悪役令嬢は、その婚約破棄(ボーナス)を待っていた!

黒猫かの

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翌朝、九時きっかり。

私は王宮の北門に立っていた。

今日の装いは、特注のダークネイビーのパンツスーツ。

髪はきっちりと後ろでまとめ、伊達メガネ(知的に見える効果がある)を装着。

足元は走り回れるように、ヒールの低い革靴だ。

「よし。戦闘準備完了」

私は懐中時計を確認する。

九時五分前。完璧なオンタイムだ。

門の前には、昨日会ったギルの……いや、ギルさんの部下らしき騎士が待っていた。

「メメリア様ですね。お待ちしておりました。こちらへ」

案内されたのは、煌びやかな王宮の表舞台……ではなく、その裏手にある石造りの堅牢な建物だった。

「ここは?」

「行政棟です。国の頭脳が集まる場所ですね」

騎士はそう言うが、建物からはどす黒いオーラが漂っている。

廊下ですれ違う職員たちの目は死んだ魚のようだし、どこからか「もう無理だ……」「家に帰りたい……」という怨嗟の声が聞こえてくる。

(……嫌な予感がするわ。この空気、決算期の経理部と同じ匂いがする)

私の防衛本能が警鐘を鳴らす中、騎士はある重厚な扉の前で足を止めた。

『宰相執務室』

金色のプレートが輝いている。

「こちらです。閣下がお待ちです」

騎士が扉をノックし、開ける。

「失礼します! 新人をお連れしました!」

私は背筋を伸ばし、颯爽と部屋に入った。

「おはようございます。本日付で配属されました、メメリア・オルコッ……」

挨拶は、途中で止まった。

なぜなら、目の前に広がっていた光景が、あまりにも『地獄』だったからだ。

広い執務室の中は、書類、書類、書類の山だった。

床が見えない。

机も見えない。

書類の塔が迷路のようにそびえ立ち、その隙間を、顔色の悪い文官たちがゾンビのように彷徨っている。

「な……なによこれ……? 古紙回収センター?」

私が呆然としていると、書類の山の一つが崩れ、その奥から一人の男が現れた。

「やあ、来たか。時間通りだな」

執務机(らしき場所)に座り、優雅に羽ペンを走らせていたのは、あのギルだった。

ただし、今日の彼は行商人のローブではない。

王族だけが許される漆黒の軍服に、豪華な肩章。

そして、その胸には「宰相」であることを示す徽章が輝いている。

「……あら、ギルさん。随分と立派なコスプレね」

私が引きつった笑みで言うと、彼はペンを置いて立ち上がった。

その瞬間、周囲の文官たちが一斉に直立不動になる。

「紹介が遅れたな。私はギルバート・フォン・アルカディア。この国の第一王子であり、宰相を務めている」

「……は?」

第一王子? 宰相?

私の脳内データベースが高速検索をかける。

隣国アルカディアの「鉄血宰相」。

冷徹な合理主義者で、国を富ませるためには手段を選ばないという、あの……?

「騙していたわけではない。身分を明かすと、皆が萎縮して本音を話さないのでな」

ギルバート殿下(昇格)は、悪びれもせずニヤリと笑った。

「どうだ? 驚いたか?」

「ええ、驚きました」

私は伊達メガネの位置を直した。

「てっきり、あなたはただの人材コーディネーターかと思っていましたが……まさか、この『ゴミ屋敷』の最高責任者だったとは」

「……ゴミ屋敷?」

「ええ。これのどこが執務室ですか? これはただの『未処理案件の墓場』です!」

私は書類の山を指差して叫んだ。

相手が王子だろうが宰相だろうが関係ない。

この非効率な空間が、私の美学を土足で踏みにじっていることの方が大罪だ。

「見てください、この書類! 日付が三ヶ月前のものですよ!? こっちは承認印が押されてないまま放置されてる! あそこの文官なんて、書類の山に埋もれて寝てるじゃないですか!」

私はズカズカと部屋の中へ進軍した。

「あ、危ないぞメメリア! その辺りは『未決裁の樹海』と呼ばれていて……」

「黙りなさい! 今日から私がここを管理します!」

私は近くにいた文官の手から、書類の束をひったくった。

パラパラと内容を確認する。

「……なるほど。予算申請書、陳情書、報告書がごちゃ混ぜね。優先順位(プライオリティ)の概念がないのかしら」

私は深呼吸をした。

そして、部屋全体に響き渡る声で宣言した。

「全員、作業中止! これより『執務室・大掃除作戦』を開始します!」

文官たちがポカンとしている。

ギルバート殿下だけが、面白そうに腕を組んで見ている。

「まず、部屋の真ん中に線を引いて! 右側を『即時処理』、左側を『ゴミ箱行き』にします!」

「ご、ゴミ箱行き……ですか?」

死にそうな顔をした文官長がおずおずと尋ねる。

「ええ。期限切れの陳情書、内容のない報告書、時候の挨拶だけの書簡。これらは全て資源ゴミです。燃えるゴミの日に出しなさい!」

「し、しかし、貴族からの手紙を捨てるなんて……」

「私が責任を持ちます! 文句があるなら私に言いに来させなさい! 『私が捨てました』と笑顔で答えてあげるから!」

私の迷いのない指示に、文官たちがざわめき始める。

彼らは今まで、上からの顔色を伺って、何も捨てられずにいたのだ。

そこに現れた、責任を取ると言い切る謎の女。

彼らの目に、希望の光が宿り始めた。

「さあ、動いて! まずは床を見せること! それが第一目標よ!」

「は、はいっ!」

「了解しました!」

ゾンビだった文官たちが、水を得た魚のように動き出す。

私はその中心で、次々と運ばれてくる書類を捌いていった。

「これは却下!」
「これは承認、殿下のハンコ待ちボックスへ!」
「これは書き直し、赤ペン入れて突き返して!」
「これは……読めない! 字が汚い! 書き直し!」

バサッ、バサッ、バサッ!

書類が舞う。

私の処理速度は、もはや人間のそれではない。

公爵家で鍛え上げた事務能力と、エリオット殿下の尻拭いで培った「ダメな書類を見抜く目」が火を吹く。

「すごい……」

「なんだあの速さは……」

「女神だ……事務処理の女神が舞い降りた……」

いつしか、文官たちの私を見る目が、崇拝に近いものに変わっていた。

そして一時間後。

あんなに高かった書類の山は、綺麗さっぱり消滅していた。

床が見える。

窓から光が入る。

空気が美味しい。

「ふぅ……。とりあえず、第一段階クリアね」

私は額の汗を拭い、満足げに腰に手を当てた。

部屋の隅には、天井まで届きそうな「処分書類」の山と、綺麗に整頓された「決裁待ち」のトレイが並んでいる。

静まり返った執務室で、パチパチパチ、と拍手の音が響いた。

「見事だ。……まさか、あの一ヶ月分の滞留案件を、わずか一時間で片付けるとは」

ギルバート殿下が、心底感心したように歩み寄ってきた。

「私の目に狂いはなかったようだ。君はまさに、私が求めていた『最強の右腕』だ」

「お褒めにあずかり光栄です、殿下」

私はツンと澄まして答えた。

「ですが、これで終わりではありませんよ。これはただの対症療法。根本的なシステムを変えない限り、また一ヶ月後には元通りです」

「ほう? では、どうすればいい?」

「業務フローの全面見直しが必要です。決裁権限の委譲、ペーパーレス化、そして何より……」

私は殿下の胸元をビシッと指差した。

「トップである殿下が、全ての書類に目を通そうとする『完璧主義』をやめることです。部下を信じて任せる。それが上司の仕事(タスク)です」

その言葉に、ギルバート殿下は一瞬きょとんとし、それから今日一番の大きな声で笑った。

「ははは! 私に説教をするとは! 父上でも遠慮するというのに!」

「残業代に含まれる業務ですので」

「いいだろう。気に入った。……メメリア、君に全権を与える。この執務室を、いや、この国の行政を、君の色に染めてくれ」

殿下は私の手を取り、その甲に恭しく口づけを落とした。

……普通なら、ここでときめく場面なのだろう。

しかし、私は冷静に計算していた。

(この権限委譲……つまり、責任重大ってことよね? 基本給アップの交渉材料(カード)になるわ)

「承知いたしました。では早速ですが、殿下」

私は手を引き抜き、うず高く積まれた「決裁待ちトレイ」をドン!と彼の前に置いた。

「部下が整理したこの重要書類、今日中に全てハンコを押してくださいね。終わるまで帰しませんから」

「……え?」

「定時退社が私の条件です。上司が残っていると帰りづらいので、さっさと片付けてください」

「……鬼か、君は」

「いいえ、メメリアです」

私はニッコリと微笑み、羽ペンを殿下に握らせた。

こうして、私の王宮での初日は、宰相閣下を定時まで監視し続けるという、前代未聞の業務で幕を開けたのだった。
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