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筋肉の狂宴から数日が経過した。
ベルシュタイン公爵邸に、束の間の静寂が戻ってきた。
滝に打たれにいったアルフレッドの行方は知れず、庭を埋め尽くしていた「妖精の苔」も、最近は大人しく地面を這っている。
ローゼンは、久しぶりに誰の視線も感じることなく、サンルームで読書を楽しんでいた。
「……ああ、なんて素晴らしいのかしら。ページをめくる音と、小鳥のさえずりしか聞こえない。これこそが、私が求めていた『婚約破棄後の優雅な独身生活』だわ」
彼女はうっとりと目を細め、淹れたてのハーブティーに手を伸ばした。
すると、どうしたことだろう。
ローゼンが指を触れるよりも早く、ティーカップがふわりと宙に浮き、彼女の唇の前まで移動したのだ。
「……あら? 私、いつの間に無意識で念動力(サイコキネシス)に目覚めたのかしら?」
不思議に思いながらも、差し出されたカップから一口飲む。
すると、カップは再びふわりと元あったソーサーの上に戻っていった。
さらに、彼女が「少しページをめくるのが面倒だわ」と思った瞬間、まるで目に見えない風が吹いたかのように、本が絶妙なタイミングで次のページへと捲(めく)られた。
「……マリー? そこにいるの?」
「はい、お嬢様。背後で、明日の朝食の献立について瞑想しておりました」
少し離れた場所で、マリーがいつも通り無表情に控えている。
彼女の手には何も持たれておらず、魔法を使っている様子もない。
「今の、あなたではないわよね? カップが浮いたり、本が勝手に捲れたりしたのだけれど」
「……お嬢様。悲しいお知らせですが、私の目には『それ』が見えております」
マリーが視線を向けた先。
ローゼンのすぐ隣、何もないはずの空間を、彼女は指差した。
「……え?」
ローゼンが慌てて横を向くと、そこには何もいない。
ただ、心なしか空気が「ムワッ」と熱を帯び、微かに「スゥ、ハァ……尊い……スゥ、ハァ……」という、聞き覚えのある呼吸音が聞こえてくる気がした。
「……まさか。……殿下?」
ローゼンが恐る恐るその空間に手を伸ばすと、指先が「カチカチに鍛え上げられた、熱い何か」に触れた。
次の瞬間、サンルームの空気が激しく歪み、そこから一人の男が姿を現した。
「……見つかってしまったか。流石は私のローゼンだ。私の『究極気配遮断(アルティメット・ステルス)・マッスル』を見破るとは!」
現れたのは、全身に背景の壁紙と全く同じ模様を自ら描き込んだ、レオタード姿のアルフレッドだった。
彼は誇らしげに、しかし音もなく、再びサイドチェストのポーズを決めた。
「……殿下。……その、爬虫類のような格好は何ですの?」
「はっはっは! 驚かせてすまない! 滝行の果てに、私はついに悟ったのだ。君の隣に立つためには、筋肉を膨らませるのではなく、筋肉を周囲の環境と同調(シンクロ)させればいいのだと!」
アルフレッドは一歩、音もなくローゼンに近づいた。
その動きはあまりに滑らかで、まるで地面を滑っているかのようだ。
「これぞ私の新境地、『透明な隣人』作戦だ! 今の私は、光の屈折を筋肉の振動で制御し、背景に溶け込むことができる! これにより、君に威圧感を与えることなく、二十四時間体制で君の読書や食事のサポートをすることが可能になったんだ!」
「……あの、本気で言っていますの? ティーカップが浮いていたら、誰だって腰を抜かしますわよ。幽霊騒ぎになりますわ」
「幽霊ではない、愛だ! 君が『お茶を飲みたい』と思うより一秒早く、私の筋肉が君の欲求を察知し、カップを運ぶ! 君がページをめくろうとする指の動きを予見し、私が風を起こす! どうだいローゼン、これこそが理想の『空気のようなパートナー』だろう!」
「空気に質量と熱量がありすぎますわよ!!」
ローゼンは思わず、持っていた本でアルフレッドの(壁紙模様の)胸板を叩いた。
パシィ、と乾いた音がして、本が弾き飛ばされる。
「……ああ、今の衝撃……。君の拒絶さえも、今の私には心地よい振動として筋肉に吸収される……。もっとだ、もっと私を打ってくれ、ローゼン!」
「マリー、塩! 今すぐ大量の塩を持ってきて頂戴! この透明な変質者を清めなくては!」
「お嬢様、塩よりも物理的な排除をお勧めします。現在、私の手元には殿下の『ステルス迷彩』を無効化するための、原色ペンキが用意されております」
マリーがどこからともなく、真っ赤なペンキのバケツを取り出した。
「マリー! 君まで何を! このカモフラージュを施すのに、宮廷画家を三日間拘束して、私の筋肉の隆起に合わせてミリ単位で模様を描かせたんだぞ!」
「知るか! お嬢様の平穏を乱す模様など、単なるゴミにございます」
マリーがバケツを振り上げた瞬間、アルフレッドは「さらばだ!」と叫び、再び空気に溶け込むように姿を消した。
「……ふふふ、見失っただろう! 今の私は風! 今の私はサンルームのタイル……!」
しかし、消えたはずの場所から、ドタバタと何かに躓(つまず)く音が聞こえ、花瓶がガシャーンと割れた。
「……殿下。そこにいますわよね?」
「……い、いない。今の音は、私の愛が物理現象として顕現しただけだ……」
ローゼンは、もはや怒る気力も失い、割れた花瓶の破片を拾い集めるマリーを手伝おうとした。
すると、再び見えない手がローゼンの手を遮り、破片を丁寧にかき集め始めた。
「……危ないから、君は触ってはいけないよ。君の指先は、世界を癒やすためにあるのだから……」
虚空から響く、優しくも執拗な囁き。
ローゼンは、自分の人生が完全に「透明なストーカー」に支配され始めていることを確信した。
「……殿下。お願いですから、普通に、見える姿で、一メートル以上離れて座ってください。それができないなら、今すぐこの屋敷から出て行っていただきますわ」
ローゼンが本気で、一滴の感情もこもっていない声で告げると、ようやく空気が「シュン……」としぼみ、再び壁紙模様のアルフレッドが姿を現した。
「……わかった。君がそこまで言うなら、私は『視認可能な男』に戻ろう。……だが、忘れないでくれ。私が見えていてもいなくても、私の筋肉は常に、君を全方位から包囲しているということを」
「包囲しないでください。……マリー、もうお部屋に戻りましょう。今日はもう、何も考えたくありませんわ」
ローゼンは、疲れ切った足取りでサンルームを後にした。
背後では、壁紙模様の男が「ああ、去り際の背中も……ダイヤモンドより硬く、美しい……」と、独り言を漏らしていた。
ローゼンの「普通の日常」を取り戻すための戦いは、相手が「透明化」を覚えたことで、さらなる難易度へと引き上げられてしまったのである。
ベルシュタイン公爵邸に、束の間の静寂が戻ってきた。
滝に打たれにいったアルフレッドの行方は知れず、庭を埋め尽くしていた「妖精の苔」も、最近は大人しく地面を這っている。
ローゼンは、久しぶりに誰の視線も感じることなく、サンルームで読書を楽しんでいた。
「……ああ、なんて素晴らしいのかしら。ページをめくる音と、小鳥のさえずりしか聞こえない。これこそが、私が求めていた『婚約破棄後の優雅な独身生活』だわ」
彼女はうっとりと目を細め、淹れたてのハーブティーに手を伸ばした。
すると、どうしたことだろう。
ローゼンが指を触れるよりも早く、ティーカップがふわりと宙に浮き、彼女の唇の前まで移動したのだ。
「……あら? 私、いつの間に無意識で念動力(サイコキネシス)に目覚めたのかしら?」
不思議に思いながらも、差し出されたカップから一口飲む。
すると、カップは再びふわりと元あったソーサーの上に戻っていった。
さらに、彼女が「少しページをめくるのが面倒だわ」と思った瞬間、まるで目に見えない風が吹いたかのように、本が絶妙なタイミングで次のページへと捲(めく)られた。
「……マリー? そこにいるの?」
「はい、お嬢様。背後で、明日の朝食の献立について瞑想しておりました」
少し離れた場所で、マリーがいつも通り無表情に控えている。
彼女の手には何も持たれておらず、魔法を使っている様子もない。
「今の、あなたではないわよね? カップが浮いたり、本が勝手に捲れたりしたのだけれど」
「……お嬢様。悲しいお知らせですが、私の目には『それ』が見えております」
マリーが視線を向けた先。
ローゼンのすぐ隣、何もないはずの空間を、彼女は指差した。
「……え?」
ローゼンが慌てて横を向くと、そこには何もいない。
ただ、心なしか空気が「ムワッ」と熱を帯び、微かに「スゥ、ハァ……尊い……スゥ、ハァ……」という、聞き覚えのある呼吸音が聞こえてくる気がした。
「……まさか。……殿下?」
ローゼンが恐る恐るその空間に手を伸ばすと、指先が「カチカチに鍛え上げられた、熱い何か」に触れた。
次の瞬間、サンルームの空気が激しく歪み、そこから一人の男が姿を現した。
「……見つかってしまったか。流石は私のローゼンだ。私の『究極気配遮断(アルティメット・ステルス)・マッスル』を見破るとは!」
現れたのは、全身に背景の壁紙と全く同じ模様を自ら描き込んだ、レオタード姿のアルフレッドだった。
彼は誇らしげに、しかし音もなく、再びサイドチェストのポーズを決めた。
「……殿下。……その、爬虫類のような格好は何ですの?」
「はっはっは! 驚かせてすまない! 滝行の果てに、私はついに悟ったのだ。君の隣に立つためには、筋肉を膨らませるのではなく、筋肉を周囲の環境と同調(シンクロ)させればいいのだと!」
アルフレッドは一歩、音もなくローゼンに近づいた。
その動きはあまりに滑らかで、まるで地面を滑っているかのようだ。
「これぞ私の新境地、『透明な隣人』作戦だ! 今の私は、光の屈折を筋肉の振動で制御し、背景に溶け込むことができる! これにより、君に威圧感を与えることなく、二十四時間体制で君の読書や食事のサポートをすることが可能になったんだ!」
「……あの、本気で言っていますの? ティーカップが浮いていたら、誰だって腰を抜かしますわよ。幽霊騒ぎになりますわ」
「幽霊ではない、愛だ! 君が『お茶を飲みたい』と思うより一秒早く、私の筋肉が君の欲求を察知し、カップを運ぶ! 君がページをめくろうとする指の動きを予見し、私が風を起こす! どうだいローゼン、これこそが理想の『空気のようなパートナー』だろう!」
「空気に質量と熱量がありすぎますわよ!!」
ローゼンは思わず、持っていた本でアルフレッドの(壁紙模様の)胸板を叩いた。
パシィ、と乾いた音がして、本が弾き飛ばされる。
「……ああ、今の衝撃……。君の拒絶さえも、今の私には心地よい振動として筋肉に吸収される……。もっとだ、もっと私を打ってくれ、ローゼン!」
「マリー、塩! 今すぐ大量の塩を持ってきて頂戴! この透明な変質者を清めなくては!」
「お嬢様、塩よりも物理的な排除をお勧めします。現在、私の手元には殿下の『ステルス迷彩』を無効化するための、原色ペンキが用意されております」
マリーがどこからともなく、真っ赤なペンキのバケツを取り出した。
「マリー! 君まで何を! このカモフラージュを施すのに、宮廷画家を三日間拘束して、私の筋肉の隆起に合わせてミリ単位で模様を描かせたんだぞ!」
「知るか! お嬢様の平穏を乱す模様など、単なるゴミにございます」
マリーがバケツを振り上げた瞬間、アルフレッドは「さらばだ!」と叫び、再び空気に溶け込むように姿を消した。
「……ふふふ、見失っただろう! 今の私は風! 今の私はサンルームのタイル……!」
しかし、消えたはずの場所から、ドタバタと何かに躓(つまず)く音が聞こえ、花瓶がガシャーンと割れた。
「……殿下。そこにいますわよね?」
「……い、いない。今の音は、私の愛が物理現象として顕現しただけだ……」
ローゼンは、もはや怒る気力も失い、割れた花瓶の破片を拾い集めるマリーを手伝おうとした。
すると、再び見えない手がローゼンの手を遮り、破片を丁寧にかき集め始めた。
「……危ないから、君は触ってはいけないよ。君の指先は、世界を癒やすためにあるのだから……」
虚空から響く、優しくも執拗な囁き。
ローゼンは、自分の人生が完全に「透明なストーカー」に支配され始めていることを確信した。
「……殿下。お願いですから、普通に、見える姿で、一メートル以上離れて座ってください。それができないなら、今すぐこの屋敷から出て行っていただきますわ」
ローゼンが本気で、一滴の感情もこもっていない声で告げると、ようやく空気が「シュン……」としぼみ、再び壁紙模様のアルフレッドが姿を現した。
「……わかった。君がそこまで言うなら、私は『視認可能な男』に戻ろう。……だが、忘れないでくれ。私が見えていてもいなくても、私の筋肉は常に、君を全方位から包囲しているということを」
「包囲しないでください。……マリー、もうお部屋に戻りましょう。今日はもう、何も考えたくありませんわ」
ローゼンは、疲れ切った足取りでサンルームを後にした。
背後では、壁紙模様の男が「ああ、去り際の背中も……ダイヤモンドより硬く、美しい……」と、独り言を漏らしていた。
ローゼンの「普通の日常」を取り戻すための戦いは、相手が「透明化」を覚えたことで、さらなる難易度へと引き上げられてしまったのである。
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