歓喜!婚約破棄で田舎へ逃亡します!

黒猫かの

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「……ん、ふあ……」


馬車が石畳を走る規則的な振動音で、私は薄く目を開けた。


窓の外を見ると、王宮の尖塔がすでに遠ざかりつつある。


夢ではなかった。


あのアレック王子との不毛な婚約劇がついに幕を下ろしたのだ。


「最高……」


私は誰に聞かせるでもなく呟くと、すぐさま行動を開始した。


まずは、この拘束具のようなドレスを脱ぎ捨てなければならない。


「セバスチャン、周囲に人気は?」


運転席と客室を繋ぐ小窓をノックして尋ねる。


「ご安心ください、お嬢様。現在は裏通りを抜けて街道へ出たところです。護衛騎士も撒きましたので、覗き見される心配はございません」


「優秀ね。じゃあ、着替えるわ」


「承知いたしました。揺れますのでご注意を」


私は窓のカーテンを隙間なく閉め切り、背中のフックに手を回した。


本来ならメイドの手を借りなければ脱げないような複雑な構造だが、私はこの日のために密かに練習を重ねてきた。


関節を外し、柔軟性を極限まで高めた『高速脱衣術』である。


バチバチッ!


若干、布が悲鳴を上げた気がするが気にしない。


どうせ二度と着ないドレスだ。


私は重たいシルクの塊を脱ぎ捨て、床の隅へと蹴っ飛ばした。


コルセットも引きちぎるように外し、放り投げる。


「はあ……生き返った……!」


肋骨が正しい位置に戻り、内臓が喜びの歌を歌っている。


深呼吸を一つしてから、私は座席の下に隠しておいたトランクを開けた。


中に入っているのは、最高級の綿素材で作らせた特注の部屋着――前世の記憶にある『ジャージ』を再現した、上下セットの衣類だ。


色は落ち着いたグレー。装飾はゼロ。


貴族令嬢が見れば卒倒しそうなほど地味だが、伸縮性と肌触りは王家の正装を遥かに凌駕する。


私はそれを素早く身にまとい、髪を束ねていたピンをすべて抜き取った。


バサリと銀髪が広がる。


頭皮のつっぱりもなくなり、完全なリラックスモードへの移行が完了した。


「セバスチャン、状況報告を」


私はジャージのポケットに手を突っ込みながら、小窓を開けた。


「はっ。現在地は王都西門を通過。追手の気配はありません。アレック殿下はまだ大広間で呆然とされているとの情報が入っております」


「ふん、あのボンクラ王子にしては上出来ね。まさか私が三年前から逃走ルートを確保していたとは夢にも思わないでしょうし」


「お嬢様のご慧眼には恐れ入ります。まさか、慰謝料請求書の裏面が『国外追放同意書』になっていたとは、殿下も気づかれますまい」


「ええ。あれにサインした時点で、彼は私を公的に追放したことになるわ。これで実家の父様も、王家に対して文句は言えても、私を連れ戻すことはできない」


私はニヤリと笑った。


私の実家、スリープ公爵家は国の物流を牛耳る大富豪だ。


父は私を王妃にする気満々だったが、それも今日で終わり。


「お父様には手紙を残してきたわよね?」


「はい。『探さないでください。探したら物流を止めます』と書かれた置き手紙を、執務室の扉に釘で打ち付けておきました」


「完璧よ」


脅迫まがいだが、あの父にはそれくらいで丁度いい。


私は座席に深く座り直し、クッションの位置を調整した。


この馬車も、ただの馬車ではない。


外見こそ地味な辻馬車を装っているが、車軸には衝撃吸収用の魔道具が組み込まれ、座席には最高級の低反発素材が使われている。


すべては、移動中も快適に眠るため。


「それにしてもお嬢様。本当によろしいのですか? 行き先は北の辺境、別荘とは名ばかりの……」


セバスチャンの声に、わずかに懸念が混じる。


「いいのよ。むしろ、それがいいの」


私が目指しているのは、領地の北端にある山奥の古い別荘だ。


社交界からは完全に隔離され、訪問客など熊か山賊くらいしか来ない僻地。


「王都の喧騒も、夜会の招待状も、山積みの書類もない場所……。今の私にとっては、そここそが楽園(エデン)よ」


「しかし、使用人も最低限しかおりませんし、生活水準は下がりますが」


「セバスチャン、貴方は分かっていないわ」


私は人差し指を立ててチッチッと振った。


「最高の贅沢とは、高級な食事でも煌びやかなドレスでもないわ」


「では、何だと?」


「『誰にも邪魔されずに二度寝する』。これに尽きるわ」


「……なるほど。お嬢様らしいお答えです」


セバスチャンが苦笑している気配が伝わってくる。


彼は私が幼い頃からの付き合いで、私の睡眠に対する異常な執着を理解してくれる数少ない理解者だ。


だからこそ、こうして私の逃避行に付き合ってくれている。


「到着までどれくらいかかる?」


「急げば三日ほどですが、お嬢様の安眠を優先し、揺れを最小限に抑えた速度で参りますので、五日ほどかと」


「素晴らしい配慮ね。じゃあ、私は本格的に寝るから、食事の時以外は起こさないで」


「承知いたしました。おやすみなさいませ、カモミール様」


小窓を閉めると、車内は再び静寂に包まれた。


私はアイマスクを取り出し、装着する。


視界が完全に遮断されると、その他の感覚が研ぎ澄まされる。


車輪の回る音。風を切る音。


それらが心地よいBGMとなって、私を夢の世界へと誘っていく。


(ああ……幸せ……)


これから先、どんな困難が待ち受けていようとも、今の私には関係ない。


少なくとも、明日提出期限の予算案もなければ、王子の浮気相手の相手をする必要もないのだから。


私はジャージの袖を枕代わりに、愛おしい眠りの淵へと沈んでいった。


――まさかその数日後、安眠の地であるはずの別荘で、とんでもない『先客』に遭遇することになるとは露知らず。


私の平和な隠居計画に暗雲が立ち込めていることに、私はまだ気づいていなかったのである。
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