歓喜!婚約破棄で田舎へ逃亡します!

黒猫かの

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「……カモミール様! 起きてください! 大変です!」


「……あと五分……いや、五年寝かせて……」


「そんなこと言っている場合ではありません! 城のホールが『貢ぎ物』で埋め尽くされております!」


マリーの悲鳴に近い呼び声で、私は強制的に覚醒させられた。


重たい瞼をこじ開けると、そこはいつもの翡翠の間……ではなく、シルベスターの寝室だ。


隣を見ると、私の抱き枕(シルベスター)がいない。


「……閣下は?」


「閣下はすでにホールで、殺気立った目で来客を威嚇しておられます!」


「……朝から元気ね」


私はあくびを噛み殺しながらベッドを降りた。


王都から帰還して一夜。


今日から再び、平穏な『食べて寝るだけ』の隠居生活が始まるはずだった。


はずだったのだが。


「……なんですか、これは」


着替えてエントランスホールに降りた私は、絶句した。


そこは、足の踏み場もないほどの『箱』の山だった。


木箱、桐箱、宝箱、リボンのかかった包み……。


それらが天井に届くほどの高さまで積み上げられている。


「おはよう、カモミール。……どうやら俺たちは、寝ている間に世界中から買い物をしたらしいぞ」


箱の山頂付近に腰掛けたシルベスターが、不機嫌そうに見下ろしていた。


「身に覚えがありません。これらは?」


「『婚約祝い』だそうだ」


彼は足元の封筒を拾い上げ、読み上げた。


「隣国の皇帝から『最高級ワイン百年分』。南の島の王から『安眠ハンモック・リゾート仕様』。ドワーフの族長から『ミスリル製の頑丈なベッドフレーム』……etc」


「……豪華ですね」


「さらに、王都の貴族どもからも大量に届いている。『先日は失礼しました』という詫び状と共にな」


シルベスターは鼻を鳴らした。


「現金な奴らだ。俺たちが勝ったと分かった瞬間、掌を返して擦り寄ってきやがった」


「まあ、それが貴族社会というものです。使えるものは使いましょう」


私は箱の一つを開けてみた。


中には、肌触りの良さそうなシルクのパジャマが入っていた。


「悪くありません。……で、閣下。なぜそんなに不機嫌なのですか?」


「……お前が起きてこないからだ」


シルベスターはふいっと顔を背けた。


「せっかくの休日だ。朝の二度寝、昼の三度寝、そして夕方のうたた寝……完璧なスケジュールを組んでいたのに、この荷物のせいで台無しだ」


「……子供ですか」


私は苦笑した。


この魔王様、私がいないと五分と持たないらしい。


「それに、セバスチャンがうるさいんだ。『結婚式の準備があります』『招待状のリスト確認を』『衣装合わせを』……。俺はただ、お前と寝ていたいだけなのに」


「……避けては通れない道です。諦めましょう」


私は彼の足元まで歩み寄り、手を伸ばした。


「降りてきてください。……今日は、大事な話があります」


「大事な話? ……まさか、婚約破棄か?」


シルベスターが飛び降りてきた。


その顔は、世界の終わりを見たかのように蒼白だ。


「違います。……昨日の、馬車の中での話の続きです」


「馬車……?」


彼は記憶を辿るように眉を寄せ、そしてハッとした。


「……プロポーズの件か」


「ええ。貴方は寝言のように言って、勝手に寝てしまいましたが……私はまだ、正式に返事をしていません」


私は彼を見上げた。


周囲には、片付けに追われる使用人たちが忙しなく動き回っている。


ロマンチックな雰囲気など欠片もない、段ボールと木箱の山の中。


でも、飾らない私たちには、ここがお似合いかもしれない。


「……シルベスター様」


私は彼の両手を取った。


「私の答えは、決まっています」


「……待て」


シルベスターが私を制止した。


「言うな」


「へ?」


「ここで言うな。……こんな荷物の山の中で、使用人たちの視線に晒されながら聞くのは嫌だ」


「……じゃあ、どこで?」


「場所を変える。……ついてこい」


彼は私の手を引き、大股で歩き出した。


「ちょ、どこへ!?」


「城で一番、眺めのいい場所だ」


連れてこられたのは、城の最上階にある『星見の塔』のテラスだった。


ここは普段、結界の維持のために立ち入り禁止になっている場所だ。


眼下には、常闇の領地の雄大な自然が広がっている。


遠くには雪を被った山々、近くには紅葉した森。


そして、澄み渡るような青空。


風が強く吹き抜け、私の髪を乱暴に揺らす。


「……綺麗」


「だろう。ここなら誰も邪魔できない」


シルベスターはテラスの手すりに背を預け、私に向き直った。


「……昨日の俺は、どうかしていた。眠気で頭が回っていなかったんだ」


彼は真剣な表情で、私の肩を掴んだ。


「だから、もう一度言わせてくれ。……シラフの頭で、ちゃんと」


「……はい」


心臓の音がうるさい。


風の音にかき消されないように、私は彼の一挙手一投足に集中した。


シルベスターは一度深呼吸をし、真っ赤な瞳で私を射抜いた。


「カモミール・スリープ」


「はい」


「俺は、お前が好きだ。……お前の淹れる茶も、冷たい手も、合理的すぎる思考も、そして俺のために怒ってくれるその強さも」


彼は言葉を紡ぐ。


不器用で、飾り気のない、けれど熱い言葉たち。


「お前がいない世界など、もう考えられない。……俺の人生という名のベッドの半分を、永遠にお前に譲渡したい」


「……ベッドの半分ですか」


「不服か? なら全部やる。俺は床で寝てもいい」


「いえ、半分で十分です。……貴方がいないと、寒いですから」


私は微笑んだ。


「……それで、返事は?」


シルベスターが、祈るような目で見つめてくる。


私は大きく息を吸い込み、そして――。


「……ふあぁ……」


盛大なあくびをしてしまった。


「……おい」


「す、すみません! 緊張しすぎて、逆に脳が酸欠に……!」


私は慌てて口元を押さえた。


なんてことだ。


一生に一度のプロポーズの返事の瞬間に、あくびをするなんて。


「……くくっ」


シルベスターが肩を震わせた。


「ははは! お前らしいな! 最高だ!」


彼は声を上げて笑った。


「緊張してあくびが出る女なんて、世界中探してもお前だけだ」


「わ、笑わないでください! 生理現象です!」


「いいや、それでこそ俺のカモミールだ」


彼は笑い涙を拭うと、再び私を抱き寄せた。


「で? あくびの続きは?」


「……答えは、イエスです」


私は彼の胸に顔を埋めたまま、もごもごと答えた。


「謹んでお受けします。……私の安眠も、貴方がいないと確保できないようですから」


「……そうか」


シルベスターの腕に力がこもる。


「ありがとう。……幸せにするぞ。毎日八時間睡眠を保証してやる」


「それは楽しみですね。……あと、三食昼寝付きも忘れずに」


「ああ。約束しよう」


風が吹き抜け、私たちの誓いを祝福するように包み込んだ。


こうして、私たちは正式に婚約者となった。


書類上の契約でもなく、利害関係でもなく、心からの合意として。


「……さて」


ひとしきり抱き合った後、シルベスターが顔を上げた。


「婚約も成立したことだし、早速『初仕事』といくか」


「初仕事? ……まさか、もう結婚式の準備を?」


「違う」


彼はニヤリと笑い、私を横抱きにした。


「このテラス、日当たり最高だろう?」


「はあ」


「そしてこの風、この静寂。……完璧なシチュエーションだ」


彼は懐から、圧縮魔法で小さくしていた『最高級ハンモック』を取り出した。


「えっ、ここで?」


「ああ。ここで昼寝をする。……これが、俺たち婚約者の最初の共同作業だ」


彼は手際よくハンモックを柱に固定し、私と一緒に乗り込んだ。


ゆらり。


宙に浮くような感覚。


青空が視界いっぱいに広がる。


「……閣下、下で皆が働いていますよ?」


「知らん。主役がいなければ準備も進まないだろう。……少し待たせておけ」


「……ふふっ。共犯ですね」


「ああ。俺たちはいつだって共犯だ」


シルベスターの体温が、秋風の冷たさを和らげてくれる。


ハンモックの心地よい揺れ。


太陽の暖かさ。


そして、愛する人の鼓動。


(……ああ、幸せ)


私は抵抗するのをやめ、彼の胸に身を委ねた。


「おやすみ、カモミール」


「おやすみなさい、シルベスター様」


私たちは、あくび混じりの誓いの口づけを交わし、そのまま泥のような二度寝へと落ちていった。


城の下では、セバスチャンとマリーが「お嬢様ー! 閣下ー! どこですかー!」と叫び回っている声が聞こえた気がしたが、それは夢の中のBGMとして処理された。


だが。


この優雅な逃避行も、そう長くは続かなかった。


数時間後、空腹で目を覚ました私たちを待ち受けていたのは、鬼の形相をしたセバスチャンと、積み上げられた『結婚式準備リスト』という名の、新たな地獄だった。


「……逃げられませんよ、お二人共」


セバスチャンの眼鏡が、キラリと光った。


「結婚式まであと一ヶ月。……それまでに、この山のようなタスクを消化していただきます」


私の目の前に、電話帳のような厚さのファイルが置かれた。


『招待客リスト(三千名)』
『料理メニュー選定(五百種類)』
『ドレスデザイン決定(五十着)』
『引き出物選定』
『式場の装花』
『警備計画』
『新居のリフォーム』
……etc。


「……これ、全部決めるの?」


私はファイルをパラパラとめくり、絶望した。


「無理です。こんなのやってたら寝る時間がなくなります」


「やらねば式は挙げられません」


「式なんて挙げなくていい! 書類だけでいい!」


シルベスターが叫ぶ。


「いけません。国王陛下も、隣国の皇帝陛下も出席されるのです。粗相があっては、また戦争になりますよ」


セバスチャンの正論が突き刺さる。


「……やるしかないようですね」


私は溜息をつき、ファイルを見つめた。


「……ですが、普通にやっていては間に合いません」


私の瞳に、久しぶりに『仕事の鬼』の光が宿った。


「シルベスター様。……覚悟はいいですか?」


「な、なんだ?」


「これより、スリープ家秘伝『超高速・結婚式準備術』を発動します」


「……嫌な予感がするぞ」


「私の『並列思考』と、貴方の『魔力』を組み合わせれば、一ヶ月の作業を一週間で終わらせられます」


私はニヤリと笑った。


「目的はただ一つ。『早く終わらせて寝るため』。……協力してくれますね?」


「……ああ。そのためなら、魔力の一滴まで絞り出そう」


私たちは固い握手を交わした。
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