え、追放してくれるんですか?じゃあ退職金代わりにその冷徹宰相をください

黒猫かの

文字の大きさ
7 / 28

7

しおりを挟む
「……美味(うま)っ」

私は思わず声を漏らした。

サクッ、という軽快な音と共に、バターの芳醇な香りが口いっぱいに広がる。

王都の一角にある、隠れ家的なカフェテラス。

アイザック宰相が連れてきてくれた店で、私は人生最高レベルのクロワッサンを堪能していた。

「だろう? ここのパン職人は生地の層を折る回数に異常なこだわりを持っていてな。計算し尽くされた食感だ」

向かいの席で、アイザック宰相も優雅にコーヒーカップを傾けている。

徹夜明けだというのに、彼の肌には疲れひとつ見えない。

むしろ、朝日に照らされた銀縁眼鏡と整った横顔が、通り過ぎる女性客たちの視線を釘付けにしていた。

「まさか閣下が、こんな素敵なお店をご存知だとは。てっきり栄養補給は『錠剤』か『点滴』で済ませているのかと」

「失敬な。私は効率主義だが、味覚音痴ではない。良い仕事は、良い食事から生まれる」

彼は皿の上のスクランブルエッグをフォークで突きながら、ニヤリと笑った。

「それに、これからは君を餌付け……いや、労(ねぎら)う必要があるからな。美味しい店リストを更新しておくとしよう」

「餌付け、と言いかけましたね今」

「気のせいだ」

私はジト目で彼を見たが、口の中のクロワッサンがあまりに美味しいので追求はやめておいた。

ホワイトだ。

この職場は、眩しいほどにホワイトだ。

上司が奢ってくれる朝食。

静かな朝の時間。

王子の元ではありえなかった光景だ。あちらでは、朝食といえば王子の食べ残しか、移動しながら齧る硬いパンが相場だったのだから。

「ああ、幸せ……。このままここで永住したい」

私が背もたれに体を預けていると、カフェの入り口の方から、ドタドタと慌ただしい足音が近づいてきた。

「さ、宰相閣下ーーッ! いらっしゃいますかーーッ!?」

悲鳴のような叫び声。

店の空気が一瞬で張り詰める。

現れたのは、王宮の紋章が入った制服を着た、若い文官だった。

顔色は青を通り越して土気色。

髪は振り乱れ、目の下には濃いクマができている。

彼はテラス席にいる私たちを見つけると、溺れる者が藁(わら)にすがるような勢いで駆け寄ってきた。

「か、閣下! 探しました! 大変です! 緊急事態です!」

「……騒々しいな」

アイザック宰相は眉一つ動かさず、コーヒーカップをソーサーに置いた。

「今は朝食中だ。業務連絡なら官邸を通せと言ってあるはずだが」

「そ、そんな悠長なことを言っている場合ではありません! 王城が……王城が機能不全に陥っています!」

文官は泣きそうな顔で訴えた。

「第一王子殿下の執務室を中心に、行政機能が麻痺! 各省庁からの問い合わせが殺到し、電話回線(魔導通信)がパンク寸前です!」

「ほう」

「特に財務省からの突き上げが酷いんです! 『予算会議に王子が現れない』『提出された書類が白紙だ』『そもそも話が通じない』と!」

私はクロワッサンの欠片を指でつまみながら、冷静に尋ねた。

「あの、すみません。王子が出勤していないのですか?」

文官が私に気づき、ハッとした表情になる。

「ナ、ナギー様!? なぜここに……ああ、いえ、今はそれどころでは! 王子は出勤されています! されていますが……!」

文官は声を潜め、震えながら言った。

「……執務室から一歩も出てこられないのです」

「なぜ?」

「『服がない』と」

「ブフッ!」

私は思わず吹き出しそうになった。

アイザック宰相も、口元を手で覆って肩を震わせている。

「ふ、服がない? 王城にか?」

「はい……。いえ、物理的にはあるのです。クローゼットには何百着もの最高級の衣装が。ですが……」

文官は絶望的な顔で続けた。

「どの服を選べばいいのか、わからないそうで……。『今日の天気は?』『ラッキーカラーは?』『TPOは?』とパニックになり、ミルキー嬢に選ばせた結果……」

「結果?」

「真っ赤な燕尾服に、緑の半ズボン、そして黄色のストールという、とんでもないコーディネートが完成しまして……」

「プッ……!」

私は耐えきれず笑い声を漏らした。

信号機か。あるいは道化師か。

「そ、それで、さすがにその格好では会議に出られないと侍従が止めたのですが、殿下は『ミルキーが選んでくれたんだ! これが最先端だ!』と譲らず、着替えに二時間かかり、ようやく部屋を出ようとしたところで……」

「ところで?」

「ミルキー嬢が『行ってらっしゃいのキス』をしようとして、殿下のズボンの裾を踏みつけ……二人もつれ合って転倒。殿下の前歯が少し欠けました」

「……」

想像を絶する地獄絵図だ。

もはやコメディを通り越してホラーである。

「それで殿下は『もう嫌だ! ナギーを呼べ! ナギーならなんとかしてくれる!』と泣き叫び、部屋に引きこもってしまわれたのです……!」

文官はガバッと私に頭を下げた。

「お願いします、ナギー様! 戻ってきてください! 貴女様がいなくなって、初めてわかりました! あの執務室の平和は、貴女様の犠牲の上に成り立っていたのだと!」

彼の悲痛な叫びに、周囲の客たちも何事かと注目している。

私は最後のクロワッサンを口に放り込み、ナプキンで口元を拭った。

そして、極めて涼やかな笑顔で答えた。

「お断りします」

「そ、そんな……!」

「私の今の所属は宰相官邸です。直属の上司は、こちらのアイザック閣下。他部署のトラブルに出張する義務はありません」

私はアイザック宰相を見た。

「そうですよね、閣下?」

「無論だ。私の大事な部下を、火事場に薪(まき)として放り込むつもりはない」

アイザック宰相は冷ややかに文官を一瞥した。

「それに、これは良い機会だ。クラークに現実を教えるためのな」

「げ、現実、ですか?」

「ああ。今までナギーがどれほどの重荷を背負っていたか。自分がどれほど無能であったか。それを骨の髄まで理解させなければ、成長など望めまい」

宰相の言葉は厳しかった。

だが、それは正論だった。

「放置しておけ。会議の一つや二つ、飛んだところで国は滅びん。精々、恥をかかせておけばいい」

「し、しかし……! 今日中に決裁が必要な書類が山ほど!」

「それなら、ここにある」

私が口を挟んだ。

「え?」

「昨日、私が徹夜で処理した書類の山。あれがそれです。宰相閣下の決裁印はすでに押してあります」

「は、はい?」

「つまり、王子の承認など待たずとも、行政手続き上は『宰相権限』ですべて処理済みだということです。文句があるなら、王子に『宰相より早く起きて仕事をしろ』と伝えてください」

文官はポカンと口を開けた。

「ぜ、全部……? あの量を……?」

「ええ。ですから、国は回り続けます。王子一人が引きこもっていても、何の問題もありません。……悲しい現実ですね?」

私は小首を傾げてみせた。

そう。

これが私の復讐の完成形だ。

私がいないと困るだろう、と王子は思っているかもしれない。

確かに現場は困る。

だが、国というシステムは、優秀な人間(私とアイザック)がいれば回るのだ。

王子は「いなくてもいい存在」であることを、突きつけられることになる。

「な、なんてことだ……」

文官は呆然と立ち尽くした。

アイザック宰相が立ち上がり、テーブルに代金のコインを置いた。

「行くぞ、ナギー。今日は『省庁再編案』の作成だ。忙しくなるぞ」

「はい、閣下。腕が鳴ります」

私たちは文官を残し、店を出た。

背後で「あ、あ、あのぉ……!」と声がしたが、振り返らない。

通りに出ると、王城の方角から、何やら黒い煙が上がっているのが見えた。

「……火事でしょうか?」

「いや、おそらくミルキー嬢が料理でもしようとして、厨房を爆破したんじゃないか?」

「ありえますね。……消防隊の手配、しておきましょうか?」

「放っておけ。ボヤ騒ぎくらいが、ちょうどいい刺激になる」

「閣下、鬼ですね」

「君ほどではないさ」

私たちは顔を見合わせ、クスクスと笑った。

王城の混乱は、まだ始まったばかり。

私のいない王子の日常が、どれほどハードモードか。

これからたっぷりと味わっていただこう。

「さて、まずは官邸の掃除からですね。あそこ、書類以外のゴミも結構ありましたから」

「頼む。私の聖域を綺麗にしてくれ」

「任せてください。断捨離は得意です。特に『過去の男』とか」

「……手厳しいな」

新しい職場へ向かう足取りは、昨日よりもさらに軽やかだった。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

殿下、私以外の誰かを愛してください。

八雲
恋愛
公爵令嬢ラブリーは、第一王子クロードを誰よりも愛していました。しかし、自分の愛が重すぎて殿下の負担になっている(と勘違いした)彼女は、愛する殿下を自由にするため、あえて「悪役令嬢」として振る舞い、円満に婚約破棄されるという前代未聞の計画を立てる。協力者として男爵令嬢ミリーを「ヒロイン役」に任命し、準備は整った。

謹んで、婚約破棄をお受けいたします。

パリパリかぷちーの
恋愛
きつい目つきと素直でない性格から『悪役令嬢』と噂される公爵令嬢マーブル。彼女は、王太子ジュリアンの婚約者であったが、王子の新たな恋人である男爵令嬢クララの策略により、夜会の場で大勢の貴族たちの前で婚約を破棄されてしまう。

婚約破棄される前に、帰らせていただきます!

パリパリかぷちーの
恋愛
ある日、マリス王国の侯爵令嬢クロナは、王子が男爵令嬢リリィと密会し、自分を「可愛げのない女」と罵り、卒業パーティーで「婚約破棄」を言い渡そうと画策している現場を目撃してしまう。 普通なら嘆き悲しむ場面だが、クロナの反応は違った。

婚約破棄されたので、とりあえず王太子のことは忘れます!

パリパリかぷちーの
恋愛
クライネルト公爵令嬢のリーチュは、王太子ジークフリートから卒業パーティーで大勢の前で婚約破棄を告げられる。しかし、王太子妃教育から解放されることを喜ぶリーチュは全く意に介さず、むしろ祝杯をあげる始末。彼女は領地の離宮に引きこもり、趣味である薬草園作りに没頭する自由な日々を謳歌し始める。

婚約破棄で、おひとり様になれるはずだったのに!?

パリパリかぷちーの
恋愛
主人公ルシアン・ヴァイオレットは、「悪役令嬢」として振る舞う孤独愛好家の公爵令嬢。念願だった第一王子アランとの婚約破棄を言い渡されると、内心では歓喜し、大都会の喧騒から逃れて森の奥の廃墟同然の別荘へと引きこもる。ルシアンの目的は、誰にも邪魔されない至高の静寂ライフを満喫することだった。 しかし、彼女の理想郷にはすでに先客がいた。それは、無口で無愛想だがハイスペックな謎の男、キース。実は彼は、王国の裏社会を統べる『影の英雄』と呼ばれる辺境伯であり、ルシアンの孤高の姿に心奪われた重度の隠れファンだった。

逃げた先で見つけた幸せはずっと一緒に。

しゃーりん
恋愛
侯爵家の跡継ぎにも関わらず幼いころから虐げられてきたローレンス。 父の望む相手と結婚したものの妻は義弟の恋人で、妻に子供ができればローレンスは用済みになると知り、家出をする。 旅先で出会ったメロディーナ。嫁ぎ先に向かっているという彼女と一晩を過ごした。 陰からメロディーナを見守ろうと、彼女の嫁ぎ先の近くに住むことにする。 やがて夫を亡くした彼女が嫁ぎ先から追い出された。近くに住んでいたことを気持ち悪く思われることを恐れて記憶喪失と偽って彼女と結婚する。 平民として幸せに暮らしていたが貴族の知り合いに見つかり、妻だった義弟の恋人が子供を産んでいたと知る。 その子供は誰の子か。ローレンスの子でなければ乗っ取りなのではないかと言われたが、ローレンスは乗っ取りを承知で家出したため戻る気はない。 しかし、乗っ取りが暴かれて侯爵家に戻るように言われるお話です。

婚約破棄、承りました!悪役令嬢は面倒なので認めます。

パリパリかぷちーの
恋愛
「ミイーシヤ! 貴様との婚約を破棄する!」 王城の夜会で、バカ王子アレクセイから婚約破棄を突きつけられた公爵令嬢ミイーシヤ。 周囲は彼女が泣き崩れると思ったが――彼女は「承知いたしました(ガッツポーズ)」と即答!

白い結婚で結構ですわ。愛人持ちの夫に興味はありません

鍛高譚
恋愛
公爵令嬢ルチアーナは、王太子アルベルトとの政略結婚を命じられた。だが彼にはすでに愛する女性がいた。そこでルチアーナは、夫婦の義務を果たさない“白い結婚”を提案し、お互いに干渉しない関係を築くことに成功する。 「夫婦としての役目を求めないでくださいませ。その代わり、わたくしも自由にさせていただきますわ」 そうして始まった王太子妃としての優雅な生活。社交界では完璧な妃を演じつつ、裏では趣味の読書やお茶会を存分に楽しみ、面倒ごととは距離を置くつもりだった。 ——だが、夫は次第にルチアーナを気にし始める。 「最近、おまえが気になるんだ」 「もっと夫婦としての時間を持たないか?」 今さらそんなことを言われても、もう遅いのですわ。 愛人を優先しておいて、後になって本妻に興味を持つなんて、そんな都合の良い話はお断り。 わたくしは、自由を守るために、今日も紅茶を嗜みながら優雅に過ごしますわ——。 政略結婚から始まる痛快ざまぁ! 夫の後悔なんて知りませんわ “白い結婚”を謳歌する令嬢の、自由気ままなラブ&ざまぁストーリー!

処理中です...