悪役令嬢は、その婚約破棄(ボーナス)を待っていた!

黒猫かの

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「大変です、メメリア様! 宰相閣下が倒れられました!」

翌朝、執務室に飛び込んできた騎士の悲鳴で、私のペン先がポキリと折れた。

「……倒れた? あの鉄人宰相が?」

「はい。高熱を出して……今朝、ベッドから起き上がれず……」

「なんと……」

私は折れたペンを置き、眉間を揉んだ。

原因は明白だ。

一昨日の夜会での長時間の立ち仕事。

昨日の私による「トイレ逃亡事件」での精神的ストレス。

そして何より、私が休暇を取ろうとしたため、私の分の仕事まで夜通し片付けていた過労。

「……完全なる『システムダウン』ね」

私は立ち上がった。

「案内して。重要生産拠点の復旧作業(リカバリー)に向かうわ」

「は、はい!」

案内されたのは、王宮の奥にあるギルバート殿下の私室だった。

重厚な扉を開けると、そこは意外なほど殺風景な部屋だった。

あるのはベッドと、数冊の本、そしてサイドテーブルのみ。

(……生活感がないわね。仕事人間ここに極まれり、だわ)

ベッドの上には、苦しげな呼吸を繰り返すギルバート殿下の姿があった。

普段の完璧にセットされた髪は乱れ、前髪が額に張り付いている。

端整な顔は熱で赤く染まり、ワイシャツのボタンがだらしなく開いている。

「…………」

私は入り口で立ち止まった。

(……まずい)

私の脳内アラートが鳴る。

普段の「氷の宰相」モードも破壊力があるが、この「無防備で弱った美青年」モードは、精神衛生上極めて危険だ。

母性本能という名の、計算外の感情プログラムが起動しそうになるのを必死で抑え込む。

「……メメリア、か?」

うつろな瞳が、私を捉えた。

「来ちゃ……だめだ。うつる……」

かすれた声。

私は深呼吸をして、意識を「看護モード」……いいえ、「保守点検モード」に切り替えた。

私はツカツカとベッドサイドに歩み寄り、殿下の額に手をかざした。

「すごい熱ですね。体感で三九度はあります。これではCPU(脳)が暴走するのも無理はありません」

「……すまない。仕事を……休むことに……」

「謝罪は不要です。そのエネルギーを回復に回してください」

私はテキパキと動いた。

まず、部屋のカーテンを少し開けて換気を行う(空気循環の改善)。

次に、水盆とタオルを用意し、殿下の額の汗を拭う(冷却効率の向上)。

そして、サイドテーブルにあった冷めた水を捨て、新鮮な水を注ぐ(水分補給ラインの確保)。

「さあ、殿下。まずは水分を。脱水症状はパフォーマンス低下の主因です」

私がグラスを差し出すと、殿下は弱々しく身を起こそうとしたが、よろめいて倒れそうになった。

「っと……」

「あぶない!」

私はとっさに殿下の背中に手を回し、その体を支えた。

ズシリ、と重い。

成人男性の重みと、服越しに伝わる高熱の体温。

「……すまない。力が入らない……」

私の肩にもたれかかる殿下。

その熱い吐息が、私の首筋にかかる。

(ひっ……!)

背筋がゾクゾクする。

昨日の動悸が再発しそうになるが、今は緊急事態だ。

私は必死に冷静さを保ち、殿下の口元にグラスを運んだ。

「ほら、飲んでください。こぼすとシーツの洗濯代がかかりますよ」

殿下は私の手から水を飲み干し、ふぅ、と息をついた。

「……君は、優しいな」

「優しくありません。主力機(トップ)がダウンすると、現場が混乱して私の残業が増えるからです」

「ふふ……相変わらずだ」

殿下は弱々しく笑い、再び枕に沈んだ。

「……氷のうを変えますね」

私は新しい氷をタオルに包み、殿下の額に乗せた。

その時。

殿下の手が伸びてきて、私の手首を掴んだ。

熱い手。でも、握る力は弱い。

「……行かないでくれ」

潤んだ瞳が、私を見上げている。

「一人だと……静かすぎるんだ。君の電卓を叩く音が聞こえないと、落ち着かない」

「……何ですか、その奇妙な依存症は」

私は呆れたが、その手を振り払うことはできなかった。

「行きませんよ。殿下の熱が下がるまで、ここで監視(モニタリング)させていただきます」

「……そうか。……よかった」

殿下は安心したように目を閉じた。

しばらくして、規則正しい寝息が聞こえてきた。

私はベッド脇の椅子に座り、眠る殿下の顔を見つめた。

長いまつ毛。通った鼻筋。

黙っていれば、ただの美しい芸術品のようだ。

(……この人を、私が支えているのね)

ふと、そんな思いがよぎった。

この国の頭脳であり、冷徹な宰相。

でも今は、私がいないと水も飲めない、ただの弱った人間だ。

その脆弱さ(もろさ)を見た瞬間、私の中でパチンと何かが弾けた。

『恋』とか『愛』とか、そんな不確かなものではない。

もっと強固で、実利的な感情。

そう――**「管理欲」**だ。

(この貴重な国家資産(アセット)を、これ以上毀損させるわけにはいかないわ)

私の「所有者意識」に火がついた。

このハイスペックな男は、適切なメンテナンスと燃料補給を行えば、無限の富と安寧を生み出す最高のシステムだ。

それを、過労や風邪ごときで故障させるなど、管理者(わたし)のプライドが許さない。

「……決めました、殿下」

私は眠る殿下の耳元で、小さく宣言した。

「あなたの健康管理、スケジュール管理、メンタルケア……すべて私が引き受けます。私が許可するまで、風邪をひくことも、過労で倒れることも許しません」

それは、実質的な「生涯契約」の申し出のようなものだったが、本人は気づいていない。

私は殿下の熱い手を、自分の両手で包み込んだ。

「早く治してくださいね。……溜まった書類の山が待っていますから」

そう言いながらも、私は自然と、殿下の乱れた前髪を優しく撫でていた。

その手つきが、自分でも驚くほど慈愛に満ちていたことに、私は気づかないふりをした。

数時間後。

殿下の熱が引き始めた頃、部屋の外から騒がしい声が聞こえてきた。

「おい! ここは王宮だぞ! 通せ!」
「なりません! 現在は宰相閣下が病床に……!」

(……騒がしいわね。安眠妨害よ)

私は眉をひそめ、そっと部屋を出た。

そこには、見覚えのある――そして二度と見たくなかった顔があった。

「メメリア! やはりここにいたか!」

祖国オランヌの使者。

その後ろには、なんと変装したエリオット王太子その人が立っていた。

私の「管理」する平和な時間を乱す、最大の「不良債権」たちが、ついに国境を越えてやってきたのだ。
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