え、追放してくれるんですか?じゃあ退職金代わりにその冷徹宰相をください

黒猫かの

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ザッ、ザッ、ザッ……。

王宮の裏手にある厩舎(きゅうしゃ)。

そこから、何とも頼りない、そして悲壮感漂う音が聞こえてきた。

「……重い。なんで馬の糞って、こんなに重いんだ……」

呟いているのは、全身泥だらけの青年。

かつて「王国の至宝」と謳われた美貌の第一王子、クラークである。

今の彼に、王族の威厳はない。

着ているのは、使い古された作業着(サイズが合っていない)。

手には箒とちりとり。

そして足元には、容赦なく積み上げられた馬の落とし物が存在感を放っていた。

「……臭い。信じられないくらい臭いよぉ……」

クラーク王子は涙目で鼻をつまんだ。

「なんで僕が……次期国王の僕が、こんなことを……」

「クラーク様ぁ~。サボっちゃダメだよぉ~」

日陰のベンチから、のんきな声が飛ぶ。

ミルキー男爵令嬢だ。

彼女は作業着を着ているものの、箒をマイク代わりにして歌っているだけで、一切働いていない。

「ミルキー……君も手伝ってくれよ……。二人でやれば早く終わるから……」

「えぇ~? 私、か弱い女の子だよぉ? こんな重いの持ったら、筋肉がついちゃうもん」

「僕だって筋肉痛だよ! 腰が折れそうだよ!」

「男の子でしょ? 頑張って稼いで、私にジュース買ってきてよぉ」

「うぐっ……」

クラーク王子は言葉を詰まらせた。

稼ぐ。

その言葉が、今の彼には鉛のように重くのしかかっていた。

ナギー・ベルシュタインによる「財政改革」が始まって三日。

王子の生活は激変した。

お小遣いゼロ。

食事は従業員食堂の賄(まかな)いのみ(しかもおかわり有料)。

そして、「働かざる者食うべからず」という鉄の掟。

彼は今日、朝から六時間働き続けていた。

しかし、得られた報酬は銅貨三枚。

コップ一杯のジュース代にも満たない金額だ。

「……ハァ、ハァ……」

王子は箒に寄りかかり、遠い目をした。

脳裏に浮かぶのは、かつての優雅な日常だ。

朝起きれば、温かい紅茶が出てきた。

「殿下、今日のスケジュールです」と、整然とした書類が差し出された。

面倒な会議の後には、「お疲れ様でした」と甘いお菓子が用意されていた。

あれらはすべて、当たり前のことだと思っていた。

魔法のように、自動的に湧いてくるものだと。

だが、違った。

(魔法じゃ……なかったんだ)

王子は、自分の荒れた手を見つめた。

この三日間で、いくつものマメができ、爪は汚れた。

(誰かが……ナギーが、汗をかいて、頭を下げて、調整して……僕の快適な生活(ライフ)を維持してくれていたんだ……)

気づくのが遅すぎた。

ナギーの小言は「いじめ」ではなかった。

あれは、何もできない赤ん坊のような自分を、必死に守ろうとする「防壁」だったのだ。

「……僕は、なんてバカだったんだ」

王子が地面に崩れ落ちそうになった、その時だった。

「おや。作業効率が悪いですね。そのペースでは、日が暮れても終わりませんよ」

頭上から、冷ややかで、それでいて懐かしい声が降ってきた。

「っ!?」

王子が弾かれたように顔を上げる。

そこに立っていたのは、眩しいほどの西日を背負った二人組。

日傘を差しかけられ、涼しげな顔をしている濃紺ドレスの美女、ナギー・ベルシュタイン。

そして、その傘を持ち、彼女を愛おしそうに見守る冷徹な宰相、アイザック・ル・グラン。

泥まみれの王子とは対照的に、彼らは光り輝いて見えた。

「な、ナギー……!」

王子は箒を放り出し、柵に駆け寄った。

「来れくれたのか! 僕を助けに!」

「いいえ。視察です」

私は柵越しに、汚れた王子を見下ろした。

「厩舎の清掃業務委託費を削減しましたので、現場が回っているか確認に来ました。……ふむ、惨憺(さんたん)たる有様ですね。馬の方が呆れていますよ」

事実、王子の背後で馬が「ブルルッ」と鼻を鳴らしていた。

「な、ナギー……違うんだ、聞いてくれ……」

クラーク王子は、柵を握りしめた。

その手は泥だらけだったが、彼は構わずに身を乗り出した。

「わかったんだ。やっとわかったんだよ!」

「何がです?」

「君の凄さが! 君のありがたみが!」

王子は必死に訴えた。

「この三日間、地獄だった! 誰も僕の言うことを聞かない! 誰も僕を助けてくれない! 君が……君だけが、僕の無能さをカバーしてくれていたんだ!」

彼の目から、涙が溢れ出し、泥で汚れた頬に筋を作る。

それは演技ではない。

本心からの後悔と、絶望の叫びだった。

「ごめん! 僕が悪かった! マカロンなんていらない! 七色の馬車もいらない! ただ……君にそばにいてほしいんだ!」

「……」

「戻ってきてくれ、ナギー! 君がいなきゃ、僕は生きていけない! 息をするのも辛いんだ!」

王子は柵越しに手を伸ばした。

私のドレスの裾を掴もうとするように。

その姿は、哀れで、滑稽で、そして少しだけ同情を誘うものだったかもしれない。

普通の物語なら。

ここでヒロインは「仕方ないわね」と手を差し伸べるのかもしれない。

あるいは、「更生するなら考えてあげる」と条件を出すのかもしれない。

だが。

「……」

私は一歩、後ろに下がった。

王子の手が空を切る。

「ナ、ナギー?」

「触らないでいただけますか。汚れますので」

私の声には、一片の感情も混じっていなかった。

怒りも、悲しみも、憐れみすらもない。

ただの「事実」としての拒絶。

「汚れる……?」

「ええ。今の貴方様は、物理的にも、社会的にも汚れています」

私はハンカチを取り出し、口元を覆った。

「その汚れは、貴方様自身が招いた結果です。私が拭って差し上げる義理はありません」

「そ、そんな……! 謝ってるじゃないか! 反省してるじゃないか!」

「反省? それがどうしました?」

私は冷ややかに首を傾げた。

「反省すれば、浪費した国庫が戻るとでも? 謝罪すれば、カカオ豆十万袋が消滅するとでも?」

「うっ……」

「大人は結果で評価されるのです。貴方様の『ごめんなさい』には、銅貨一枚の価値もありません」

グサリ。

決定的な一言が、王子の心を刺し貫く。

横にいたアイザック宰相が、眼鏡の奥で冷酷に笑った。

「聞いたか、クラーク。今の君は、ナギーにとって『価値のない不良債権』だ。損切りされた株券が、いまさら買い戻してくれと泣きついても無駄だ」

「お、叔父上まで……!」

「諦めろ。そして、その馬糞(ばふん)と向き合え。それが今の君にお似合いのパートナーだ」

アイザック宰相は私の肩を抱き、背を向けさせた。

「行くぞ、ナギー。ここに長居すると、臭いが移る」

「はい、閣下。次は王立図書館の光熱費削減の視察ですね」

私たちは歩き出した。

王子の絶叫を背に受けて。

「待ってくれぇぇぇ! ナギー! 見捨てないでくれぇぇぇ!」

「クラーク様ぁ、うるさいよぉ。早くジュース買ってきてぇ~」

王子の悲痛な叫びと、ミルキーの空気を読まないおねだりが、夕暮れの空に虚しく響く。

私は一度も振り返らなかった。

かつて、私は彼の背中を追いかけ、支え、守ってきた。

だが今は、彼が私の背中を見送る番だ。

そして、その距離は永遠に縮まらない。

胸の奥で、十年間の重荷が完全に消え去る音がした。

(さようなら、私の王子様。……いいえ、私の『元・お荷物』様)

私の隣には、今、頼もしい本物のパートナーがいる。

それだけで十分だった。
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