え、追放してくれるんですか?じゃあ退職金代わりにその冷徹宰相をください

黒猫かの

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カ、カ、カ、カ……ッ!

バンッ!!

「……終わりましたぁぁぁーーっ!!」

私は、最後の書類に決裁印を叩きつけ、天井に向かって叫んだ。

深夜二時。

宰相官邸の執務室。

ここは今、戦場が静まり返った後のような、厳粛かつ達成感に満ちた空気に包まれていた。

「……長かった」

向かいの席で、アイザック宰相も万年筆を置き、天井を見上げている。

「まさか、十年分の『王室費不正流用疑惑』と『架空請求』をすべて洗い出し、精算するのに、丸三日かかるとはな」

「ええ。クラーク殿下の使途不明金、多すぎです。あの方、昔飼っていたハムスターのお墓を作るために、黄金のピラミッドを発注しようとしていた形跡がありましたよ」

「未遂でよかった。……だが、これで全て片付いた」

アイザック宰相が立ち上がり、凝り固まった肩を回す。

ボキボキ、という音が室内に響く。

「ナギー。君のおかげだ。君がいなければ、私は今頃、数字の海で溺死していただろう」

「お互い様です、閣下。閣下の豪腕な根回しがあったからこそ、この『大決算』を乗り切れたのです」

私は机の上に積み上げられた、電話帳のような厚さの報告書を愛おしそうに撫でた。

タイトルは『王国王室費・特別会計決算報告書(最終版)』。

これが承認されれば、国の財政は完全に健全化し、私たちのボーナスも確定する。

まさに、血と汗とインクの結晶だ。

「……祝杯といこうか」

アイザック宰相が、サイドボードから琥珀色の液体が入ったボトルと、二つのグラスを取り出した。

「年代物のブランデーだ。今日は無礼講で飲もう」

「お付き合いします。今なら樽ごと飲める気分です」

トクトク……と注がれる音。

グラスが軽く触れ合い、チーンという澄んだ音色が響く。

「乾杯。……私たちの勝利に」

「乾杯。……そして、平和な明日に」

一口飲む。

芳醇な香りと、喉を焼くような熱さ。

疲れた体にアルコールが染み渡り、ふわふわとした浮遊感が訪れる。

「ふぅ……」

私はソファに深く沈み込んだ。

「生き返りますね。これでやっと、私も普通の生活に戻れます」

「普通の生活、か」

アイザック宰相がグラスを揺らしながら、意味深に呟く。

「そうだな。これからは、新しい生活が始まる」

「はい。まずは三日分寝ます。それから、エステに行って、美味しいものを食べて……」

私が指折り数えていると、彼がふと、一枚の紙を差し出してきた。

「その前に、ナギー」

「はい?」

「最後の仕事だ。これに目を通してくれ」

彼の手にあるのは、見慣れた財務諸表のような書類だった。

「……まだあるんですか? もう数字は見たくないのですが」

「重要な案件だ。これだけはどうしても、今夜中に君の承認が必要なんだ」

彼の表情は真剣だった。

眼鏡の奥の瞳が、いつになく熱っぽく私を見つめている。

(……ははん。さては、ボーナスの査定書ですね?)

私はピンときた。

このプロジェクトの成功報酬。

きっと、とんでもない金額が提示されているに違いない。

「わかりました。確認します」

私はグラスを置き、書類を受け取った。

タイトルは『アイザック・ル・グラン 個人資産および生涯収支計画書』。

「……個人資産?」

私は眉をひそめた。

「閣下。これ、公文書ではありませんね? 閣下のプライベートな台帳では?」

「そうだ。中を見てみろ」

言われるままに目を通す。

『資産の部』
・王都内の一等地にある屋敷:一棟
・郊外の別荘:三棟
・預金残高:金貨〇〇万枚(桁がおかしい)
・美術品コレクション:多数

『負債の部』
・なし

「……優良物件ですね。超のつくお金持ちだということは理解しました。で、これが何か?」

「裏だ」

「裏?」

「その紙の裏面を見てくれ」

私は言われるがまま、書類を裏返した。

そこには、手書きの文字が並んでいた。

いつもの流麗な筆記体だが、どこか少し、震えているようにも見える。

『契約条項(追記)』

1.甲(アイザック)は、乙(ナギー)に対し、表面に記載された全資産の共有権、および使用権を無条件で譲渡する。

2.甲は、乙の生涯にわたり、その生活と幸福、および安眠を保証する。

3.甲は、乙以外の女性と個人的な契約(婚姻等)を一切結ばないことを誓約する。

4.乙は、甲に対し、その人生という名の時間を供与し、共に歩むことを承諾する。

そして、一番下には。

『署名欄:__________』

その横に、すでにアイザック宰相のサインと、実印が押されていた。

「…………」

私は瞬きをした。

一度。二度。三度。

意味を理解するのに、私の高性能な脳内CPUをもってしても、数秒の時間を要した。

「……か、閣下」

「なんだ」

「この書類のタイトル、変更が必要かと思われます」

私は震える声で指摘した。

「これは『資産計画書』ではありません。……『プロポーズの言葉』と呼ぶべき代物です」

「その通りだ」

アイザック宰相が、ソファから立ち上がり、私の前に片膝をついた。

まるで、騎士が姫に忠誠を誓うように。

「ナギー・ベルシュタイン」

彼は私の手を取り、その甲に熱い口づけを落とした。

「私は不器用な男だ。気の利いた愛の詩も、ロマンチックな演出もできない。できることと言えば……こうして、確かな数字と条件を提示することだけだ」

彼が見上げてくる。

その瞳には、不安と、期待と、そして隠しきれない愛情が渦巻いていた。

「表面の資産は、すべて君にあげよう。私の地位も、名誉も、未来の給料も、全部だ」

「……」

「その代わり……君をくれ」

ドクンッ!!

心臓が跳ねた。

本日最大、いや、人生最大の動悸だ。

(……なんて、馬鹿な人)

私は目頭が熱くなるのを感じた。

決算書の裏にプロポーズなんて。

ムードもへったくれもない。

でも。

それが、この人らしい。

それが、誰よりも私らしい。

「……条件が悪いです」

私はあえて、震える声で不満を漏らした。

「えっ……?」

アイザック宰相の顔が強張る。

「条、条件が? 足りないか? なら、別荘をもう一棟……」

「違います」

私は書類を机に置き、彼の手を両手で包み込んだ。

「資産なんてどうでもいいです。私が欲しいのは、そんな『モノ』じゃありません」

「な、なら、何を……?」

「『休暇』です」

「……は?」

「有給休暇です。それと、毎日のおはようのキス。あと、私が残業している時に差し入れてくれる美味しいコーヒー。……それらを『必須条項』として追加してください」

私がニッコリと笑うと、アイザック宰相はポカンとして……やがて、顔をくしゃくしゃにして笑った。

「……ふっ、ははは! 安いな!」

「安くありませんよ? 一生分ですからね。途中で解約(離婚)は認めませんよ?」

「ああ、望むところだ。違約金は私の命で払おう」

「重いです」

彼は立ち上がり、私を強く抱きしめた。

ブランデーの香りと、彼の体温が私を包む。

「……愛している、ナギー」

耳元で囁かれる、シンプルな言葉。

どんな複雑な計算式よりも、どんな難解な条文よりも、心に響く『正解』。

「……知っています。計算済みです」

私は彼の背中に腕を回し、小さく答えた。

「私もです、アイザック。……貴方のいない人生なんて、バグだらけで運用不可能ですから」

「ふっ、君らしい答えだ」

私たちは、静かな執務室で唇を重ねた。

決算書の裏に書かれた契約は、ここに成立した。

王国の歴史に残るであろう、最強の夫婦の誕生である。

机の上には、まだ決裁印のインクが乾ききっていない書類の山。

それが、私たちのウェディングケーキ代わりだった。

「さて、ナギー」

しばらくして、彼が唇を離した。

「契約成立の証に、サインを貰おうか」

「はい。ペンを」

私は万年筆を受け取り、署名欄に向かった。

震える手で、しかし力強く。

『ナギー・ル・グラン(予定)』

そう書き込むと、アイザック宰相が満足げに頷いた。

「いい名前だ」

「慣れませんね。……でも、悪くありません」

「そうだろう? さあ、今日はもう帰ろう。これからは同じ家に帰るんだ」

「えっ、もう同居ですか? まだ式も……」

「善は急げだ。私の屋敷の鍵は、もう君のカバンに入っている」

「……仕事が早すぎます、閣下」

「有能な夫を持つと大変だぞ?」

「ふふっ、受けて立ちますよ」

私たちは手を取り合い、執務室を後にした。

廊下の灯りが消え、宰相官邸は深い眠りにつく。

激動の「婚約破棄」から始まった私の物語は、こうして「終身雇用契約(結婚)」へと華麗なるジョブチェンジを果たしたのだった。

……まあ、明日からも残業はあるのだけれど。
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