え、追放してくれるんですか?じゃあ退職金代わりにその冷徹宰相をください

黒猫かの

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王宮の本棟を抜け、渡り廊下を進むこと数分。

空気の色が変わった。

華やかな音楽や貴族たちの話し声は遠ざかり、代わりに肌を刺すような静寂が支配するエリア。

そこに、その建物はそびえ立っていた。

『宰相官邸』

この国の行政中枢であり、あらゆる政策、法案、予算が決定される心臓部。

石造りの重厚な外観は、まるで要塞のようだ。

「……静かですね」

私は、夜闇に沈むその巨塔を見上げて呟いた。

「灯りがついている部屋が、ひとつもありませんが」

時刻はまだ夜の九時。

ブラック……いえ、激務で知られる宰相府にしては、あまりにも静まり返っている。

「省エネか何かですか?」

「いいや」

アイザック宰相は、私の荷物を持ったまま淡々と答えた。

「人がいないだけだ」

「人がいない?」

「ああ。先週、最後の生き残りが辞表を出して逃亡した」

「……はい?」

私は思わず立ち止まった。

最後の生き残り。

その不穏な単語は、行政機関で使われていい言葉ではないはずだ。

「閣下、それはつまり……現在、この巨大な官邸で働いている職員は?」

「私一人だ」

「……」

「清掃員も逃げた。給仕も逃げた。警備兵ですら『宰相閣下の殺気が強すぎて眠れない』と配置換えを希望して去っていった」

「……」

なんと。

ここは職場ではない。

『魔境』だ。

「どうする? 今ならまだ引き返せるぞ」

アイザック宰相が振り返り、試すような視線を投げてくる。

「クラークに頭を下げて、やっぱり婚約破棄を撤回してくださいと泣きつくか?」

私は、ふん、と鼻を鳴らした。

「冗談をおっしゃらないでください。人がいない? 最高じゃないですか」

「ほう?」

「無能な同僚に足を引っ張られることも、長話好きのお局様に捕まることもない。純粋に仕事だけに集中できる環境……! それを『天国』と呼びます」

「……くくっ、天国、か」

アイザック宰相が肩を震わせる。

「常人なら『地獄』と呼ぶ場所を天国と言い切るとは。やはり君は狂っているな(褒め言葉だ)」

「最高の賛辞をどうも。さあ、案内してください。私の新しい城を」

「ついて来い」

重たい扉が開かれる。

ギィィィ……という音が、廃屋のそれに近い。

中に入ると、冷んやりとした空気が漂っていた。

廊下には埃ひとつ落ちていない。

清掃員がいないと言っていたが、アイザック宰相の潔癖さが、細菌すらも寄せ付けないのかもしれない。

私たちは、最上階にある執務室へと向かった。

「ここだ」

アイザック宰相が、観音開きの扉に手をかける。

「覚悟はいいか?」

「いつでも」

バンッ。

扉が開かれた。

その瞬間。

私は息を呑んだ。

「こ、これは……」

目の前に広がっていたのは、白い山脈だった。

床から天井近くまで積み上げられた、書類、書類、書類。

壁が見えない。

窓すらも書類の束で塞がれている。

机の上は言うに及ばず、ソファーの上、暖炉の中、シャンデリアの上にまで紙束が乗っている(どうやって乗せたんだ)。

雪崩(なだれ)が起きる寸前の、絶妙なバランスで保たれた紙の塔。

「……すまないな。少々、溜まっている」

アイザック宰相が、バツが悪そうに視線を逸らした。

「私がすべて決裁しなければならない重要書類だ。だが、物理的に手が足りん。仕分けをする人間も、下書きを作る人間もいないからな」

彼は、部屋の入口近くにあるわずかな隙間(獣道のような通路)を指差した。

「あの奥に私の机がある。君の席は……そうだな、そこの書類の山をどかせば確保できるだろう」

普通の人間なら、ここで絶望して逃げ出すだろう。

あるいは、気絶するかもしれない。

だが。

私は震えていた。

恐怖で?

いいえ。

「……宝の山だわ」

「え?」

私は恍惚(こうこつ)とした表情で、書類の山に駆け寄った。

優しく、紙束に触れる。

「見てください閣下、これ! 三年前の農地改革案の未決裁分! こっちは隣国との関税交渉の資料! うわぁ、幻の『王都地下水道整備計画書』まである!」

私は目を輝かせた。

「これらがすべて、手つかずで眠っていたなんて……! ここには国の未来と、利権と、予算が埋まっている! まさにゴールドラッシュ!」

「……君、本当に大丈夫か?」

さすがのアイザック宰相も、若干引いている。

私は構わずに続けた。

「素晴らしいです。王子が握りつぶしていた下らないパーティーの招待状整理とは次元が違う! これらを処理すれば、国の生産性は劇的に向上し、巡り巡って私のボーナスも跳ね上がる……!」

脳内でソロバンが弾かれる音がした。

チャリンチャリンチャリン!

私は袖をまくり上げた。

ドレスのままだが、構わない。

戦闘態勢だ。

「閣下! まずは動線を確保します! 私が仕分けを行いますので、閣下は『決裁』の判子(ハンコ)を握りしめて待機していてください!」

「お、おい。まだ着いたばかりだぞ。休憩は……」

「休憩? そんなものは、この山を平地にしてから言えばいいのです!」

私は近くにあった空の木箱(さっき持ってきた私物入れ)をひっくり返し、即席の踏み台にした。

「さあ、始めますよ! ジャンル別に分けます! 『即時決裁』『要審議』『破棄』『ゴミ(王子のポエムなど)』の四分類でいきます!」

「……王子のポエムがなぜここにある?」

「どこにでも湧くんですよ、あれは。さあ、行きます!」

私は書類の塔の一角を引き抜いた。

ジェンガのように崩れ落ちてくる書類の雪崩を、華麗な手さばきで空中でキャッチし、次々と分類していく。

シュババババッ!

「これは治水工事の認可! 承認!」

ポンッ!

「これは貴族の脱税疑惑の告発状! 最優先調査!」

サッ!

「これは……『クラーク王子の肖像画購入予算申請書』? 却下! 燃えるゴミ行き!」

クシャッ、ポイッ。

私の動きは、機械のように正確で、嵐のように激しかった。

数分後。

入り口付近の床が見えた。

「……速い」

アイザック宰相が呟いた。

彼は呆然と立ち尽くしていたが、やがてその口元に、凶悪な笑みが浮かんだ。

眼鏡の奥の瞳が、ギラリと光る。

「くく……なるほど。これが『即戦力』という意味か」

彼は上着を脱ぎ捨て、私の隣に立った。

「いいだろう。部下がこれだけやる気を見せているのだ。上司が負けているわけにはいかんな」

「その通りです閣下。私のスピードについてこれますか?」

「愚問だ。私はこの国の宰相だぞ?」

アイザック宰相が、愛用の万年筆を抜いた。

その瞬間、空気が変わった。

「来い、ナギー。すべて裁いてやる」

「はいっ!」

私は仕分けた書類の束を、彼にパスした。

彼は内容を一瞥(いちべつ)しただけで、恐ろしい速度で署名と捺印を行っていく。

ガガガガガッ!

インクが紙を叩く音が、機関銃のように響く。

「次!」

「はい、これです!」

「承認! 次!」

「却下案件です!」

「理由を述べよ!」

「予算オーバーかつ費用対効果が不明瞭!」

「よし、差し戻し! 次!」

静寂だった宰相官邸の執務室に、熱気が渦巻き始めた。

二人の狂ったワーカーホリックによる、深夜の狂宴。

それは、まるでダンスのようだった。

言葉を交わさずとも呼吸が合う。

私が欲しい書類を彼が求めているのがわかる。

彼が書き終えた瞬間に、私が次の紙を差し出している。

(……楽しい!)

私は心の中で叫んだ。

今まで、クラーク王子の元では感じたことのない感覚。

私の全力を受け止め、さらに上の速度で返してくる相手。

アクセルをベタ踏みしても壊れない高性能なエンジンを手に入れたドライバーのような高揚感。

「ナギー、お茶!」

「はい、準備済みです!」

私は片手で書類を整理しながら、いつの間にか(持ち込んだ私物セットで)淹れていた紅茶を差し出す。

「……完璧な温度だ」

アイザック宰相は一口飲み、ニヤリと笑った。

「君、本当に人間か? 実は精霊か何かが化けているんじゃないか?」

「失礼な。ただの訓練された『社畜』です」

「社畜? 聞いたことのない単語だが……気に入った」

彼は再びペンを走らせる。

「今夜は帰さんぞ。この山がなくなるまで」

「望むところです。朝日が昇るのと、この部屋の床が見えるのと、どちらが早いか勝負ですね!」

窓の外では、月が静かに輝いていた。

だが、この部屋の中だけは真昼のように明るく、そして熱かった。

かつて誰も定着しなかった『魔境』。

しかし私にとっては、こここそが安住の地(オアシス)になる予感がしていた。

……まあ、客観的に見れば、深夜に残業して喜んでいるただの不審者二人組なのだが。
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