歓喜!婚約破棄で田舎へ逃亡します!

黒猫かの

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「到着だ」


ドスンッ!


重力という名の現実が、私の足裏に戻ってきた。


「……おえっ」


私は地面に四つん這いになり、込み上げてくる吐き気を必死に堪えた。


空を飛ぶこと十分。


魔力による防風結界があったとはいえ、音速に近いスピードで移動されたのだ。


三半規管が弱いインドア派の私にとって、それは拷問以外の何物でもなかった。


「大丈夫か?」


頭上から、悪びれる様子もないシルベスターの声が降ってくる。


私はふらつく足で立ち上がり、乱れた髪をかき上げながら彼を睨みつけた。


「……誘拐、監禁、そして危険運転致傷。罪状が三つになりましたね。慰謝料が倍増しましたよ」


「金なら払うと言っただろう。いくらでも請求しろ」


シルベスターは涼しい顔で答える。


昨夜の睡眠のおかげか、彼の肌艶は悔しいほど良く、魔王という異名にふさわしい威圧感と色気がダダ漏れになっている。


私は大きくため息をつき、周囲を見渡した。


「……で、ここは?」


目の前に聳え立っていたのは、断崖絶壁の上に建つ巨大な城塞だった。


黒い石材で組まれた城壁。


空を突き刺すような尖塔。


周囲には常に雷雲が渦巻き、時折ピシャーン! と紫色の稲妻が走っている。


「ナイトメア公爵家の居城、『常闇の城(エヴァー・ダークネス)』だ」


「ネーミングセンスが中二病ですね」


「五百年前の先祖がつけた名前だ。文句なら墓に向かって言ってくれ」


シルベスターは私の背中を押した。


「さあ、入れ。俺の『寝室』へ案内する」


「言い方! そこはまず『客間』でしょう!?」


私が抗議する間もなく、巨大な鉄の扉がギギギ……と重々しい音を立てて開いた。


「おかえりなさいませ、閣下!」


ズラリと並んだ騎士や使用人たちが、一斉に最敬礼で出迎える。


彼らの装備は黒一色。顔つきも歴戦の猛者といった風情で、正直怖い。


しかし、彼らの視線は主君であるシルベスターではなく、その横にいる私に釘付けになっていた。


ボサボサの髪。


ヨレヨレのジャージ(部屋着)。


そして、目の下のクマ(元々あるやつ)。


「……お、おい。見ろよ」


「閣下が女を連れて帰ってきたぞ……」


「しかも、あんなにボロボロになって……」


「一体どんな激しい『夜』を過ごしたんだ……?」


ひそひそと交わされる会話が、風に乗って聞こえてくる。


誤解だ。


激しいのは夜の営みではなく、空の旅だ。


「おい、貴様ら。何を見ている」


シルベスターが低く唸ると、使用人たちは「ヒィッ!」と悲鳴を上げて視線を逸らした。


「カモミール、行くぞ」


彼は私の手首を掴み、大股で城内へと進んでいく。


「ちょっと、歩くのが速いです! 私の歩幅を考えてください!」


「チッ……面倒だな」


シルベスターはいきなり立ち止まると、再び私を米俵のように担ぎ上げた。


「きゃっ!? だから、担ぐなと言っているでしょう!」


「この方が速い。俺は一刻も早く、続きがしたいんだ」


「続きって何ですか! 変な風に聞こえることを言わないで!」


城の廊下ですれ違うメイドたちが、顔を真っ赤にして口元を押さえている。


ああ、もうダメだ。


私の「悪役令嬢」としての評判に、「魔王の愛人(ドM)」という不名誉な称号が追加された瞬間だった。


連れてこられたのは、城の最上階にある広大な寝室だった。


床にはふかふかの絨毯が敷き詰められ、部屋の中央にはキングサイズどころかエンペラーサイズと呼べそうな巨大な天蓋付きベッドが鎮座している。


「……無駄に広いですね」


「俺が寝返りを打つたびに魔力が放出されるからな。壁が近くにあると壊れるんだ」


シルベスターは私をベッドの上に放り投げた。


ボフンッ!


「いったぁ……! 扱いが雑!」


私はバウンドしながら体勢を立て直した。


「さあ、始めようか」


シルベスターが軍服の上着を脱ぎ捨てながら近づいてくる。


「待って待って! 何を始める気ですか!」


私は後ずさり、背中がヘッドボードに当たった。


「決まっているだろう。睡眠だ」


彼は真顔で言った。


「俺は昨夜のあの感覚が忘れられないんだ。深く、暗く、甘美な闇に落ちていくあの快感……。もう、あれなしでは生きていけない」


「……あのですね、それは単なる『爆睡』です。快感とか言わないでください」


「同じことだ。カモミール、責任を取れ」


ドンッ!


本日二度目の壁ドン(ベッド上バージョン)。


至近距離で見る魔王の瞳は、切実さと欲望(睡眠欲)でギラギラと輝いている。


「俺の体をこんな風にしたのは、お前だ」


「語弊があります!」


「お前の作ったあの茶……そして、お前の体温。あれがないと、体が疼いて落ち着かないんだ」


「それはただの禁断症状では?」


「頼む。もう一度、俺をイかせてくれ(寝かせてくれ)」


「言葉を選べと言っているんです!」


私は真っ赤になって叫んだ。


この男、天然なのか計算なのか分からないが、ワードチョイスがいちいちセンシティブすぎる。


「……はぁ。分かりました。事情は分かりましたから、少し離れてください」


私は彼の方を押し返した。


びくともしないが、意思表示は重要だ。


「シルベスター様。貴方が不眠症で苦しんでいるのは同情します。私も元・不眠症患者ですから」


「元?」


「ええ。アレック王子との婚約を破棄してからは、毎日八時間睡眠を厳守しています」


「裏切り者め……」


「何とでも言ってください。とにかく、私は貴方の抱き枕になるつもりはありません。私は自由な隠居生活を求めて辺境に来たのです」


「ここも辺境だぞ」


「ここは職場です! こんな魔力濃度が高い場所で、安眠できるわけがないでしょう!」


私はビシッと指を突きつけた。


「私を解放してください。さもなくば、実家に連絡して物流を止めますよ? スリープ公爵家の輸送網を使わずに、どうやってこの北の果てで物資を調達するつもりですか?」


これは強力なカードだ。


スリープ家は大陸全土の流通の七割を握っている。いくら魔王でも、兵糧攻めには勝てないはずだ。


シルベスターは少し考え込むように顎に手を当てた。


「……ふむ。確かに物流を止められると困るな。冬越しの備蓄がまだだ」


「でしょう? 分かったら、私を元の別荘に……」


「だが、お前を帰せば、俺はまた眠れない夜を過ごすことになる。それは死に等しい」


彼は深刻な顔で首を振った。


「カモミール。俺は金も権力も持っているが、安眠だけは手に入らなかった。だが、お前がいればそれが叶う」


彼は私の手を取り、跪いた。


まるで求婚する騎士のように。


「頼む。俺の専属になってくれ。給金は今の三倍……いや、五倍出す」


「お金の問題じゃ……ご、五倍?」


私はピクリと眉を動かした。


公爵家の予算規模での五倍となれば、一生遊んで暮らせる額だ。


「さらに、福利厚生として以下の条件を提示する」


シルベスターは懐から羊皮紙を取り出し、即席で書き込み始めた。


「一、一日の労働時間は八時間以内。残業なし」


「ほう」


「二、昼寝の時間は業務時間に含まれるものとする」


「なんですって?」


「三、寝具は王家御用達の最高級ブランド『ヘヴンリー・スリープ』の新作を支給する」


「っ……!? 『ヘヴンリー・スリープ』の新作!? あれは予約五年待ちの幻の品ですよ!?」


私の心が大きく揺らいだ。


あのマットレスは、雲の上で寝ているような感覚が味わえると評判の逸品だ。


「四、食事は専属シェフが三食昼寝付きで提供する。スイーツも食べ放題だ」


「……」


「どうだ? これでも帰るか?」


シルベスターはニヤリと笑った。


卑怯だ。


私の弱点を完全に把握している。


睡眠欲と食欲、そして金銭欲(老後の資金)。


この三つを同時に満たす条件を提示されて、断れる人間が果たして存在するだろうか?


いや、しない。


「……ひとつ、確認しても?」


「なんだ?」


「業務内容の詳細は?」


「簡単だ。『俺が寝る時にそばにいること』。それだけだ」


「……それだけ? 書類整理とか、魔獣討伐とかは?」


「必要ない。そんなものは部下にやらせる。お前の仕事は、俺を寝かしつけることだ」


「……触る場所は手首まで、という条件を追加していただけるなら」


「……抱き枕がないと効果が薄いかもしれないが……まあ、いいだろう。徐々に慣らしていく」


「交渉成立ですね」


私はシルベスターの手を握り返した。


「カモミール・スリープ、本日よりシルベスター・ナイトメア公爵閣下の専属『安眠コンサルタント』として就任いたします」


「安眠コンサルタント……? まあいい、呼び方は好きにしろ」


シルベスターは満足げに頷くと、立ち上がった。


「では、早速業務を開始する」


「はい?」


「俺はまだ眠い。二度寝の時間だ」


彼はそのまま、私を巻き込んでベッドに倒れ込んだ。


「ちょっ、話が違う! 手首までって言ったでしょう!」


「契約書へのサインはまだだ。今は仮契約期間だから無効だ」


「詐欺だーっ!」


私の抗議は、彼の広い胸板に吸収された。


ガチャリ。


その時、部屋の扉が再び開いた。


「閣下! 大変です! 王都から緊急の連絡が……あっ」


飛び込んできたのは、老齢の執事だった。


彼はベッドの上で組み敷かれる私と、覆いかぶさる主君を見て、眼鏡をずり落とした。


「し、失礼いたしましたぁっ! まさか昼日中から『子作り』の最中とは露知らず!」


「違う! 断じて違う!」


「お励みくださいませ! 跡継ぎのご誕生を心待ちにしております!」


バタン!


扉が固く閉ざされた。


「……終わった」


私は天井を仰いだ。


この城の人間は、全員耳が腐っているのだろうか。


それとも、この魔王公爵の日頃の行いが悪すぎるのだろうか。


「……気にすることはない」


シルベスターが私の耳元で囁く。


「事実は後からついてくる」


「不穏なことを言わないでください!」


「……ふあ……」


彼は大きなあくびをすると、私の首筋に顔を埋めた。


「……いい匂いだ……おやすみ、カモミール……」


数秒後には、彼は規則正しい寝息を立て始めた。


本当に、どれだけ溜まっていたんだ、睡眠負債。


私は動けない体で、ため息をついた。


「……おやすみなさい、雇い主様」


高給取りの道は、想像以上に険しそうだ。


私は諦めて目を閉じた。


まあ、ベッドの寝心地だけは最高だから、許してあげよう。


その頃。


王都の王宮では、私のいなくなった執務室で、アレック王子が地獄を見ていた。
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