え、追放してくれるんですか?じゃあ退職金代わりにその冷徹宰相をください

黒猫かの

文字の大きさ
6 / 28

6

しおりを挟む
チュン、チュン……。

小鳥のさえずりが聞こえる。

窓のカーテンの隙間から、白々とした朝日が差し込んでいた。

徹夜明けの執務室。

そこには、異様な光景が広がっていた。

「……終わった」

私がポツリと呟くと、その声はガランとした部屋によく響いた。

数時間前まで、そこには天井に届くほどの「書類のエベレスト」があった。

だが今は。

ない。

跡形もない。

あるのは、綺麗に分類され、紐で縛られ、決裁印を押されて整列した「処理済み案件」の塔だけだ。

床が見える。

壁が見える。

なんなら、部屋の隅にあった観葉植物(枯れかけ)まで救出し、私の持参した栄養剤で復活させておいた。

「……信じられん」

アイザック宰相が、愛用の万年筆をコトリと机に置いた。

その顔には疲労の色よりも、信じがたい奇跡を目撃したような驚愕が張り付いている。

「三年分だぞ? 通常の行政官が十人で掛かっても半年はかかる量を……たった一晩で?」

彼は眼鏡を外し、指で眉間を揉んだ。

「君、指先から『加速魔法』でも出しているのか?」

「いいえ。ただの『定時退社への執念』です」

私は凝り固まった肩を回し、ボキボキと音を鳴らした。

「残業は敵です。敵を殲滅(せんめつ)するためなら、私は修羅にもなります」

「修羅か……。頼もしい限りだ」

アイザック宰相は、ふっと笑った。

それは、戦場を共に生き残った戦友に向けるような、清々しい笑顔だった。

「礼を言う、ナギー。君がいなければ、私はこの書類の山の下で孤独死していたかもしれん」

「お役に立てて光栄です。これでボーナス査定は最高評価(Sランク)確定ですね?」

「ああ、約束しよう。……それにしても」

彼は椅子に深く座り直し、私をじっと見つめた。

その瞳にあるのは、純粋な疑問だ。

「解せないな」

「何がでしょう?」

「それだけの能力がありながら、なぜ今まであの愚かなクラークの下で甘んじていた?」

痛いところを突かれた。

私は入れたてのコーヒー(もちろん私物)を彼に差し出しながら、苦笑した。

「……不思議ですか?」

「ああ。君なら、もっと早くに見切りをつけて、独立するなり、私のような……理解ある上司を探すなりできたはずだ」

アイザック宰相は、私の淹れたコーヒーを一口飲み、満足げに目を細める。

「君の才能は、王子の尻拭いに使うにはあまりに惜しい。宝石で泥道を舗装するようなものだ」

「相変わらず比喩が独特ですね」

私は自分のカップを手に取り、窓の外を眺めた。

朝焼けに染まる王都の街並みが美しい。

「理由はシンプルです。一つは『王命』という名の呪い」

「……ふむ。先代国王が決めた婚約か」

「はい。王命は絶対です。私が勝手に破棄すれば、実家のベルシュタイン伯爵家が取り潰しになりかねません。家族を路頭に迷わせるわけにはいきませんでしたから」

「……責任感が強いな」

「いいえ、計算高いだけです。家族が破産すれば、私の老後の生活設計も狂いますので」

私は肩をすくめた。

「それともう一つ。……『サンクコスト(埋没費用)』への未練、でしょうか」

「サンクコスト?」

聞き慣れない経済用語に、宰相が首を傾げる。

「はい。『これだけ投資したのだから、今さら撤退するのはもったいない』という心理です」

私は指折り数えた。

「十年間ですよ? 十年間、私はあのアホ……いえ、王子を立派な王にするために、教育コストと労力を注ぎ込み続けました。ここで投げ出したら、その努力がすべて無駄になる。もう少し頑張れば、まともになるかもしれない。あと少し我慢すれば、元が取れるかもしれない……」

そこまで言って、私は自嘲気味に笑った。

「まるで、当たらないギャンブルに全財産を突っ込み続ける愚か者ですね」

そう。

私は心のどこかで期待していたのだ。

いつか、クラーク王子が成長して、「ナギー、いつもありがとう」と言ってくれる日を。

まともな君主になってくれる日を。

だが、昨夜の婚約破棄で、その幻想は木っ端微塵に砕け散った。

「……なるほどな」

アイザック宰相の声は優しかった。

同情ではなく、理解者の響きがあった。

「だが、君は損切り(ロスカット)のタイミングを見誤らなかった。昨夜のあの瞬間が、ギリギリのラインだったのだろう」

「ええ。おかげで目が覚めました。不良債権(王子)は切り捨てて、優良株(閣下)に乗り換えるのが正解だと」

私がニヤリと笑うと、アイザック宰相もつられて笑った。

「私が優良株か。買い被りすぎではないか? 見ての通り、ここはブラック職場だぞ」

「ですが、上司が優秀です。話が通じます。そして何より……」

私は、綺麗になった机の上をポンと叩いた。

「『仕事が終わる』という達成感があります。王子の元では、賽(さい)の河原のように、積んでも積んでも崩される徒労感しかありませんでしたから」

「……」

アイザック宰相は、まじまじと私を見た。

そして、不意に立ち上がると、私の目の前まで歩み寄ってきた。

長身の彼に見下ろされ、私は少しだけ首を反らせる。

「ナギー・ベルシュタイン」

「は、はい?」

改まって名前を呼ばれ、少し緊張する。

彼は真剣な眼差しで言った。

「私はクラークとは違う」

「はぁ」

「君の努力を無駄にはしない。君が積み上げたものを、私が崩すことはない。君の能力を、正当に評価し、対価を払う」

彼は私の手を取り、その甲に、騎士の誓いのように額を寄せた……かと思いきや、私の手首に巻かれた腕時計(魔道具)を見た。

「……そして、君の定時退社も、可能な限り尊重しよう」

「!」

ズキュン。

私の胸の奥で、何かが撃ち抜かれる音がした。

愛の告白?

いいえ、もっと尊いものです。

これは『労働条件の確約』です!

「閣下……! 一生ついていきます!」

「大袈裟だな。だが、悪い気はしない」

彼は私の手を離し、満足げに頷いた。

「さて、仕事も片付いたことだ。朝食にしよう」

「お、いいですね。社食が開く時間ですか?」

「いや。私がご馳走しよう。王都で一番美味いベーカリーを知っている」

「経費で?」

「私のポケットマネーだ」

「ゴチになります!」

私たちは上着を羽織り、清々しい空気の中、部屋を出た。

徹夜明けの身体は重いが、心はかつてないほど軽い。

廊下を歩きながら、ふと疑問に思ったことを口にする。

「そういえば閣下。王城の方は今頃どうなっているでしょうね?」

昨夜、私が「引継書」を残して去ったあの部屋。

そして、今日から私なしで公務を回さなければならない王子たち。

「さあな。想像するのも恐ろしいが……」

アイザック宰相は、悪戯っ子のように口角を上げた。

「一つだけ確かなことは、今日の王城は『地獄』だということだ」

***

一方、その頃。

王宮の第一王子執務室。

「な、ななな、なんだこれはぁぁぁ!?」

クラーク王子の絶叫が響き渡っていた。

彼は、自分の机の上に置かれた一枚の紙を前に、顔面蒼白で震えていた。

『引継書』と書かれた紙。

そして、その横に鎮座する、羊皮紙の山。

「ど、どこにあるんだ!? 今日の会議の資料は!? 僕のスピーチ原稿は!? ていうか、僕のネクタイは誰が結んでくれるんだ!?」

王子はパニック状態で部屋中をひっかき回していた。

「ミルキー! ミルキーはどこだ!」

「あ、クラーク様ぁ~。これ見てぇ~」

部屋の隅で、ミルキー男爵令嬢が何かを持っていた。

「綺麗な色の水があったから、お花にあげちゃったぁ」

彼女が手にしていたのは、空になったインク壺。

そして、彼女の足元には、真っ青に染まった重要書類の束と、枯れてドロドロになった花瓶の花が転がっていた。

「……」

王子の思考が停止する。

それは、ナギーが昨夜、「これだけは絶対に触らないでください」と書き残していた『隣国皇帝への親書』の下書きだった。

「み、ミルキー……? それ、インク……」

「えっ? インクなのぉ? やだぁ、手が汚れちゃったぁ。拭いてぇ~」

彼女はインクまみれの手で、王子の真っ白な礼服に抱きついた。

ベタリ。

青い手形が、王子の胸元に刻印される。

「ぎゃああああああああ!」

王子の悲鳴が朝の王宮に木霊(こだま)した。

だが、誰も助けには来ない。

助けてくれるはずの有能な悪役令嬢は、今頃、美味しいクロワッサンを食べているのだから。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

殿下、私以外の誰かを愛してください。

八雲
恋愛
公爵令嬢ラブリーは、第一王子クロードを誰よりも愛していました。しかし、自分の愛が重すぎて殿下の負担になっている(と勘違いした)彼女は、愛する殿下を自由にするため、あえて「悪役令嬢」として振る舞い、円満に婚約破棄されるという前代未聞の計画を立てる。協力者として男爵令嬢ミリーを「ヒロイン役」に任命し、準備は整った。

謹んで、婚約破棄をお受けいたします。

パリパリかぷちーの
恋愛
きつい目つきと素直でない性格から『悪役令嬢』と噂される公爵令嬢マーブル。彼女は、王太子ジュリアンの婚約者であったが、王子の新たな恋人である男爵令嬢クララの策略により、夜会の場で大勢の貴族たちの前で婚約を破棄されてしまう。

婚約破棄される前に、帰らせていただきます!

パリパリかぷちーの
恋愛
ある日、マリス王国の侯爵令嬢クロナは、王子が男爵令嬢リリィと密会し、自分を「可愛げのない女」と罵り、卒業パーティーで「婚約破棄」を言い渡そうと画策している現場を目撃してしまう。 普通なら嘆き悲しむ場面だが、クロナの反応は違った。

婚約破棄されたので、とりあえず王太子のことは忘れます!

パリパリかぷちーの
恋愛
クライネルト公爵令嬢のリーチュは、王太子ジークフリートから卒業パーティーで大勢の前で婚約破棄を告げられる。しかし、王太子妃教育から解放されることを喜ぶリーチュは全く意に介さず、むしろ祝杯をあげる始末。彼女は領地の離宮に引きこもり、趣味である薬草園作りに没頭する自由な日々を謳歌し始める。

婚約破棄で、おひとり様になれるはずだったのに!?

パリパリかぷちーの
恋愛
主人公ルシアン・ヴァイオレットは、「悪役令嬢」として振る舞う孤独愛好家の公爵令嬢。念願だった第一王子アランとの婚約破棄を言い渡されると、内心では歓喜し、大都会の喧騒から逃れて森の奥の廃墟同然の別荘へと引きこもる。ルシアンの目的は、誰にも邪魔されない至高の静寂ライフを満喫することだった。 しかし、彼女の理想郷にはすでに先客がいた。それは、無口で無愛想だがハイスペックな謎の男、キース。実は彼は、王国の裏社会を統べる『影の英雄』と呼ばれる辺境伯であり、ルシアンの孤高の姿に心奪われた重度の隠れファンだった。

逃げた先で見つけた幸せはずっと一緒に。

しゃーりん
恋愛
侯爵家の跡継ぎにも関わらず幼いころから虐げられてきたローレンス。 父の望む相手と結婚したものの妻は義弟の恋人で、妻に子供ができればローレンスは用済みになると知り、家出をする。 旅先で出会ったメロディーナ。嫁ぎ先に向かっているという彼女と一晩を過ごした。 陰からメロディーナを見守ろうと、彼女の嫁ぎ先の近くに住むことにする。 やがて夫を亡くした彼女が嫁ぎ先から追い出された。近くに住んでいたことを気持ち悪く思われることを恐れて記憶喪失と偽って彼女と結婚する。 平民として幸せに暮らしていたが貴族の知り合いに見つかり、妻だった義弟の恋人が子供を産んでいたと知る。 その子供は誰の子か。ローレンスの子でなければ乗っ取りなのではないかと言われたが、ローレンスは乗っ取りを承知で家出したため戻る気はない。 しかし、乗っ取りが暴かれて侯爵家に戻るように言われるお話です。

婚約破棄、承りました!悪役令嬢は面倒なので認めます。

パリパリかぷちーの
恋愛
「ミイーシヤ! 貴様との婚約を破棄する!」 王城の夜会で、バカ王子アレクセイから婚約破棄を突きつけられた公爵令嬢ミイーシヤ。 周囲は彼女が泣き崩れると思ったが――彼女は「承知いたしました(ガッツポーズ)」と即答!

白い結婚で結構ですわ。愛人持ちの夫に興味はありません

鍛高譚
恋愛
公爵令嬢ルチアーナは、王太子アルベルトとの政略結婚を命じられた。だが彼にはすでに愛する女性がいた。そこでルチアーナは、夫婦の義務を果たさない“白い結婚”を提案し、お互いに干渉しない関係を築くことに成功する。 「夫婦としての役目を求めないでくださいませ。その代わり、わたくしも自由にさせていただきますわ」 そうして始まった王太子妃としての優雅な生活。社交界では完璧な妃を演じつつ、裏では趣味の読書やお茶会を存分に楽しみ、面倒ごととは距離を置くつもりだった。 ——だが、夫は次第にルチアーナを気にし始める。 「最近、おまえが気になるんだ」 「もっと夫婦としての時間を持たないか?」 今さらそんなことを言われても、もう遅いのですわ。 愛人を優先しておいて、後になって本妻に興味を持つなんて、そんな都合の良い話はお断り。 わたくしは、自由を守るために、今日も紅茶を嗜みながら優雅に過ごしますわ——。 政略結婚から始まる痛快ざまぁ! 夫の後悔なんて知りませんわ “白い結婚”を謳歌する令嬢の、自由気ままなラブ&ざまぁストーリー!

処理中です...