え、追放してくれるんですか?じゃあ退職金代わりにその冷徹宰相をください

黒猫かの

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時刻は午後三時。

俗に言う「おやつの時間」であるが、ここ宰相官邸の執務室において、そんな悠長な概念は存在しない。

あるのは「生存競争」と「書類との格闘」のみ。

カリカリカリカリッ!!

私の万年筆が、紙の上を疾走する音が室内に響き渡る。

「……ッ、よし! 北方森林保護区の予算案、修正完了!」

私は書き上げた書類を、勢いよく「決裁トレイ」へと放り込んだ。

「次! 港湾労働組合の賃上げ要求に対する回答書! これは過去の判例を引用して……」

私は次の書類に手を伸ばそうとした。

その時だった。

グゥゥゥゥ……。

腹の虫が鳴いた。

それも、可愛らしい音ではない。

地底の魔獣が唸るような、低く、重低音の響きだった。

「……」

部屋の空気が凍りついた。

向かいの席で仕事をしていたアイザック宰相の手がピタリと止まる。

彼はゆっくりと顔を上げ、銀縁眼鏡の奥から私を見据えた。

「……今の音は?」

私は表情一つ変えずに答えた。

「空腹信号(ハンガー・アラート)です。我が肉体のエネルギー残量が二〇パーセントを切ったことを知らせる、生体警告音かと」

「なるほど。わかりやすい機能だ」

アイザック宰相はペンを置き、立ち上がった。

「休憩だ」

「却下します。まだアドレナリンが出ています。このまま一気に……」

「命令だ。ガス欠の車を無理に走らせても、事故を起こすだけだ。効率が悪い」

彼は有無を言わせぬ迫力で私の手からペンを取り上げると、部屋の隅にあるサイドボードへと歩いていった。

「そこでおとなしく座っていろ。燃料を補給してやる」

「燃料……?」

私が首を傾げていると、彼は棚から豪奢な箱を取り出した。

漆黒の箱に、金の箔押しで王家の紋章が入っている。

「そ、それは……まさか」

私の目が釘付けになる。

アイザック宰相は手慣れた様子で箱を開け、中から現れた「それ」を皿に移し替えた。

チョコレートケーキだ。

ただのケーキではない。

幾層にも重なる濃厚なガナッシュと、ブランデーの香りを染み込ませたスポンジ。

表面には金粉が散らされ、宝石のように輝いている。

王都で一番予約が取れないと言われる、伝説のパティスリー『ラ・ルーン』の最高級オペラ。

お値段、ワンホールで平民の月収並み。

「ひっ……!」

私は息を呑んだ。

「か、閣下! それは贈答用などの特別な品では!?」

「ああ。先日の外交交渉で、隣国の使節団から貰ったものだ。甘いものは脳の回転を助けるらしいが、私は一人では食べきれん」

彼は皿を私の目の前に置いた。

フォークを添えて。

「処理班として、君を任命する。残さず食え」

「しょ、処理班……! そのような大役を……!」

私は震える手でフォークを握った。

王子の元では、乾パンか、しなびたリンゴくらいしか支給されなかった。

それが、最高級オペラ。

この職場の福利厚生はどうなっているんだ。

「い、いただきます!」

私はケーキの角を切り取り、口へと運んだ。

パクッ。

その瞬間。

脳内で花火が打ち上がった。

濃厚なカカオの香りが鼻腔を抜け、上品な甘さが舌の上でとろける。

疲れ切った脳細胞の一つ一つに、糖分が染み渡っていく感覚。

「んんっ……!」

思わず、変な声が出た。

「お、美味しい……! なんですかこれ、魔法ですか? 口の中が天国です!」

私は頬に手を当て、至福の表情で身悶えした。

「ああ、生きててよかった……! 婚約破棄されてよかった……!」

「……そこまで喜ぶとはな」

アイザック宰相が、向かいの席で頬杖をついて私を見ている。

その表情は、どこか満足げだ。

「いい食いっぷりだ。見ているこちらまで血糖値が上がりそうだ」

「閣下もどうですか? 半分こしましょう」

「いや、私は甘いものはそれほど……」

彼は言いかけて、ふと何かに気づいたように目を細めた。

「……ナギー、動くな」

「へ?」

アイザック宰相が突然、身を乗り出してきた。

長い指が伸びてくる。

私の口元へ。

「あ」

彼の親指が、私の唇の端をすっと拭った。

「クリームがついていた」

彼は拭ったクリームを無造作にナプキンで拭き取ると、何食わぬ顔で席に戻った。

ドクン。

私の心臓が、大きく跳ねた。

(い、今のは……?)

少女漫画的展開。

いわゆる『口元のクリームを取ってくれるイケメン』というやつだ。

普通の令嬢なら、ここで顔を赤らめて「ぽっ」となる場面だろう。

だが、私はナギー・ベルシュタイン。

即座に脳内会議を開き、今の事象を分析した。

『分析結果:閣下は潔癖症である。部下の顔が汚れていると、書類にシミがつくリスクを懸念したため、迅速な除去作業を行ったものと思われる』

うん、間違いない。

これは業務上のメンテナンスだ。

「……失礼しました。拭き取り作業、感謝します」

「気にするな。書類を汚されるよりマシだ」

ほら、やっぱり。

私は胸を撫で下ろした。

しかし、なぜだろう。

心臓の鼓動が収まらない。

糖分の過剰摂取による動悸だろうか?

それともカフェインの摂りすぎ?

「どうした? 手が止まっているぞ」

「い、いえ! 味わって食べているだけです!」

私は誤魔化すように、二口目を頬張った。

甘い。

さっきよりも、さらに甘く感じる。

「ところでナギー。そのケーキには、紅茶が合うはずだ」

アイザック宰相が立ち上がり、ポットのお湯を注ぎ始めた。

「閣下!? お茶を淹れるのは私の仕事です!」

「座っていろ。君は今、燃料補給中だろう。メンテナンス中の機体を動かすわけにはいかん」

彼は手際よく茶葉を蒸らし、カップに注いで私の前に置いた。

湯気と共に立ち上る、ベルガモットの高貴な香り。

「どうぞ。私の秘蔵のアールグレイだ」

「……」

至れり尽くせりだ。

上司が部下にお茶を淹れてくれる職場なんて、聞いたことがない。

「閣下。私を甘やかすと、ダメ人間になりますよ?」

私が冗談めかして言うと、彼は真顔で答えた。

「勘違いするな。これは『餌付け』ではない」

「では何で?」

「『投資』だ」

彼は自分のコーヒーを一口飲み、ニヤリと笑った。

「君という優秀なエンジンに、最高級のオイルと燃料を注ぐ。そうすれば、君はこれまでの倍のパフォーマンスで働いてくれるだろう?」

「……!」

なんと合理的な。

そして、なんと私のツボを突く言葉だろうか。

「愛」や「優しさ」でコーティングされるより、「投資価値がある」と言われた方が、私にとっては数倍嬉しい。

「承知しました! その投資、必ずリターンを出してみせます!」

私は残りのケーキを一気に平らげ、紅茶で流し込んだ。

全身に力がみなぎる。

視界がクリアになる。

「充電完了です、閣下! さあ、続きをやりましょう! 残りの書類はあと三百枚! 夕方までに殲滅します!」

「いい意気込みだ。では、私は財務省との折衝記録をまとめる。君は……」

「わかっています。国交省への根回し資料ですね?」

「話が早くて助かる」

私たちはカップを置くと同時に、再びペンを握った。

甘い時間は終わり。

ここからは、鉄と血(インク)の匂いがする戦場の時間だ。

だが、不思議と苦ではない。

口の中に残る甘い余韻と、隣に信頼できる上司がいるという事実が、私の背中を押してくれる。

(それにしても……)

私はちらりと、横顔で仕事に没頭するアイザック宰相を見た。

(眼鏡を直す仕草、ちょっとカッコよすぎませんかね?)

いやいや。

これはただの『機能美』への評価だ。

私はブンブンと首を振り、雑念を振り払って書類に向き直った。

***

その頃、王宮の食堂にて。

「うぅ……お腹すいたよぉ……」

クラーク王子がテーブルに突っ伏していた。

時刻は午後三時過ぎ。

通常なら、優雅なティータイムの時間だ。

しかし、彼の目の前には何もなかった。

「どうして……どうして誰もケーキを持ってこないんだ……」

「あらぁ? クラーク様ぁ、お茶なら私が淹れたげるぅ~」

ミルキー男爵令嬢が、ポットを持ってニコニコと近づいてくる。

「や、やめろ! ミルキー!」

王子が悲鳴を上げて飛び退いた。

「さっき君が淹れたお茶、泥みたいな味がしたじゃないか! 茶葉じゃなくて、植木鉢の土を入れただろう!?」

「えぇ~? だってぇ、色が似てたからぁ」

「似てないよ! 全然違うよ!」

王子は涙目で訴えた。

「ナギーは……ナギーなら、この時間には絶妙な温度の紅茶と、僕の好きなスコーンを用意してくれていたのに……」

グゥゥゥゥ……。

王子の腹が悲しく鳴る。

「ナギー……帰ってきてくれ……。僕には君が必要なんだ……主に胃袋的に……」

しかし、その声がナギーに届くことはない。

彼女は今、最高級のケーキとイケメン上司に囲まれ、書類の海を優雅に泳いでいるのだから。
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