え、追放してくれるんですか?じゃあ退職金代わりにその冷徹宰相をください

黒猫かの

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ザァァァァ……。

窓の外では、冷たい夜雨が降り注いでいた。

時刻は深夜二時。

丑三つ時(うしみつどき)と呼ばれる時間帯だが、宰相官邸の執務室は依然として稼働中である。

「……ふぅ」

静寂の中、重いため息が一つ落ちた。

私は手元の計算機(魔導式)から顔を上げた。

「お疲れですか、閣下。カフェインを追加しますか? それとも目薬?」

「いや……少し目が霞んだだけだ」

向かいの席に座るアイザック宰相が、眉間を指で揉んでいる。

無理もない。

私たちは今朝からぶっ通しで、『王立学園のカリキュラム改定案』と『騎士団の装備更新予算』、さらには『隣国との塩の輸入関税是正措置』という、一見何の関連もない三つの巨大プロジェクトを同時進行で処理しているのだ。

普通の文官なら、とっくに脳が焼き切れて泡を吹いているだろう。

「少し、休憩しようか」

「了解です。では十分間のインターバルを」

私が椅子から立ち上がろうとした時だった。

「……ふぅ」

アイザック宰相が、ふと顔に手をやった。

そして。

カチャリ。

彼が、そのトレードマークである銀縁眼鏡を外した。

その瞬間。

時が止まった。

「…………へ?」

私は間抜けな声を漏らし、固まった。

そこには、知らない男がいた。

いや、アイザック宰相だ。

服装も髪型も変わっていない。

だが、あの冷徹さを象徴していた眼鏡という名の「防壁」が取り払われた素顔は……。

(な、ななな……何ですか、その顔面偏差値は!?)

私は内心で絶叫した。

眼鏡をかけている時は「理知的でクールな能吏」という印象だった。

しかし、外した途端、その印象はガラリと変わる。

長い睫毛(まつげ)に縁取られた瞳は、少し潤んでいて色気があり、彫りの深い顔立ちは彫刻のように美しい。

眼鏡のフレームに隠されていた目元の涼やかさが露わになり、破壊力が十倍増しになっている。

いわゆる、「眼鏡を外すと美形」というベタな設定だが、現実に目の当たりにすると、その威力は核兵器並みだった。

「……ナギー?」

アイザック宰相が、不思議そうに私を見た。

眼鏡がないせいか、いつもより目を細めている。

その仕草がまた、無駄に艶(なまめ)かしい。

「どうした? 幽霊でも見たような顔をして」

「ゆ、幽霊の方がマシです!」

私は思わず叫んで、自分の両手で目を覆った。

「直視できません! 目が! 私の目が!」

「……は?」

「光害です! いえ、美害(びがい)です! その顔は労働環境における重大なリスク要因です!」

「何を言っているんだ君は」

アイザック宰相が呆れたように立ち上がり、机を回り込んで近づいてきた。

「どこか具合でも悪いのか?」

「来ないでください! 半径二メートル以内に接近しないで!」

「熱でもあるんじゃないか」

彼は私の抵抗を無視して、私の目の前に立った。

そして、覗き込むように顔を近づけてくる。

「……眼鏡がないと、よく見えなくてな」

至近距離。

吐息がかかるほどの距離に、あの美貌がある。

アイスブルーの瞳が、とろんとした眼差しで私を捉えている(※ただ視力が悪いだけです)。

ドキンッ!!

私の心臓が、早鐘どころか警鐘を鳴らした。

緊急事態発生。

緊急事態発生。

ナギー・ベルシュタインの理性が、敵の圧倒的な「顔面力」により陥落寸前。

「……顔が、赤いが」

彼のひんやりとした手が、私の額に触れる。

「っ……!」

「熱はないな。だが、脈が速い」

「そ、それは……過労による自律神経の乱れです!」

私は必死に嘘をついた。

「閣下のその……無防備な顔面が、私の業務遂行能力を著しく低下させています! 今すぐ! その眼鏡を装着してください!」

「なぜだ。目が疲れるんだが」

「業務命令です! いえ、安全管理義務違反です!」

私がわめくと、アイザック宰相はキョトンとした後、ふっと口元を緩めた。

「……そうか。私の素顔は、君の調子を狂わせるのか」

「そ、そうです。計算ミスを誘発します」

「ほう。それは面白い」

彼は悪戯っぽい笑みを浮かべ、さらに顔を寄せた。

鼻先が触れそうな距離。

「なら、もっと近づいたらどうなる? 計算どころか、呼吸もできなくなるか?」

「~~~~ッ!!」

確信犯だ。

この男、自分の顔が良いことを自覚した上で、私をからかって遊んでいる。

「か、閣下! セクハラで訴えますよ!」

「職場恋愛は禁止されていないが?」

「恋愛じゃありません! これは……これは……」

私は言葉に詰まった。

顔が熱い。

耳まで熱いのが自分でもわかる。

悔しいけれど、ドキドキが止まらない。

クラーク王子の顔も整っていたが、あれは「観賞用の造花」のようなものだった。

対して、目の前のこの男は「捕食者のフェロモン」を撒き散らす肉食獣だ。

危険度が違う。

「……冗談だ」

私が爆発する寸前で、アイザック宰相は身を引き、手元の眼鏡をかけ直した。

カチャリ。

フレームが収まると同時に、いつもの「氷の宰相」の仮面が戻る。

「あまりいじめると、優秀な補佐官に逃げられそうだからな」

「……性格が悪いです」

「知っているだろう」

彼は涼しい顔で席に戻った。

「だが、君がそんな反応をするとは意外だった。鉄仮面のナギー嬢にも、乙女な部分があったとは」

「忘れてください。今の記憶データは削除を要求します」

「却下だ。永久保存版としてバックアップを取っておく」

「閣下!」

「さあ、仕事に戻るぞ。休憩は終了だ」

彼はニヤリと笑い、ペンを握った。

私は真っ赤な顔のまま、深呼吸を繰り返した。

(……あぶなかった)

あと五秒見つめ合っていたら、私は間違いなく、何か取り返しのつかない契約書(婚姻届とか)にサインしていたかもしれない。

眼鏡。

それはただの視力矯正器具ではない。

あれは、この男の魅力を封印する拘束具(リミッター)だったのだ。

「……閣下」

「なんだ」

「今後、業務中に眼鏡を外す際は、事前通告をお願いします。『衝撃に備えてください』とか」

「善処しよう」

クスクスと笑う彼を見ながら、私は内心で誓った。

この職場、福利厚生は最高だが、心臓への負担も半端ない、と。

***

一方、その頃。

王宮の第一王子寝室。

「うぅ……眠れない……」

クラーク王子が、巨大なベッドの上で丸くなっていた。

枕元には、読みかけの……いや、読むのを諦めた書類が散乱している。

「字が……字が汚すぎて読めないよぉ……」

彼が手にしているのは、ミルキー男爵令嬢が「お手伝い」として清書した会議資料だ。

そこには、ミミズがのたうち回ったような文字と、所々に描かれたウサギやクマの落書きが踊っている。

『ここのよさん、いっぱいつかう♡』

『へいわがいちばん! えいえいおー!』

数字がない。

根拠がない。

あるのはファンシーな精神論だけ。

「ナギーの字は……読みやすかったなぁ」

王子は、ゴミ箱から拾い上げた、ナギーの書き置き(引継書)を眺めた。

定規で引いたように整然とした筆跡。

要点が太字で強調され、一目で内容が頭に入ってくる完璧なレイアウト。

以前は「冷たい文字だ」と嫌っていたその文字が、今では芸術品のように見える。

「会いたいなぁ……」

王子は引継書を抱きしめた。

「ナギーの淹れたハーブティーが飲みたい。ナギーの選んだパジャマが着たい。ナギーに『殿下、寝癖がついていますよ』って直されたい……」

ガチャ。

扉が開く音がした。

「クラーク様ぁ~、寝られないのぉ?」

ネグリジェ姿のミルキーが入ってきた。

手には枕を持っている。

「一緒に寝てあげるぅ。枕投げしよぉ?」

「……しないよ。明日も早いんだ」

「えぇ~? つまんなぁい。じゃあ、羊さん数えてあげる!」

ミルキーはベッドに飛び乗ると、大声で数え始めた。

「羊が一匹! 羊が二匹! 羊が……あれ? 三の次ってなんだっけ?」

「四だよ……」

「そっかぁ! 羊が四匹! あ、この羊さん可愛い! 名前つけよ! モコちゃんにするぅ~!」

「……うるさい」

「え?」

「うるさいんだよおおおおお!」

王子は布団を頭から被った。

「静かにしてくれ! 僕は眠りたいんだ! 明日の会議で、また何も答えられずに恥をかく夢を見たくないんだ!」

「ひどぉい! クラーク様のいじわるぅ!」

ミルキーが枕を王子に投げつけ、泣き出す。

阿鼻叫喚(あびきょうかん)の深夜。

雨音よりも激しい騒音の中で、王子は強く思った。

(あの静寂で、清潔で、完璧に管理されていた日々は、ナギーが作ってくれていたんだ……)

失って初めて気づく、有能な婚約者のありがたみ。

しかし、気づいた時にはもう遅い。

彼女は今頃、眼鏡を外した美形宰相と、甘く危険な夜のオフィスラブ(残業)を楽しんでいるのだから。

「ナギィィィーーーーッ!!」

王子の叫びは、虚しく雨音に消えていった。
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