え、追放してくれるんですか?じゃあ退職金代わりにその冷徹宰相をください

黒猫かの

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「では閣下、私の私物を回収するために、一度『元・職場』へ寄らせていただいても?」

王宮の長い回廊を歩きながら、私は隣を歩く新しい上司に尋ねた。

アイザック宰相は、懐中時計を一瞥して頷いた。

「許可する。ただし、時間はかけられない。私の執務室の書類が、今この瞬間も細胞分裂のように増殖しているからな」

「ご安心ください。撤収作業は三分で終わらせます」

「三分? 夜逃げでも、もう少しかかるぞ」

「夜逃げではありません。戦略的撤退です」

私は早足で進んだ。

向かう先は、王宮の西棟。

第一王子クラークの執務室兼、私の元・牢獄である。

ガチャリ。

扉を開けると、そこには見慣れた光景が広がっていた。

山積みの未決裁書類。

飲みかけの紅茶。

脱ぎ捨てられた上着。

(ああ、汚い。相変わらず整理整頓という概念がない部屋ですね)

以前なら、「はぁ……」と深いため息をついて片付け始めていたところだ。

だが、今は違う。

この散らかった部屋を見ても、何の義務感も湧いてこない。

むしろ、「これを片付けなくていい」という事実に、背中がゾクゾクするほどの快感を覚える。

「さて、始めますか」

私は部屋の隅から、予備の木箱を引きずり出した。

「閣下、タイムキーパーをお願いします」

「いいだろう。……用意、スタート」

アイザック宰相の掛け声と共に、私は動いた。

残像が見えるほどの速度で。

「まずはこれ! 私の私物である高性能羽ペンセット! 回収!」

シュバッ!

「長時間座っても腰が痛くならない特注の低反発クッション! 回収!」

バフッ!

「ストレス解消用に隠し持っていた激辛乾燥肉(ジャーキー)! 回収!」

サッ!

私は自分の金で購入した備品を、次々と木箱へ放り込んでいく。

王子の執務室にある「使えるもの」の八割は、私の私物だ。

国から支給される備品は質が悪く、効率が落ちるため、自腹を切って揃えていたのだ。

「……速いな」

扉に寄りかかって見ていたアイザック宰相が、感心したように呟く。

「迷いがない。まるで、この日を予期していたかのようだ」

「備えあれば憂いなしです。いつか『限界』が来たときのために、持ち出しリストは脳内で作成済みでしたから」

私は手を休めずに答える。

「次! この観葉植物! 私が種から育てた『癒やしの木』です! これも回収!」

「待て。それはさすがに嵩張(かさば)るだろう」

「いえ、これは私の精神安定剤ですので必須です」

私は植木鉢を小脇に抱え、さらに机の上の書類の山へ視線を向けた。

そこには、私が途中まで仕上げていた『来年度予算案』や『隣国との通商条約草案』が置かれている。

これらは私の知恵と汗の結晶だ。

だが。

「これらは……放置!」

私は書類の山をスルーした。

「いいのか? 君が苦労して作ったものではないのか?」

「ええ。ですが、これは『公務』の成果物ですので、所有権は王家にあります。私が持ち出すと横領になりますからね」

私はニッコリと笑った。

「それに、完成直前で止めてあります。あと少し計算すれば終わりますが……その『あと少し』が、あの王子にできるかどうか見ものです」

「……性格が悪いな」

「お褒めにあずかり光栄です」

私は木箱の蓋を閉めた。

これで荷造りは完了だ。

時計を見る。

「二分四十秒。予定通りですね」

「見事だ。では行くか」

「いえ、あと一つだけ。大事な仕事が残っています」

私は机に向かい、一枚の紙を広げた。

そして、インクをたっぷりとつけたペンで、巨大な文字を書き殴った。

『引継書』

「……ほう」

アイザック宰相が興味深そうに覗き込む。

「引継書か。立つ鳥跡を濁さず、というやつだな。殊勝な心がけだ」

「ええ。後任者が困らないよう、必要最低限の情報を残しておくのが社会人のマナーですから」

私はサラサラとペンを走らせた。

そこには、私の十年間の苦労と、王子へのささやかな復讐(親切心)が詰め込まれていた。

---

【クラーク王子取扱説明書(兼・業務引継書)】

1.隠し金庫の暗証番号について
 『0000』です。殿下が複雑な番号を覚えられないため、初期設定のままにしてあります。セキュリティ意識の低さを呪ってください。

2.印鑑の場所について
 殿下が「失くした!」と騒ぐたびに探すのが面倒なので、額縁の裏に貼り付けてあります。ちなみに、前回失くしたと言っていた印鑑は、殿下のポケットに入っています。洗濯前に確認してください。

3.おやつの管理について
 引き出しの二段目は「糖分補給エリア」です。ただし、殿下はあればあるだけ食べるので、一日にクッキー三枚までに制限してください。それ以上与えると、夕食が入らなくなり、王妃様に怒られるのは貴方(後任者)です。

4.機嫌の取り方について
 殿下が「疲れた」「やりたくない」と駄々をこねた際は、「さすが殿下、天才ですね!」と三回唱えてください。チョロいので、それで三十分は持ちます。

5.最後に
 これらの業務を、私は一人で行っていました。後任の方は、最低でも三人は用意することをお勧めします。それでは、グッドラック。

元・婚約者兼・奴隷 ナギー・ベルシュタインより

---

「……」

書き上がった引継書を読み、アイザック宰相が沈黙した。

肩が小刻みに震えている。

「く、くくっ……! 『初期設定のまま』……『チョロい』……! これは……傑作だ!」

彼は眼鏡を外して涙を拭った。

「これを読んだ時のクラークの顔が見ものだな。……コピーをとっておきたいくらいだ」

「原本を机のど真ん中に置いておきます。文鎮代わりに、この使い古したペン先を刺して」

私はドン! と机に引継書を設置した。

まるで墓標のようだ。

「これで私の未練も断ち切れました。さようなら、私の青春(暗黒時代)」

私は部屋を見渡した。

もう、この部屋に戻ってくることはないだろう。

明日からは、この陰気な部屋ではなく、宰相官邸の……噂によると「魔窟」と呼ばれる職場が待っている。

「行きましょう、閣下。私の新しい戦場へ」

私は木箱を持ち上げようとした。

すると。

「貸せ」

アイザック宰相が、私の手から木箱をひょいと取り上げた。

「えっ? あ、あの、閣下? それは部下の荷物ですが」

「これからこき使う部下だ。今のうちに体力を温存させておくのも、上司の管理能力のうちだ」

彼は涼しい顔で、重い木箱を片手で抱えた。

スマートだ。

クラーク王子なら、「重いから持って」と私に押し付けてきただろう場面だ。

「……ありがとうございます」

「礼には及ばん。その代わり、官邸に着いたら馬車馬のように働いてもらう」

「はい! いななきながら働きます!」

「ふっ、頼もしいな」

私たちは並んで部屋を出た。

背後で、重厚な扉が閉まる音がした。

バタン。

その音は、私の過去との決別の合図のように聞こえた。

廊下には、まだパーティーの喧騒が遠くから響いている。

だが、私たちはその光の方へは戻らない。

王宮のさらに奥深く。

国の頭脳が集まる、静寂と激務の聖域へ。

私はヒールの音を高く鳴らし、アイザック宰相の背中を追った。

不思議と、足取りは羽が生えたように軽かった。
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