塩対応の悪役令嬢は砕けない!

猫宮かろん

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「お嬢様、緊急事態です」

翌朝。

私がまだ布団の中で「あと五分」と戦っていると、ソルトが血相を変えて(といっても無表情だが)部屋に入ってきた。

「何? マシュ・マロが国境を越えたの?」

「いいえ。もっと深刻です。……廊下が『罠』だらけです」

「は?」

意味がわからず、私はガバッと飛び起きた。

着替えて廊下に出ると、そこには異様な光景が広がっていた。

廊下の真ん中に、点々と「何か」が置かれているのだ。

一歩進むごとに、小皿がある。

・極上のサラミ
・熟成されたミモレットチーズ
・アンチョビ入りのオリーブ
・燻製ナッツ(アーモンド入り)

まるで、森の小動物をおびき寄せる餌のようだ。

そして、その餌の列は、私の部屋から食堂へと続いている。

「……何これ」

「ペッパー執事によれば、旦那様による『カシュー嬢誘導作戦』だそうです」

「私をなんだと思ってるの!?」

「ちなみに、全てお嬢様の好物です」

「くっ……!」

悔しいが、その通りだ。

特に、三つ目の小皿にある「厚切りベーコンの黒胡椒焼き」からは、抗いがたい香りが漂っている。

私はゴクリと喉を鳴らし、しかし理性を総動員して踵を返した。

「食べないわよ! こんなあからさまな罠!」

「お嬢様、どちらへ?」

「裏口から出るわ。今日は一日、図書室か温室に避難する!」

私はドレスの裾をまくり上げ、廊下を逆走した。

朝から変人公爵の顔を見たら、胃もたれする。

物理的に距離を取るのが一番だ。

   *   *   *

私は屋敷の裏手にある、広大なハーブ園に逃げ込んだ。

ここなら、あの「おつまみ狂」も見つけられないだろう。

ローズマリーの茂みに隠れ、私は隠し持っていた非常用スルメを齧る。

「ふう……油断も隙もないわね」

「何がだ?」

「ひゃっ!?」

背後から突然声をかけられ、私はスルメを喉に詰まらせそうになった。

振り返ると、そこにはアーモンド公爵がいた。

なぜか農作業用の麦わら帽子を被り、手には剪定ばさみを持っている。

無駄に爽やかだ。

「おはよう、カシュー。朝の散歩か? それとも、私の愛の罠から逃げてきたのか?」

「……後者です。なんでここにいるんですか」

「私は毎朝、ハーブの状態をチェックするのが日課でね。特にこのバジルは、カプレーゼにする時に重要だから」

彼は愛おしそうにバジルの葉を撫でた。

「ところで、なぜ逃げた? あのベーコンは自信作だったのだが」

「公爵様。人間を餌付けしようとするのはやめてください。私は野良猫ではありません」

「そうか? 君のその、警戒心丸出しで『シャーッ!』と威嚇してくる態度は、まさに猫のようだが」

「威嚇してません」

「照れるな」

「照れてません」

会話が通じない。

私はため息をつき、場所を変えようと歩き出した。

しかし、アーモンド公爵は当然のように隣に並ぶ。

「どこへ行くんだ? 私も行こう」

「ついてこないでください」

「なぜだ? 夫婦水入らずの散歩だろう」

「夫婦になった覚えはありません」

私が早歩きになると、彼も歩幅を合わせてくる。

私が小走りになると、彼もスキップのような軽やかな足取りでついてくる。

完全にストーカーだ。

しかも、楽しそうだ。

「カシュー、君の逃げ足は素晴らしいな。カモシカのような脚力だ」

「褒めても何も出ませんよ」

「いや、その逃げる背中を見ていると、狩猟本能が刺激される。……ああ、追いかけて捕まえて、塩漬けにしたい」

「通報しますよ!?」

私はついに立ち止まり、彼を睨みつけた。

「いい加減にしてください! 貴方は公爵でしょう? 仕事はないんですか!」

「あるよ。だが、今の最優先事項は君の『攻略』だ」

「私は難攻不落の要塞です。攻略本はありません」

「燃えるねぇ。その強気な態度、最高にスパイシーだ」

彼は麦わら帽子を取り、汗を拭う仕草すら絵になるポーズで言った。

「カシュー。私は諦めが悪い男だ。欲しいと思った酒とつまみは、地球の裏側まで行ってでも手に入れる」

「迷惑な情熱ですね」

「君が『イエス』と言うまで、私は君の影のように寄り添おう。朝も昼も夜も、君の視界の端に私がいると思ってくれ」

「ホラーですか」

「ラブストーリーだ」

彼はニカっと笑った。

その笑顔が、悔しいほどに眩しい。

私は頭を抱えた。

この男には、常識も、羞恥心も、そして「空気を読む」という機能も搭載されていないらしい。

「……わかりました。勝手にしてください」

「おお! 許可が出た!」

「諦めただけです。無視しますから」

私は再び歩き出した。

今度は屋敷の中庭を抜け、別棟にある図書室を目指す。

アーモンド公爵は宣言通り、私の斜め後ろ三歩の位置をキープしてついてくる。

「カシュー、そっちの道は日当たりが悪いぞ」

「……」

「おっと、段差がある。気をつけるんだ」

「……」

「君の歩くリズムは、ワルツの三拍子に似ているな。聞いているだけで酒が飲みたくなる」

「……いちいちうるさい!」

私が振り返って怒鳴ると、彼は目を輝かせた。

「素晴らしい!」

「は?」

「今のツッコミ! 『いちいちうるさい』という短いフレーズに込められた、殺意と呆れの絶妙なブレンド! そして振り返る時の髪のなびき方! キレッキレだ!」

彼は感動のあまり、パチパチと拍手をした。

「君の塩対応は、まさに芸術品だ。噛めば噛むほど味が出る!」

「……」

私は脱力した。

怒る気力が削がれていく。

この男を相手に真面目に怒るのは、豆腐に釘を打つようなものだ。

暖簾に腕押し。

糠に釘。

変人にツッコミ。

「……もう、好きにしてください」

「ありがとう。では、好きにする」

彼は嬉々として私の隣に並び、図書室の扉を開けてくれた。

「レディ・ファーストだ。どうぞ、我が愛しの激辛姫」

「二つ名を変な風に進化させないで」

私は渋々、図書室に入った。

静寂な空間。

本の匂い。

ここなら少しは落ち着けるかもしれない。

そう思ったのも束の間。

アーモンド公爵は、私が本を選ぶ背後から、ひょっこりと顔を出した。

「カシュー。おすすめの本があるぞ。『世界の発酵食品・全集』だ」

「いりません」

「じゃあこっちはどうだ? 『燻製と人生の哲学』」

「どんな哲学ですか」

「著者は私だ」

「絶対読みません」

私は適当な歴史書を抜き取り、閲覧机に向かった。

彼も当然のように向かいの席に座る。

そして、持参していたバスケットから、何やらガサゴソと取り出した。

「読書のお供にどうぞ」

差し出されたのは、スルメだった。

しかも、私が持っている安物ではなく、肉厚で黄金色に輝く最高級品だ。

「……これ、どこで?」

「北の海で取れた最高級のイカを、秘伝のタレに漬け込んで天日干しにしたものだ。軽く炙ってある」

香ばしい匂いが漂う。

私は本を開くふりをして、チラリとスルメを見た。

喉が鳴る。

私の体は、悲しいほどにナッツ家のDNA(乾物好き)に支配されている。

「……いただきます」

「どうぞ」

私がスルメを端っこから齧ると、アーモンド公爵は頬杖をついて、それをじっと見つめた。

「……何ですか」

「いや。小動物みたいで可愛いなと思って」

「見ないでください。食べにくい」

「君が美味しそうに食べる姿を見るだけで、私は白飯が三杯いける」

「おかずじゃないんですから」

「つまみにはなる」

結局、彼のペースだ。

私は諦めて、スルメを噛み締めながらページをめくった。

不思議なことに、彼が目の前にいても、以前ほど嫌悪感はなかった。

ピーナン殿下のように「行儀が悪い」とか「令嬢らしくない」とか言わないからだろうか。

むしろ、私がスルメを齧る音を、BGMのように心地よさそうに聞いている。

(……変な人)

本当に変な人だ。

でも、この変な公爵のおかげで、婚約破棄の傷心なんて感じる暇もないのは事実だった。

「ねえ、アーモンド」

「ん? なんだい?」

「このスルメ、美味しいわね」

私が素直に言うと、彼は今日一番の笑顔を見せた。

「だろう? 君ならわかってくれると信じていたよ」

その笑顔に、胸の奥が少しだけ温かくなるのを感じながら。

私はあえてツンとした顔で、二口目を齧ったのだった。

こうして、私の「逃亡劇」は、あっさりと「餌付け」によって幕を閉じたのである。

……悔しい。
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