げている。

ポポが飛び跳ね、ミモザ(先に別便で戻っていた)が旗を振っている。

領民たちも農具を持ったまま駆けつけてきている。

「……ただいま、俺たちの家」

シリウスが呟く。

ネリネもまた、その光景を目に焼き付けた。

「ええ。戻りましたわ」

馬車が広場に到着すると、爆発のような歓声が上がった。

「おかえりなさいませ!」

「王都はどうでした!? 王子をボコボコにしましたか!?」

「お土産は!?」

もみくちゃにされる二人。

シリウスは「痛い痛い! 押すな!」と笑いながら騎士たちに囲まれている。

ネリネは馬車から降り立つと、扇子をバシッと開いた。

「静粛に!!」

一喝。

場がシーンとなる。

ネリネは広場を見渡し、そして地面を指差した。

「留守の間に、雑草が三センチ伸びていますわよ! 草むしりのローテーションはどうなっているのですか!?」

一瞬の沈黙の後。

「……あ、あれ?」

「感動の再会じゃないの?」

「通常運転だ……」

騎士たちが顔を見合わせ、そして一斉に笑い出した。

「わははは! やっぱ姉さんはこうでなくちゃ!」

「これだよこれ! この檄が飛ばないと調子が出ねぇ!」

「さーせん! すぐ抜きます!」

みんなが笑っている。

怒られているのに、嬉しそうだ。

ネリネもまた、厳しい顔を崩し、堪えきれずに吹き出した。

「もう……本当に、手のかかる部下たちですこと!」

彼女は振り返り、シリウスを見た。

シリウスもまた、穏やかな目で彼女を見ていた。

「帰ってきたな、ネリネ」

「ええ、あなた」

ネリネは大きく息を吸い込んだ。

冷たい風、土の匂い、そして人々の熱気。

ここが、私の居場所。

ここが、私の王国。

「さあ、感傷に浸る時間は終わりです! お土産の配布と、王都での戦果報告会を行います! その後は温泉掘削の進捗確認です! 全員、配置につきなさい!」

「イエッサー!!」

元気な返事が北の空に響き渡る。

悪役令嬢ネリネの「辺境改革」は、まだ終わらない。

結婚という新たな契約を結び、最強のパートナーを得た彼女の快進撃は、ここからが本番なのだ。

夕日が沈み、一番星が輝き始める。

その星は、二人の未来を祝福するように、強く、優しく瞬いていた。
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