悪役令嬢は、その婚約破棄(ボーナス)を待っていた!

黒猫かの

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「メメリア。少し手を止めてくれないか」

夕刻。定時退社まであと十分という絶妙なタイミングで、ギルバート殿下が私を呼んだ。

私はピタリとペンを止めた。

「殿下。このタイミングでの呼び出しは、残業フラグとみなしてよろしいでしょうか? 一分でも過ぎれば、一五分単位で切り上げて請求させていただきますが」

「……相変わらずだな、君は。安心しろ、業務連絡だ」

殿下は苦笑しながら、デスクの下から大きな箱を取り出した。

艶やかなベルベット張りの、見るからに高級そうな箱だ。

ドン、と私の目の前に置かれる。

「これは?」

「君への支給品だ。開けてみてくれ」

支給品?

新しい高性能計算機か、それとも疲れ目に効く高級目薬だろうか。

期待に胸を膨らませて蓋を開けると――。

そこには、目がくらむような深い青色(ロイヤルブルー)のドレスが収められていた。

「…………」

私は無言で箱の中身を凝視した。

滑らかな手触りのシルク。

胸元には繊細な銀糸の刺繍。

そして、散りばめられた小さなサファイアが、夕日を受けてキラキラと輝いている。

「……殿下」

「どうだ? 君の瞳の色に合わせて選んだのだが」

「素材は東方の最高級シルク。刺繍は王室御用達の『針の魔女』の工房のもの。宝石は……鑑別書を見るまでもなく、VVSクラスの天然サファイアですね」

私は手袋をして(素手で触ると皮脂がつくので)、ドレスの生地を慎重に摘んだ。

「市場価格でざっと見積もって、金貨八〇〇枚。……これを私に?」

「ああ」

「なるほど。これを転売して、王宮の修繕費に充てろと? 素晴らしい資金調達策です!」

私が箱を抱えて質屋へ走ろうとすると、殿下が慌てて私の腕を掴んだ。

「違う! 売るな! 着るんだ!」

「……着る?」

私は動きを止めた。

「何のために? 執務室でこんなヒラヒラしたものを着ていたら、インク汚れのリスク(損害賠償)が発生しますが」

「執務室で着るわけがないだろう。……来週、王宮で建国記念の夜会が開かれる。君には、私のパートナーとして出席してもらいたい」

殿下の言葉に、私は「あー……」と気の抜けた声を出した。

夜会。

そういえば、ここ数日、礼服課の予算申請が増えていると思ったら、そういうことか。

私は冷静に計算機を取り出した。

「殿下、確認させていただきます。その夜会への参加は、私の『業務命令』に含まれますか?」

「……まあ、宰相補佐官としての立場もあるからな。業務と言えなくもない」

「拘束時間は?」

「一八時から二二時まで。その後、王族主催の二次会があるから……終了は深夜〇時頃かな」

カチャカチャカチャ、ターン!

私が計算機を叩く音が響く。

「算出しました。定時(一七時)以降の拘束となるため、七時間の深夜残業扱いとなります。また、ダンスのパートナーを務める場合、足を踏まれる等の身体的リスク、および貴族たちへの愛想笑いによる精神的疲労を考慮し、『特殊任務手当』を加算させていただきます」

私は計算結果を殿下に見せた。

殿下は、額に手を当てて天を仰いだ。

「……普通、王族からの夜会の誘いといったら、令嬢にとっては最高の名誉だと思うのだが」

「名誉でパンは買えません。それに、ドレスを着てヒールで立ちっぱなしというのは、重労働です」

「はぁ……。わかった、支払おう。残業代も手当も、君の言い値でいい」

「交渉成立ですね!」

私はニッコリと笑った。

ただ飯(豪華な立食パーティー)が食べられて、しかも残業代が出る。

こんなおいしい仕事はない。

「では、早速試着してくれ。サイズが合うか確認したい」

「え、今ここで?」

「奥に更衣室があるだろう。侍女を呼んである」

用意周到だ。

私は渋々、ドレスを持って更衣室へと向かった。

侍女たちの手によって、コルセットを締め上げられ(「もう少し緩めてください、呼吸効率が下がります」と抗議したが却下された)、ドレスを着せられる。

鏡の前に立つと、そこには別人のような私がいた。

深い青色のドレスは、私の肌の白さを際立たせ、銀の刺繍が星空のように輝いている。

「……悪くないわね」

資産価値としても、デザインとしても一級品だ。

私は更衣室を出て、殿下の待つ執務室へと戻った。

「お待たせしました。着用完了です」

コツ、コツ、とヒールの音を響かせて歩く。

書類に目を通していた殿下が顔を上げ――そして、固まった。

持っていた羽ペンが、手から滑り落ちて床に転がる。

「…………」

殿下は何も言わない。ただ、私をじっと見つめている。

「殿下? どうされました? サイズが合いませんでしたか?」

私が首を傾げると、殿下はようやく我に返ったように咳払いをした。

「……いや。……驚いた」

「やはり? 少し派手すぎましたか? サファイアの配置が、光の屈折率を考慮すると少しうるさいかもと……」

「違う。……綺麗だ、と言っているんだ」

殿下が、真っ直ぐな瞳で私を見つめた。

その声のトーンが、いつもより半音低く、そして甘い響きを含んでいたため、私の背筋がゾクリとした。

「……え」

「普段のスーツ姿も知的で好きだが……ドレス姿の君は、言葉を失うほど美しい」

殿下がゆっくりと歩み寄ってくる。

その瞳に映っているのは、部下としての私ではなく、一人の女性としての私だ。

(……な、なによ、この空気)

計算外だ。

ただの衣装合わせのはずなのに、心拍数が異常値を検知している。

殿下の整った顔が近づく。

自然な動作で、私の手を取り、指先に唇を寄せようとして――。

「――あっ、殿下! ストップ!」

私は反射的に殿下の口元を手で塞いだ。

「むぐっ!?」

「あ、すみません! でも殿下、このドレスは『レンタル品(貸与物)』扱いです! 化粧や唾液が付着すると、クリーニング代が追加請求される恐れがありますので!」

ロマンチックな空気を、物理的かつ金銭的な理由で粉砕する。

殿下は私の手を外し、がっくりと肩を落とした。

「……君は、本当に……」

「管理責任者として当然の配慮です。……それで、サイズは問題ないですね?」

私はくるりと一回転してみせた。

「……ああ、完璧だ。当日は、誰よりも輝くだろうな」

殿下は諦めたように、しかし優しく微笑んだ。

「楽しみにしておけ。当日は、我が国の貴族たちに、私の『最愛のパートナー』を自慢させてもらうからな」

「はい! 私の『最高の業務実績(ドレス姿)』を、しっかりとアピールしてまいります!」

こうして、夜会への参加が決定した。

殿下の言う「パートナー」と、私が認識している「業務パートナー」の意味が、決定的に食い違っていることに気づかないまま。

私は更衣室へ戻りながら、頭の中で当日のスケジュールを組んだ。

(一八時入場。まず主催者への挨拶回りで一五分。その後、ビュッフェエリアの原価率調査。ダンスを一曲踊ってノルマ達成。あとは……有力な貴族との名刺交換で人脈作りね)

完璧だ。

この夜会で、将来の独立開業に向けたスポンサーを見つけられるかもしれない。

「ふふふ、稼ぎ時ね」

ドレスを脱ぎながら、私は野心に燃えていた。

その夜会で、予想外のトラブル……とある「恋のライバル(?)」が出現することなど、この時の私はまだ知らなかったのである。
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