悪役令嬢は、婚約破棄の慰謝料計算に忙しい。

猫宮かろん

文字の大きさ
4 / 28

4

しおりを挟む
王宮を出て二十分後。
私の乗った馬車は、石畳を滑るように走り、オルコット公爵邸の正門をくぐった。

窓の外には、幾何学的に整えられた庭園が広がっている。
無駄な装飾を排し、管理コストと美観のバランス(コスパ)を極限まで追求した我が家の庭だ。
それを見るだけで、荒立った心が鎮まっていくのを感じる。

「おかえりなさいませ、お嬢様」

玄関ホールに入ると、執事長のセバスチャンが直立不動で出迎えた。
彼の角度四十五度のお辞儀は、今日も完璧な精度だ。

「ただいま、セバスチャン。お父様は?」

「執務室にいらっしゃいます。本日は北部の鉱山開発に関する決算報告を確認されておりました」

「了解。すぐに伺います」

私は着替えもせず、ドレスのまま階段を上がった。
通常なら「まずは着替えて」となるところだが、我が家では「情報の鮮度」が最優先される。

重厚なオーク材の扉をノックする。
コン、コン。

「入れ」

短く、重みのある声。
私は扉を開け、執務室へと足を踏み入れた。

部屋の中央、書類の山に埋もれるようにして座っている初老の紳士。
鋭い眼光と、綺麗に整えられたロマンスグレーの髪。
我が父、オルコット公爵家の当主である。

父は書類から目を離さず、万年筆を走らせたまま口を開いた。

「帰宅予定時刻より十七分の遅れだ、メリアドール。渋滞か?」

「いいえ、お父様。予期せぬトラブル(・・・・・)が発生し、処理に時間を要しました」

「トラブル? お前が処理に手間取るとは珍しい」

父の手が止まる。
ようやく顔を上げ、私を見た。

「報告しろ。簡潔にな」

「はい」

私は背筋を伸ばし、淡々と告げた。

「本日付で、ジェラルド殿下との婚約契約が破棄されました」

室内の空気が止まった。
普通の父親なら、ここで「なんだって!?」と激昂するか、「お前、大丈夫か!」と娘を抱きしめるだろう。

しかし、父は眉一つ動かさなかった。
数秒の沈黙の後、父は短く尋ねた。

「理由は?」

「先方の有責です。男爵令嬢への心変わりと、私に対する虚偽の冤罪(いじめ)捏造。契約違反(コンプライアンス違反)ですね」

「……なるほど」

父は万年筆を置き、両手の指を組んだ。

「で、お前の対応は?」

「即時受諾しました。その上で、教育費・交際費・逸失利益を含めた総額二十億の請求書を発行済みです」

「回収の見込みは?」

「王家の体面を考えれば、支払わざるを得ないでしょう。法的根拠(エビデンス)は揃っています。分割払いの場合は金利一五パーセントを付加しました」

私の報告を聞き終えると、父は深く息を吐いた。

そして――。

「……素晴らしい(エクセレント)」

父の厳格な顔が、ふわりと緩んだ。
満面の笑みである。

「よくやった、メリアドール! あの優良物件に見せかけた不良債権(バカ王子)を、まさかこのタイミングで損切りできるとは!」

父は椅子から立ち上がり、私の元へ歩み寄ると、その肩をガシッと掴んだ。

「正直、悩みの種だったのだ。王家との縁談ゆえこちらからは断れんし、かといってあの王子には経営者としての資質が皆無だ。お前を嫁がせるのは、ドブに最高級のダイヤモンドを捨てるようなものだと嘆いていたところだ」

「同感です、お父様。王妃教育の時間は、私の人生において最も生産性の低い時間でした」

「うむ! それが慰謝料という形で現金化でき、さらに自由な身になれるとは。これぞ『災い転じて福となす』、いや『ハイリスク・ハイリターン』の成功例だ!」

父娘の間には、湿っぽい同情など欠片もない。
あるのは、困難なプロジェクトを解決したビジネスパートナー同士の連帯感だけだ。

「セバスチャン! 祝いだ! とっておきの茶葉を用意しろ!」

「はっ。すでに『シルバーニードル』の最高級品を準備しております」

さすがセバスチャン。仕事が早い。

運ばれてきた香り高い白茶を、父と二人でソファに座って楽しむ。
これが我が家流の祝杯だ。アルコールは脳の判断能力を鈍らせるため、重要な家族会議では飲まないのがルールである。

「はぁ……美味い。自由の味がするな」

「ええ。この香りを嗅ぐ余裕ができたのも、明日から早朝のマナーレッスンが不要になったおかげです」

私はティーカップを置き、先ほどの出来事を補足した。

「ただ、一つだけ懸念事項(リスク)があります」

「なんだ?」

「隣国のカシウス・ベルンシュタイン公爵です。彼に現場を目撃され、どうやら興味を持たれてしまいました」

「カシウスだと? あのガレリアの『狂犬』か?」

父の目が再び鋭くなる。

「ええ。あろうことか、私を自分の国へスカウトしたいと。条件は悪くありませんでしたが、保留にしました」

「ふむ……」

父は顎に手を当て、計算高い目で天井を見上げた。

「ガレリア帝国か。軍事力だけでなく、近年は魔導産業への投資も積極的だ。だが、内政は荒れていると聞く。そこにお前の管理能力(マネジメント)が投入されれば……」

「莫大な利益を生むでしょうね。市場規模は我が国の倍です」

「だが、あの男は危険だ。以前、通商条約の会議で会ったことがあるが、あいつは獲物を狙う目をしておった。お前のような『面白い女』は、奴の好物だろう」

父はニヤリと笑った。

「だが、メリアドール。お前の人生だ。お前が計算し、利益が出ると判断したなら、私は止めんぞ」

「……お父様」

「この国の王家は、近いうちに傾くかもしれん。お前が請求した二十億、あれが決定打になるだろう。沈む船に未練はない」

父は立ち上がり、窓の外の夜空を見上げた。

「行け、メリアドール。お前の才覚は、この狭い国には収まりきらん」

その言葉は、どんな甘い慰めの言葉よりも、私の胸を熱くさせた。
私の能力を、存在意義を、誰よりも認めてくれているのはこの父だ。

「ありがとうございます。……実は、前向きに検討しています」

「そうか。ならば、契約書には『里帰りの交通費全額支給』の条項も入れておけ。たまには顔を見せろ」

「はい。しっかりと盛り込んでおきます」

私たちは顔を見合わせ、フフッと笑い合った。
ドライで、合理的で、けれど確かな信頼関係。
これがオルコット家の家族愛だ。

「さて、報告は以上です。夕食の時間まで、まだ四十五分ありますね」

私は懐中時計を確認し、立ち上がった。

「今後の資金計画書を作成しておきます。お父様、新しい紙を一枚いただけますか?」

「ああ、棚にある。……ああ、そうだメリアドール」

部屋を出ようとした私を、父が呼び止めた。

「念のため言っておくが」

「はい?」

「泣きたくなったら、いつでも言え。……防音室の準備はあるからな」

父なりの、最大限の気遣いだった。
私は苦笑し、首を横に振った。

「必要ありません。涙は水分と塩分の無駄な排出ですから」

「ははっ、違いない」

執務室を後にする。
廊下に出ると、私は小さく息を吐いた。

理解者がいるというのは、心強いものだ。
これで後顧の憂いはない。

(さて、まずは明日のジェラルド殿下の襲来に備えないと)

あの諦めの悪い元婚約者が、このまま引き下がるはずがない。
私の予測では、明日のお昼頃に「復縁」か「側室入り」を迫って突撃してくる確率が九十八パーセントだ。

「セバスチャン」

私は控えていた執事に指示を飛ばした。

「明日の正午前後、玄関の警備を強化して。あと、塩を撒いておいてちょうだい」

「塩、でございますか?」

「ええ。魔除けよ。しつこい悪霊が来るかもしれないから」

「かしこまりました」

私はスカートを翻し、自室へと向かった。
明日からの「無職生活」改め「再就職活動」に向けて、準備すべきことは山積みだ。

私の新しい人生の帳簿は、まだ1ページ目が開かれたばかりなのだから。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

【完結済】監視される悪役令嬢、自滅するヒロイン

curosu
恋愛
【書きたい場面だけシリーズ】 タイトル通り

〘完結〛わたし悪役令嬢じゃありませんけど?

桜井ことり
恋愛
伯爵令嬢ソフィアは優しく穏やかな性格で婚約者である公爵家の次男ライネルと順風満帆のはず?だった。

冷遇妃マリアベルの監視報告書

Mag_Mel
ファンタジー
シルフィード王国に敗戦国ソラリから献上されたのは、"太陽の姫"と讃えられた妹ではなく、悪女と噂される姉、マリアベル。 第一王子の四番目の妃として迎えられた彼女は、王宮の片隅に追いやられ、嘲笑と陰湿な仕打ちに晒され続けていた。 そんな折、「王家の影」は第三王子セドリックよりマリアベルの監視業務を命じられる。年若い影が記す報告書には、ただ静かに耐え続け、死を待つかのように振舞うひとりの女の姿があった。 王位継承争いと策謀が渦巻く王宮で、冷遇妃の運命は思わぬ方向へと狂い始める――。 (小説家になろう様にも投稿しています)

婚約者様への逆襲です。

有栖川灯里
恋愛
王太子との婚約を、一方的な断罪と共に破棄された令嬢・アンネリーゼ=フォン=アイゼナッハ。 理由は“聖女を妬んだ悪役”という、ありふれた台本。 だが彼女は涙ひとつ見せずに微笑み、ただ静かに言い残した。 ――「さようなら、婚約者様。二度と戻りませんわ」 すべてを捨て、王宮を去った“悪役令嬢”が辿り着いたのは、沈黙と再生の修道院。 そこで出会ったのは、聖女の奇跡に疑問を抱く神官、情報を操る傭兵、そしてかつて見逃された“真実”。 これは、少女が嘘を暴き、誇りを取り戻し、自らの手で未来を選び取る物語。 断罪は終わりではなく、始まりだった。 “信仰”に支配された王国を、静かに揺るがす――悪役令嬢の逆襲。

幼馴染以上、婚約者未満の王子と侯爵令嬢の関係

紫月 由良
恋愛
第二王子エインの婚約者は、貴族には珍しい赤茶色の髪を持つ侯爵令嬢のディアドラ。だが彼女の冷たい瞳と無口な性格が気に入らず、エインは婚約者の義兄フィオンとともに彼女を疎んじていた。そんな中、ディアドラが学院内で留学してきた男子学生たちと親しくしているという噂が広まる。注意しに行ったエインは彼女の見知らぬ一面に心を乱された。しかし婚約者の異母兄妹たちの思惑が問題を引き起こして……。 顔と頭が良く性格が悪い男の失恋ストーリー。 ※流血シーンがあります。(各話の前書きに注意書き+次話前書きにあらすじがあるので、飛ばし読み可能です)

人生の全てを捨てた王太子妃

八つ刻
恋愛
突然王太子妃になれと告げられてから三年あまりが過ぎた。 傍目からは“幸せな王太子妃”に見える私。 だけど本当は・・・ 受け入れているけど、受け入れられない王太子妃と彼女を取り巻く人々の話。 ※※※幸せな話とは言い難いです※※※ タグをよく見て読んでください。ハッピーエンドが好みの方(一方通行の愛が駄目な方も)はブラウザバックをお勧めします。 ※本編六話+番外編六話の全十二話。 ※番外編の王太子視点はヤンデレ注意報が発令されています。

《本編完結》あの人を綺麗さっぱり忘れる方法

本見りん
恋愛
メラニー アイスナー子爵令嬢はある日婚約者ディートマーから『婚約破棄』を言い渡される。  ショックで落ち込み、彼と婚約者として過ごした日々を思い出して涙していた───が。  ……あれ? 私ってずっと虐げられてない? 彼からはずっと嫌な目にあった思い出しかないんだけど!?  やっと自分が虐げられていたと気付き目が覚めたメラニー。  しかも両親も昔からディートマーに騙されている為、両親の説得から始めなければならない。  そしてこの王国ではかつて王子がやらかした『婚約破棄騒動』の為に、世間では『婚約破棄、ダメ、絶対』な風潮がある。    自分の思うようにする為に手段を選ばないだろう元婚約者ディートマーから、メラニーは無事自由を勝ち取る事が出来るのだろうか……。

【完結】お飾り妃〜寵愛は聖女様のモノ〜

恋愛
今日、私はお飾りの妃となります。 ※実際の慣習等とは異なる場合があり、あくまでこの世界観での要素もございますので御了承ください。

処理中です...