悪役令嬢は、婚約破棄の慰謝料計算に忙しい。

猫宮かろん

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「――つまり、関税率の変動リスクを考慮し、先物取引でヘッジをかける。このスキームであれば、利益率は確実に一五パーセント向上します」

「素晴らしい! その通りです、メリアドール様! まさに私の試算と一致しています!」

「ふふ、気が合いますね。では、この輸送ルートの短縮案については?」

「もちろんです! 中継地点の倉庫を拡張すれば、回転率が倍になります!」

ガレリア公爵邸、応接室。
そこでは、白熱した議論が繰り広げられていた。

相手は、帝都から招いた若手商人、アラン・スミス。
眼鏡をかけた知的な青年で、新興の貿易商会の会頭を務めるやり手だ。
私が提示した投資計画に興味を持ち、わざわざ足を運んでくれたのだ。

「いやぁ、感動しました。数字だけでこれほど会話が弾む女性にお会いするのは初めてです!」

アラン氏が興奮気味に身を乗り出す。

「実は、貴女の噂は以前から聞いておりました。『計算機(カリキュレーター)の魔女』と」

「魔女ですか。光栄な二つ名ですね」

「ええ! 無駄のない論理構築、冷徹なまでのコスト意識。僕の理想そのものです!」

彼の瞳がキラキラと輝いている。
ジェラルド殿下やミナ様のような「お花畑」の輝きではない。
純粋な、知的探究心と算術への愛に満ちた輝きだ。

(……悪くないわ)

私は心の中で評価を下した。
この男とは話が通じる。私の言葉(ロジック)を翻訳なしで理解できる稀有な人材だ。
ビジネスパートナーとして、非常に有能だと言える。

「アラン様。ぜひ、貴社の物流網を使わせてください。契約書を作成しましょう」

「喜んで! メリアドール様となら、夜通しでも語り合えそうです!」

「ええ、徹夜で予算案を組むのも楽しそうですね」

私たちが意気投合し、互いの手を取り合おうとした――その時だった。

バンッ!!

応接室の扉が、蝶番が悲鳴を上げるほどの勢いで開け放たれた。

「……楽しそうだな、おい」

室内の気温が一気に五度下がった気がした。
入り口に立っていたのは、カシウスだ。
彼は腕組みをして扉に寄りかかり、その赤い瞳でアラン氏を射抜いていた。

「カ、カシウス公爵閣下……!」

アラン氏がビクリと震え、慌てて立ち上がり深々と頭を下げた。

「お、お初にお目にかかります! スミス商会のアランと申します!」

「……」

カシウスは返事もしない。
無言で部屋に入ってくると、ドカリと私の隣のソファに腰を下ろした。
そして、無言の圧力を放射し始めた。

「閣下? どうされました?」

私は不思議に思い尋ねた。

「会議は順調に進んでおります。アラン様は非常に優秀な方で……」

「へぇ。優秀ね」

カシウスが低い声で遮る。
彼はテーブルの上の書類を乱暴にパラパラとめくり、鼻で笑った。

「たかが数字遊びだろう。そんなに面白いか?」

「数字遊びではありません。経営戦略です」

「ふん。……おい、眼鏡」

カシウスの矛先がアラン氏に向く。

「ひっ、は、はい!」

「お前、さっき『夜通し語り合う』とか言ってたな?」

「あ、いえ、それは比喩表現と申しますか、仕事の熱意を……」

「俺の屋敷で、俺の婚約者と、夜通し?」

カシウスが立ち上がり、ゆっくりとアラン氏に近づく。
その背後には、黒いオーラが渦巻いているように見える。
完全に『狂犬』モードだ。

「い、いえっ! 滅相もございません! 私はただ、メリアドール様の知性に感服しただけで……!」

「知性だぁ? その女の知性は俺のためにあるんだ。余所者が気安く褒めるんじゃねぇ」

「ひぃぃぃっ!」

アラン氏が恐怖で後退り、壁に張り付く。

「閣下! 失礼ですよ!」

私は慌てて立ち上がり、カシウスの腕を掴んだ。

「彼は重要な取引先(パートナー)です! 脅さないでください!」

「うるさい! 気に入らねぇもんは気に入らねぇんだ!」

カシウスは私を振り向き、唸るように言った。

「メリアドール。商談は終わりだ。こいつを帰らせろ」

「まだ条件交渉が……」

「帰らせろと言っている! 今すぐだ! さもないと、こいつを窓から放り投げるぞ!」

本気だ。
この男の目は、やる時はやる目だ。
三階の窓から商会主が射出される事態になれば、外交問題どころか殺人未遂だ。
リスクが高すぎる。

私はため息をつき、アラン氏に向き直った。

「……申し訳ありません、アラン様。本日のトップ会談は、急遽中止とさせていただきます」

「わ、わ、わかりました! 出直します! 命があればまた!」

アラン氏は鞄をひったくり、逃げるように部屋を飛び出していった。
嵐のような退場劇だった。

「……はぁ」

部屋に残されたのは、不機嫌な猛獣と、呆れた私。
私は腕を組み、カシウスを見上げた。

「閣下。説明責任(アカウンタビリティ)を果たしてください」

「……」

「なぜ彼を追い出したのですか? 彼は我が公爵家の財政再建のキーマンでした。それを理不尽に恫喝するなど、経営者として失格です」

カシウスはそっぽを向いた。
口をへの字に曲げている。

「……お前が、あいつと楽しそうにするからだ」

「はい?」

「俺とは書類の話しかしないくせに、あいつとは『気が合う』だの『徹夜』だの……ヘラヘラ笑いやがって」

「笑ってはいません。ビジネススマイルです」

「同じだ! 俺以外の男に、その知的な顔を見せるな!」

カシウスが叫び、ドスンとソファに座り込んだ。
そして、クッションを抱えて拗ねてしまった。

私は瞬きを数回繰り返した。
脳内CPUをフル稼働させて、彼の行動原理を解析する。

(突発的な怒り。理不尽な要求。他者への攻撃性。そして、クッションを抱える幼児退行……)

全てのデータが指し示す結論は、一つしかなかった。

「……なるほど。理解しました」

私はポンと手を打った。

「え?」

カシウスが顔を上げる。

「理解したのか? 俺の気持ちを?」

「はい、痛いほど」

私は慈愛に満ちた(つもりの)表情で頷き、懐からあるものを取り出した。
アラン氏から手土産でもらっていた、高級チョコレートの箱だ。

「どうぞ、閣下」

「……あ? なんだこれ」

「糖分です」

「は?」

「低血糖ですね?」

「……」

「空腹と糖分不足により、脳の感情抑制機能が低下し、イライラ(易怒性)が発生しているのです。わかります、激務でお疲れなのですね」

私はチョコの包み紙を剥き、彼の口元に差し出した。

「さあ、食べてください。ブドウ糖を摂取すれば、精神状態(メンタル)も安定しますから」

カシウスは、差し出されたチョコと、私の顔を交互に見た。
その表情が、「お前マジか」という絶望と、「どうしてこうなった」という脱力に染まっていく。

「……違う」

「違いますか? では、カルシウム不足? ホットミルクをお持ちしましょうか?」

「そうじゃねぇよ……!」

カシウスは私の手首を掴み、チョコごと私の指をパクッと口に含んだ。

「っ!?」

舌先が指に触れる。
甘噛みされる感触。
背筋に電流が走った。

「……ん」

カシウスはチョコを飲み込むと、私の指を離さずに、下から睨め上げるように見た。

「美味いな」

「……そ、それは何よりです」

「だが、足りん」

彼は私をグイと引き寄せ、ソファに座る自分の足の間に立たせた。
そして、私の腰に腕を回し、顔を埋めた。

「俺が欲しいのはチョコじゃない。……お前だ」

「……」

「他の男を見るな。俺だけを見ろ。俺だけのために計算しろ」

子供のような独占欲。
だけど、その声は震えるほど切実で、私の胸の奥を奇妙に締め付けた。

(……非論理的だわ)

独占したところで、私の業務効率が上がるわけではない。
むしろ、視野狭窄に陥るリスクがある。
なのに。

「……困ったオーナーですね」

私はため息をつきつつ、彼の頭に手を置いた。
硬い髪を、よしよしと撫でる。

「安心してください。今のところ、貴方以上に手のかかる(・・・)……いえ、やりがいのある投資先は見つかっていませんので」

「……口が悪いぞ」

「事実です。これほど非効率で、予測不能で、見ていて飽きない物件は、世界に貴方だけです」

カシウスが顔を上げ、少しだけ笑った。

「ならいい。……これからも、俺に投資し続けろよ?」

「ええ。元本回収するまでは逃がしませんから」

カシウスは私の腰を抱く腕に力を込め、満足げに目を閉じた。
まるで、自分のテリトリーを主張する大型犬のように。

私は彼に寄りかかられながら、天井を見上げた。
アラン氏には悪いことをした。
後で、詫び状と共に、カシウスの「低血糖」が改善した旨を伝えておこう。

……いや、もしかしたら。
私の脳内の片隅で、小さな警告灯(アラート)が点滅していた。

『これは低血糖ではない。別の病名――例えば“恋”の初期症状である可能性を考慮せよ』

私はその警告を、すぐに「誤検知(エラー)」として処理した。
まさか。あの『狂犬』が、そんな乙女チックな感情を持つはずがない。
これは単なる所有欲だ。便利な道具を他人に貸したくないだけの。

そう結論づけて、私は彼の背中をポンポンとリズミカルに叩いた。

「さあ、閣下。糖分補給が済んだら仕事に戻りますよ。まだ決裁書類が残っています」

「……あと五分。このまま充電させろ」

「一分につき金貨一枚です」

「ツケにしとけ」

公爵邸の午後は、甘くて少し重たい空気の中、ゆっくりと過ぎていった。
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