婚約破棄、取り消せませんわよ?

黒猫かの

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「天候、快晴。風速、微風。気温、二〇度。……完璧なコンディションです」

結婚式当日の朝。

ネリネは自室の窓を開け、澄み渡る青空を見上げて満足げに頷いた。

「私の日頃の行いが良いからでしょう。神も『効率』を愛しているようです」

「ネリネ様ぁぁ! そんなこと言ってる場合じゃないですよぉ!」

部屋に飛び込んできたミモザが、すでに泣きそうな顔をしている。

「早く着替えないと! メイクもしなきゃ! 時間がありません!」

「落ち着きなさい、ミモザ。タイムスケジュールは私の頭に入っています。一分の遅延も許しませんわよ」

ネリネは優雅に鏡の前に座った。

今日のために仕立てられた純白のウェディングドレス。

シリウスの希望通り、武器の仕込みはない。

ふんだんにあしらわれたレースとシルク、そして何層にも重なる柔らかなスカート。

まさに「お姫様」のためのドレスだ。

「……ふむ。防御力はゼロですが、可動域は意外と確保されていますね」

「もう、防御力とか言わない! さあ、世界一綺麗な花嫁にしちゃいますからね!」

ミモザとメイド(ポポも手伝っている)たちが、手際よくネリネを飾り立てていく。

髪は緩やかに編み込み、野の花で作った冠を乗せる。

化粧は薄めに、しかし素材の良さを最大限に引き出すように。

一時間後。

鏡の中に映っていたのは、いつもの「冷徹な悪役令嬢」ではなく、どこからどう見ても「幸せな花嫁」だった。

「……ううっ、綺麗ですぅ……」

ミモザが感極まって泣き出す。

「ありがとうございます。貴女のマネジメント能力を再評価します」

ネリネは照れ隠しにそう言い、そっと自分の頬に触れた。

(……悪くない顔をしていますわね、私)

***

会場となるチャペルは、すでに熱気に包まれていた。

壁一面に飾られた色とりどりの野花が、甘い香りを漂わせている。

参列席には、ハンカチで目頭を押さえる騎士団の男たち(全員号泣)、楽しそうに談笑する領民たち、そして……。

「うむ、良い式場だ。金ピカの王城より風情がある」

最前列には、変装もせず堂々と座る国王陛下の姿があった。

「陛下、飲み物のおかわりはいかがですか?」

「おお、気が利くな。頼むぞ、ギデオン」

ウェイターとして忙しく動き回るギデオン(元王子)が、手際よくワインを注いでいる。

「ははっ、まさか元王子に給仕される日が来るとはな」

「光栄です。チップは弾んでくださいね」

かつての親子が、不思議な距離感で笑い合っている。

そこへ、パイプオルガン(シリウスが王都から取り寄せた)の音が響き渡った。

全員が起立する。

扉が開いた。

逆光の中、ネリネが姿を現す。

息を呑むような美しさ。

しかし、彼女の隣にはエスコートする父親(公爵)はいない。絶縁したからだ。

ネリネは一人で歩き出そうとした――その時。

「……待て」

席から立ち上がった国王が、スッとネリネの横に立った。

「へ、陛下?」

「父親の代わりとはいかんが……この国の王として、そして新しい門出を祝う友人として。エスコートさせてくれんか?」

国王が茶目っ気たっぷりに腕を差し出す。

ネリネは一瞬驚いたが、すぐにニッコリと微笑んだ。

「……喜んで。転ばないように支えてくださいませ?」

「任せておけ」

ネリネは国王の腕に手を添え、バージンロードを歩き出した。

一歩、また一歩。

花びらの舞う道を進む。

祭壇の前で待っているのは、正装に身を包んだシリウスだ。

いつもの野性味あふれる雰囲気はそのままに、今日は髪を整え、緊張でカチコチになっている。

(ふふっ、顔が強張っていますわよ、閣下)

ネリネは心の中で笑う。

祭壇に到着し、国王からシリウスへと、ネリネの手が渡される。

「頼んだぞ、辺境伯」

「……はい。命に代えても」

シリウスの声は震えていたが、力強かった。

二人は祭壇の前に並んだ。

神父(近隣の村から来たおじいちゃん)が、咳払いをして誓いの言葉を述べる。

「新郎、シリウス・グラン。汝、健やかなる時も、病める時も、富める時も、貧しき時も……」

「誓います!」

シリウスが食い気味に答えた。

「俺は、こいつを守るために生きます。こいつが笑ってくれるなら、他に何もいりません」

定型文ではない、彼自身の言葉。

会場から「ヒュー!」と口笛が飛ぶ。

「新婦、ネリネ・フォン……いえ、ネリネ・グラン。汝、同様に誓いますか?」

ネリネはシリウスを見上げた。

その瞳に、自分の姿が映っている。

「……誓います」

彼女は静かに、しかし会場の隅々まで届く声で宣言した。

「私は、貴方を管理し、支え、そして愛することを誓います。いかなるリスク(困難)が訪れようとも、二人で最適解を導き出し、黒字(幸せ)な家庭を築くことを、ここに契約(約束)いたします」

ネリネらしい、合理的で愛に溢れた誓い。

「では、誓いのキスを」

神父が促す。

クライマックスだ。

シリウスが、ゆっくりとベールを上げる。

至近距離で見つめ合う二人。

シリウスの顔が近づいてくる。

ドクン、ドクン。

ネリネの心拍数が急上昇する。

(ま、待ってください。これは……公開処刑(パブリック・エクスキューション)ではありませんか?)

数百人の視線が集中している。

冷静な計算など吹き飛び、猛烈な羞恥心が襲ってきた。

(無理です! 恥ずかしい! 顔から火が出そうです!)

シリウスの唇が触れる直前。

ネリネは反射的に、ブーケの中に隠し持っていた「扇子」を取り出し、バッと開いて自分の顔を隠してしまった。

「……っ!?」

シリウスが止まる。

会場がざわめく。

「ネ、ネリネ?」

「……タイムアウトです。恥ずかしすぎてシステムエラーが発生しました。一旦、冷却時間を……」

扇子の向こうから、くぐもった声が聞こえる。

「いや、今ここで冷却してる場合じゃないだろ!」

「見ないでください! 今、私の顔面温度は沸騰寸前です!」

いつもの強気な彼女が、真っ赤になって拒否している。

その可愛らしい姿に、会場から笑いが漏れた。

シリウスは苦笑し、そして優しく、しかし強引に扇子を掴んだ。

「……だめだ」

「え?」

彼は扇子を取り上げ、放り投げた。

「隠すな」

シリウスの手が、ネリネの頬を包み込む。

「顔を見せろ。……俺の妻だ」

甘く、低い声。

ネリネが抵抗を止める。

潤んだ瞳で彼を見上げる。

「……馬鹿。……独占欲が強いですわ」

「お前限定だ」

シリウスは迷わず、その唇を塞いだ。

チュッ。

青空の下、鐘の音が鳴り響く。

「うおおおおぉぉッ!!」

「おめでとうーー!!」

「キスしたー! 長いぞー!」

爆発のような歓声。

大量の花びらが降り注ぎ、二人を祝福する。

ネリネは目を閉じ、シリウスの温もりを感じていた。

計算も、効率も、全てがどうでもよくなるような、幸福な瞬間。

唇が離れると、シリウスは少年のような笑顔を見せた。

「……愛してるぞ、ネリネ」

「……私もです。計算できないくらい、貴方を愛していますわ」

ネリネは満面の笑みで答えた。

その笑顔は、かつて王都で浮かべていた冷たい微笑みとは違う。

太陽のように明るく、最高に幸せな「主人公」の笑顔だった。

「さあ! 宴の始まりだ!」

シリウスがネリネを抱き上げる。

いわゆる「お姫様抱っこ」だ。

「きゃっ! か、閣下! 重いでしょう!」

「軽い軽い! このまま屋敷まで走ってやる!」

「あははは! もう、無茶苦茶ですわ!」

二人は歓声の中、未来へと走り出した。

その後ろ姿を見送りながら、ミモザは涙を拭き、ギデオンは空になったグラスを掲げ、国王は満足げに頷いた。

北の辺境。

かつては何もなく、寒く、寂しい場所だった。

だが今は、王国で一番熱く、輝いている場所だ。

なぜならそこには、最強の騎士と、最高の悪役令嬢がいるのだから。
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