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「……以上が、今回の『カカオ豆・ペンキ転売プロジェクト』の最終収支報告になります」
王城、謁見の間。
私は分厚い報告書を閉じ、パンパンになった革袋を玉座の前に積み上げた。
ジャララッ……。
袋の口から、黄金色の輝きが溢れ出す。
「カカオ豆の売却益、金貨八万五千枚。ペンキの転用による予算削減効果、金貨二万三千枚。合計で金貨十万八千枚の黒字です」
私は眼鏡を指で押し上げ、淡々と告げた。
「これにより、クラーク殿下が空けた大穴を埋め、さらに来年度の国家予算に余剰金(プール)を作ることができました。……陛下、いかがでしょうか?」
玉座に座る国王陛下は、積み上げられた金貨の山を見て、口をあんぐりと開けていた。
「す、すごい……」
陛下が震える声で漏らす。
「わずか一週間……。わずか一週間で、あの絶望的な負債を帳消しにし、お釣りを生み出すとは……!」
「ナギーよ。そちは錬金術師か? それとも詐欺師か?」
「いいえ。ただの『優秀な事務官』です」
私は胸を張った。
隣に立つアイザック宰相が、誇らしげに口元を緩める。
「陛下。これが私の見込んだ『逸材』の実力です。彼女に全権を委ねた判断は、正しかったと証明されましたね」
「うむ! うむうむ! 天晴(あっぱれ)じゃ! 国は救われた!」
陛下は諸手を挙げて喜んだ。
そして、厳しい顔つきになり、部屋の隅で小さくなっている二人組に視線を向けた。
「さて……。それに引き換え、そこのバカ息子ども」
「ひぃっ!」
衛兵に囲まれ、床に正座させられていたのは、クラーク王子とミルキー男爵令嬢だった。
数日間の強制労働ですっかりやつれ、かつての煌びやかさは見る影もない。
「クラーク。ナギーの働きを見たか。お前が遊び半分で溶かした金を、彼女がどれほどの知恵と労力で回収したか」
「は、はい……見ておりました……」
クラーク王子が蚊の鳴くような声で答える。
「馬糞掃除をしながら……ナギーが業者と交渉し、走り回る姿を……遠くから見ておりました……」
「ならばわかるな? お前の不始末は、本来なら廃嫡(はいちゃく)に値する。だが、ナギーの功績に免じて、今回は不問に……」
「父上!」
陛下が言いかけた時、クラーク王子がガバッと顔を上げた。
その目には、なぜか希望の光が宿っていた。
「わかっています! 僕はすべてを悟りました!」
「ほう?」
王子は立ち上がり、ヨロヨロと私の方へ歩み寄ってきた。
衛兵が止めようとするが、私は手で制した。
最後だ。
彼の勘違いを、根底から断ち切る必要がある。
「ナギー……」
王子は私の目の前で止まり、泥だらけの手を胸に当てた。
「ありがとう。本当にありがとう」
「仕事ですので」
「照れなくていいんだ。わかっているよ」
王子は涙ぐみながら、熱っぽい視線を送ってくる。
「君がここまで必死になってくれたのは……やはり、僕のためなんだろう?」
「……はい?」
「国のためとか、予算のためとか言っているけど、本当は僕を助けたかったんだろう? 僕が廃嫡されないように、僕が路頭に迷わないように……愛する僕のために、奇跡を起こしてくれたんだろう!?」
王子は両手を広げた。
「嬉しいよナギー! 君の愛の深さに、僕は感動した! もうマカロンなんて言わない! 君さえいれば、僕はやり直せる!」
彼は一歩踏み出し、私の肩を抱こうとした。
「さあ、復縁しよう! 父上、許してください! 僕はナギーと結婚します! それが彼女への一番の報いです!」
「……」
会場が静まり返った。
国王陛下がポカンとし、アイザック宰相がこめかみに青筋を浮かべる。
ミルキー嬢だけが「えぇ~? 私はぁ?」と不満そうにしている。
私は。
スッ……と、無言で一歩下がった。
王子の手が空を切る。
「ナ、ナギー?」
「殿下。一つ、訂正させていただきます」
私は氷のように冷たい声を出した。
感情の一切乗らない、事務的な声だ。
「私が今回動いたのは、貴方様のためではありません」
「えっ? で、でも、僕の借金を……」
「私が守りたかったのは『宰相官邸の静寂』と『アイザック閣下の雇用』、そして『私自身のボーナス』です」
私は指折り数えた。
「貴方様がどうなろうと、私の知ったことではありません。野垂れ死のうが、他国へ亡命しようが、私の人生プランには何の影響もないのです」
「そ、そんな……強がりを言うなよ。十年だぞ? 僕たちは十年間も一緒にいたんだ。情が湧かないはずがないだろう?」
王子は必死に食い下がる。
「思い出してくれ! あの楽しかった日々を! 初めてダンスを踊った日! 僕が風邪を引いた時に看病してくれた夜! 二人で見た花火!」
彼は過去のアルバムを必死にめくるように叫ぶ。
「愛していないなら、あんなに尽くせるはずがない! 憎しみでもいい! 怒りでもいい! 何らかの感情が、君の中にあるはずだ!」
「感情、ですか」
私は小さく息を吐き、眼鏡を外した。
そして、そのレンズをハンカチで拭きながら、静かに告げた。
「殿下。貴方様は大きな勘違いをされています」
「勘違い……?」
「『愛』の反対は『憎しみ』ではありません」
私は眼鏡をかけ直し、彼の瞳を真正面から見据えた。
「『無関心』です」
ドクン。
王子の喉が鳴る音が聞こえた。
「憎いなら、まだマシでしょう。怒るなら、まだ期待がある証拠です。ですが……」
私は自分の胸に手を当てた。
「今の私の心の中にあるのは、貴方様に対する『虚無(ゼロ)』です」
「……きょ、む……?」
「はい。何の波風も立ちません。貴方様が泣いていても、笑っていても、私の心拍数は1ビートも変化しない。道端の石ころを見るのと同じです」
私は残酷なまでの真実を突きつけた。
「過去の思い出? ああ、ありましたね。でも、それはすでに『不要なデータ』として脳内のゴミ箱に移動し、完全消去しました」
「しょ、消去……?」
「ええ。メモリの無駄ですから。今の私の脳内は、新しい上司(アイザック閣下)との輝かしい未来と、今夜の夕食のメニューで満杯です。貴方様の入る隙間は、1バイトも残っていません」
私はニッコリと微笑んだ。
それは、営業用のスマイルですらない。
ただの、壁に向けられたような、意味のない表情筋の動きだった。
「ですので、復縁などという寝言は二度と仰らないでください。時間の無駄です」
「…………あ」
王子の口から、空気が漏れるような音がした。
彼の瞳から、光が消えていく。
怒られると思っていた。
罵倒されると思っていた。
そうであれば、まだ「関係性」は残っていた。
だが、突きつけられたのは「無」。
存在そのものを認識されていないという、絶対的な拒絶。
「あ……あぁ……」
王子は後ずさった。
足がもつれ、床にへたり込む。
「僕……は……」
彼は自分の両手を見た。
泥だらけの手。
何も掴めなかった手。
「僕は……石ころ……以下……?」
「ご自覚いただけて何よりです」
私は冷たく言い放ち、アイザック宰相の方へ向き直った。
「閣下。報告は以上です。不快なノイズ(雑音)が混じりましたが、収支は合っています」
「ああ。完璧だ、ナギー」
アイザック宰相は、私の腰に手を回し、所有権を主張するように引き寄せた。
そして、崩れ落ちた王子を見下ろした。
「見たか、クラーク。これが『終わり』だ。潔く幕を引け」
「う……うううぅぅぅ!!」
クラーク王子は、床に突っ伏して慟哭(どうこく)した。
それは、子供の夜泣きのような、あるいは獣の遠吠えのような、哀れな響きだった。
彼はようやく理解したのだ。
自分が失ったものの大きさと、それがもう二度と戻らないという絶望を。
「……連れて行け」
国王陛下が、疲れた声で衛兵に命じた。
「見るに堪えん。クラークとミルキーを別室へ。……処遇は後で言い渡す」
「はっ!」
ズルズルと引きずられていく王子。
「いやだぁ! ナギー! ナギィィィ!」
その声が扉の向こうに消え、重厚な扉が閉まる。
静寂が戻った。
「……ふぅ。やっと静かになりましたね」
私は肩の力を抜いた。
終わった。
これで本当に、私の「悪役令嬢」としての役目も、「元婚約者」としての因縁も、すべて終わったのだ。
清々しい気分だった。
これからは、愛する仕事と、愛する上司と共に、平和な日々を……。
「……のう、ナギーよ」
不意に、粘り気のある声がかけられた。
玉座の国王陛下だ。
「はい、陛下」
「そちの働き、実に見事であった。カカオの件といい、クラークへの引導といい……まさに王者の風格じゃ」
「恐れ入ります」
「そこでじゃが……」
陛下は身を乗り出し、ギラリと目を光らせた。
その瞳にあるのは、感謝ではない。
為政者特有の『強欲』だ。
「もったいないとは思わんか?」
「何がでしょう?」
「そちほどの才女を、たかだか『宰相補佐官』で終わらせるのがじゃ」
「……?」
嫌な予感がした。
背筋に冷たいものが走る。
「クラークは廃嫡する。それは決定じゃ。……となると、王位継承権を持つ者がいなくなる」
陛下はニヤリと笑った。
「どうじゃ、ナギー。そち、王族にならんか?」
「はい?」
「クラークではなく、私の養女として王籍に入り……ゆくゆくは『女王』としてこの国を統治するというのは」
「なっ……!?」
私が絶句するより早く、隣のアイザック宰相が吠えた。
「陛下!! 約束が違います!」
「約束? ああ、結婚の許可か。……気が変わった」
陛下は悪びれもせずに言った。
「ナギーは国益そのものじゃ。一臣下に独占させるには惜しい。彼女こそが、次代の王にふさわしい器じゃろう?」
「ふざけるな!」
アイザック宰相が、あろうことか国王に向かって怒鳴った。
普段の冷静な彼からは想像もつかない激昂ぶりだ。
「ナギーは私のものです! 誰にも渡さん! 例え陛下であろうと!」
「ほほう。ならば奪ってみせよ、アイザック」
陛下は楽しそうに笑った。
「ナギー・ベルシュタイン争奪戦の、第二ラウンド開始といこうか」
私は呆然と、火花を散らす二人(国王と宰相)を見ていた。
(……え? 私の平和な職場ライフは?)
どうやら、元カレを撃退したと思ったら、今度はラスボス(国王)にロックオンされてしまったらしい。
私の受難……いえ、モテ期(※ただし仕事人として)は、まだ終わらないようだった。
王城、謁見の間。
私は分厚い報告書を閉じ、パンパンになった革袋を玉座の前に積み上げた。
ジャララッ……。
袋の口から、黄金色の輝きが溢れ出す。
「カカオ豆の売却益、金貨八万五千枚。ペンキの転用による予算削減効果、金貨二万三千枚。合計で金貨十万八千枚の黒字です」
私は眼鏡を指で押し上げ、淡々と告げた。
「これにより、クラーク殿下が空けた大穴を埋め、さらに来年度の国家予算に余剰金(プール)を作ることができました。……陛下、いかがでしょうか?」
玉座に座る国王陛下は、積み上げられた金貨の山を見て、口をあんぐりと開けていた。
「す、すごい……」
陛下が震える声で漏らす。
「わずか一週間……。わずか一週間で、あの絶望的な負債を帳消しにし、お釣りを生み出すとは……!」
「ナギーよ。そちは錬金術師か? それとも詐欺師か?」
「いいえ。ただの『優秀な事務官』です」
私は胸を張った。
隣に立つアイザック宰相が、誇らしげに口元を緩める。
「陛下。これが私の見込んだ『逸材』の実力です。彼女に全権を委ねた判断は、正しかったと証明されましたね」
「うむ! うむうむ! 天晴(あっぱれ)じゃ! 国は救われた!」
陛下は諸手を挙げて喜んだ。
そして、厳しい顔つきになり、部屋の隅で小さくなっている二人組に視線を向けた。
「さて……。それに引き換え、そこのバカ息子ども」
「ひぃっ!」
衛兵に囲まれ、床に正座させられていたのは、クラーク王子とミルキー男爵令嬢だった。
数日間の強制労働ですっかりやつれ、かつての煌びやかさは見る影もない。
「クラーク。ナギーの働きを見たか。お前が遊び半分で溶かした金を、彼女がどれほどの知恵と労力で回収したか」
「は、はい……見ておりました……」
クラーク王子が蚊の鳴くような声で答える。
「馬糞掃除をしながら……ナギーが業者と交渉し、走り回る姿を……遠くから見ておりました……」
「ならばわかるな? お前の不始末は、本来なら廃嫡(はいちゃく)に値する。だが、ナギーの功績に免じて、今回は不問に……」
「父上!」
陛下が言いかけた時、クラーク王子がガバッと顔を上げた。
その目には、なぜか希望の光が宿っていた。
「わかっています! 僕はすべてを悟りました!」
「ほう?」
王子は立ち上がり、ヨロヨロと私の方へ歩み寄ってきた。
衛兵が止めようとするが、私は手で制した。
最後だ。
彼の勘違いを、根底から断ち切る必要がある。
「ナギー……」
王子は私の目の前で止まり、泥だらけの手を胸に当てた。
「ありがとう。本当にありがとう」
「仕事ですので」
「照れなくていいんだ。わかっているよ」
王子は涙ぐみながら、熱っぽい視線を送ってくる。
「君がここまで必死になってくれたのは……やはり、僕のためなんだろう?」
「……はい?」
「国のためとか、予算のためとか言っているけど、本当は僕を助けたかったんだろう? 僕が廃嫡されないように、僕が路頭に迷わないように……愛する僕のために、奇跡を起こしてくれたんだろう!?」
王子は両手を広げた。
「嬉しいよナギー! 君の愛の深さに、僕は感動した! もうマカロンなんて言わない! 君さえいれば、僕はやり直せる!」
彼は一歩踏み出し、私の肩を抱こうとした。
「さあ、復縁しよう! 父上、許してください! 僕はナギーと結婚します! それが彼女への一番の報いです!」
「……」
会場が静まり返った。
国王陛下がポカンとし、アイザック宰相がこめかみに青筋を浮かべる。
ミルキー嬢だけが「えぇ~? 私はぁ?」と不満そうにしている。
私は。
スッ……と、無言で一歩下がった。
王子の手が空を切る。
「ナ、ナギー?」
「殿下。一つ、訂正させていただきます」
私は氷のように冷たい声を出した。
感情の一切乗らない、事務的な声だ。
「私が今回動いたのは、貴方様のためではありません」
「えっ? で、でも、僕の借金を……」
「私が守りたかったのは『宰相官邸の静寂』と『アイザック閣下の雇用』、そして『私自身のボーナス』です」
私は指折り数えた。
「貴方様がどうなろうと、私の知ったことではありません。野垂れ死のうが、他国へ亡命しようが、私の人生プランには何の影響もないのです」
「そ、そんな……強がりを言うなよ。十年だぞ? 僕たちは十年間も一緒にいたんだ。情が湧かないはずがないだろう?」
王子は必死に食い下がる。
「思い出してくれ! あの楽しかった日々を! 初めてダンスを踊った日! 僕が風邪を引いた時に看病してくれた夜! 二人で見た花火!」
彼は過去のアルバムを必死にめくるように叫ぶ。
「愛していないなら、あんなに尽くせるはずがない! 憎しみでもいい! 怒りでもいい! 何らかの感情が、君の中にあるはずだ!」
「感情、ですか」
私は小さく息を吐き、眼鏡を外した。
そして、そのレンズをハンカチで拭きながら、静かに告げた。
「殿下。貴方様は大きな勘違いをされています」
「勘違い……?」
「『愛』の反対は『憎しみ』ではありません」
私は眼鏡をかけ直し、彼の瞳を真正面から見据えた。
「『無関心』です」
ドクン。
王子の喉が鳴る音が聞こえた。
「憎いなら、まだマシでしょう。怒るなら、まだ期待がある証拠です。ですが……」
私は自分の胸に手を当てた。
「今の私の心の中にあるのは、貴方様に対する『虚無(ゼロ)』です」
「……きょ、む……?」
「はい。何の波風も立ちません。貴方様が泣いていても、笑っていても、私の心拍数は1ビートも変化しない。道端の石ころを見るのと同じです」
私は残酷なまでの真実を突きつけた。
「過去の思い出? ああ、ありましたね。でも、それはすでに『不要なデータ』として脳内のゴミ箱に移動し、完全消去しました」
「しょ、消去……?」
「ええ。メモリの無駄ですから。今の私の脳内は、新しい上司(アイザック閣下)との輝かしい未来と、今夜の夕食のメニューで満杯です。貴方様の入る隙間は、1バイトも残っていません」
私はニッコリと微笑んだ。
それは、営業用のスマイルですらない。
ただの、壁に向けられたような、意味のない表情筋の動きだった。
「ですので、復縁などという寝言は二度と仰らないでください。時間の無駄です」
「…………あ」
王子の口から、空気が漏れるような音がした。
彼の瞳から、光が消えていく。
怒られると思っていた。
罵倒されると思っていた。
そうであれば、まだ「関係性」は残っていた。
だが、突きつけられたのは「無」。
存在そのものを認識されていないという、絶対的な拒絶。
「あ……あぁ……」
王子は後ずさった。
足がもつれ、床にへたり込む。
「僕……は……」
彼は自分の両手を見た。
泥だらけの手。
何も掴めなかった手。
「僕は……石ころ……以下……?」
「ご自覚いただけて何よりです」
私は冷たく言い放ち、アイザック宰相の方へ向き直った。
「閣下。報告は以上です。不快なノイズ(雑音)が混じりましたが、収支は合っています」
「ああ。完璧だ、ナギー」
アイザック宰相は、私の腰に手を回し、所有権を主張するように引き寄せた。
そして、崩れ落ちた王子を見下ろした。
「見たか、クラーク。これが『終わり』だ。潔く幕を引け」
「う……うううぅぅぅ!!」
クラーク王子は、床に突っ伏して慟哭(どうこく)した。
それは、子供の夜泣きのような、あるいは獣の遠吠えのような、哀れな響きだった。
彼はようやく理解したのだ。
自分が失ったものの大きさと、それがもう二度と戻らないという絶望を。
「……連れて行け」
国王陛下が、疲れた声で衛兵に命じた。
「見るに堪えん。クラークとミルキーを別室へ。……処遇は後で言い渡す」
「はっ!」
ズルズルと引きずられていく王子。
「いやだぁ! ナギー! ナギィィィ!」
その声が扉の向こうに消え、重厚な扉が閉まる。
静寂が戻った。
「……ふぅ。やっと静かになりましたね」
私は肩の力を抜いた。
終わった。
これで本当に、私の「悪役令嬢」としての役目も、「元婚約者」としての因縁も、すべて終わったのだ。
清々しい気分だった。
これからは、愛する仕事と、愛する上司と共に、平和な日々を……。
「……のう、ナギーよ」
不意に、粘り気のある声がかけられた。
玉座の国王陛下だ。
「はい、陛下」
「そちの働き、実に見事であった。カカオの件といい、クラークへの引導といい……まさに王者の風格じゃ」
「恐れ入ります」
「そこでじゃが……」
陛下は身を乗り出し、ギラリと目を光らせた。
その瞳にあるのは、感謝ではない。
為政者特有の『強欲』だ。
「もったいないとは思わんか?」
「何がでしょう?」
「そちほどの才女を、たかだか『宰相補佐官』で終わらせるのがじゃ」
「……?」
嫌な予感がした。
背筋に冷たいものが走る。
「クラークは廃嫡する。それは決定じゃ。……となると、王位継承権を持つ者がいなくなる」
陛下はニヤリと笑った。
「どうじゃ、ナギー。そち、王族にならんか?」
「はい?」
「クラークではなく、私の養女として王籍に入り……ゆくゆくは『女王』としてこの国を統治するというのは」
「なっ……!?」
私が絶句するより早く、隣のアイザック宰相が吠えた。
「陛下!! 約束が違います!」
「約束? ああ、結婚の許可か。……気が変わった」
陛下は悪びれもせずに言った。
「ナギーは国益そのものじゃ。一臣下に独占させるには惜しい。彼女こそが、次代の王にふさわしい器じゃろう?」
「ふざけるな!」
アイザック宰相が、あろうことか国王に向かって怒鳴った。
普段の冷静な彼からは想像もつかない激昂ぶりだ。
「ナギーは私のものです! 誰にも渡さん! 例え陛下であろうと!」
「ほほう。ならば奪ってみせよ、アイザック」
陛下は楽しそうに笑った。
「ナギー・ベルシュタイン争奪戦の、第二ラウンド開始といこうか」
私は呆然と、火花を散らす二人(国王と宰相)を見ていた。
(……え? 私の平和な職場ライフは?)
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