悪役令嬢は、婚約破棄の慰謝料計算に忙しい。

猫宮かろん

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「――お嬢様。これはいったい……?」

翌朝。
私が執務室で朝のコーヒー(カフェイン注入)を楽しんでいると、メイド長のマリアが青ざめた顔で駆け込んできた。

「どうしたの? ボイラー室でも爆発した?」

「い、いえ! 玄関ホールが……大変なことになっております!」

私は眉をひそめ、コーヒーカップを置いて立ち上がった。
この屋敷のトラブルには慣れてきたつもりだが、今度は何だ。

ホールへ降りていくと、そこは昨日までのピカピカな空間ではなくなっていた。
いや、ある意味もっと輝いていた。

「……なんですか、これは」

そこには、山のように積み上げられた木箱、宝石箱、ドレスの箱、そして花束の山脈があった。
足の踏み場もない。物理的な意味で。

「おはよう、メリアドール!」

その山の頂上付近から、カシウスがひょっこりと顔を出した。
彼は満面の笑みで、まるで獲物を狩ってきた猫のように誇らしげだ。

「どうだ? 驚いたか?」

「驚きました。物流事故(配送ミス)ですか? 宛先を確認してください」

「違うわ! 俺からお前へのプレゼントだ!」

「……は?」

カシウスが軽やかに箱の山から飛び降り、私の前に着地した。

「昨日の夜会、最高だったからな。その褒美だ」

彼は手近にあったベルベットの箱をパカッと開けた。
中には、鳩の卵ほどもある巨大なダイヤモンドのネックレスが鎮座している。

「見ろ、帝都で一番でかいダイヤだ。お前の瞳よりは輝かないがな」

キザな台詞。
しかし、私はダイヤを凝視し、即座にポケットからルーペを取り出した。

「……失礼。鑑定させていただきます」

「えっ、鑑定?」

私はダイヤに顔を近づけ、光の屈折率とクラリティ(透明度)を確認する。

「……ふむ。カットはブリリアント、カラーはDランク、内包物は極小。推定価格、金貨五千枚」

「お、おう。そのくらいしたな」

「次にこちらのルビー。……加熱処理なしのピジョンブラッド。希少価値が高いですね。現在の相場なら金貨三千枚」

私は次々と箱を開け、中身を値踏みしていく。
エメラルド、サファイア、最高級シルクの反物、東方の香木。
総額を暗算で弾き出す。

「……締めて、金貨三億枚相当ですね」

私はルーペをしまい、真顔でカシウスを見た。

「カシウス閣下。確認ですが、これは私への『プレゼント』なのですね?」

「ああ! 好きなだけ着飾ってくれ!」

「つまり、所有権は私に移転したと考えてよろしいですね?」

「当然だ」

「ありがとうございます。では――」

私は控えていたメイドたちにパチンと指を鳴らした。

「マリア! 直ちに『ガレリア中央商会』と『帝都質屋組合』に連絡を! これら全てを換金します!」

ガクッ。
カシウスが膝から崩れ落ちる音がした。

「……は、換金?」

カシウスが床に手をつき、震える声で尋ねる。

「お前……俺が贈った愛の結晶を……売るのか?」

「当然です。こんな大量の宝石、身につける首と指が足りません。デッドストック(死蔵在庫)にするのは資産運用の観点から見て最悪の手です」

私は説明を続けた。

「金貨三億枚あれば、現在進行中の『領地内道路舗装計画』と『騎士団宿舎のリフォーム』、さらに『新規魔導工場の建設』が全て賄えます。消費財(ジュエリー)を資本財(インフラ)へ転換する。これぞ錬金術です」

「……」

「カシウス閣下、素晴らしいご判断です! まさか屋敷の不用品……いえ、私財を投げ打ってまで領地改革の資金を捻出してくださるとは! これぞノブレス・オブリージュ!」

私は感動して、うずくまるカシウスの手を握りしめた。

「貴方のその覚悟、無駄にはしません。必ず倍の利益にしてお返しします!」

「……ちげぇ」

カシウスが蚊の鳴くような声で呟いた。

「俺は……お前に喜んでほしくて……普通に『わぁ素敵!』ってつけてほしくて……」

「つけても一円の得にもなりません。道路になれば、物流速度が上がり経済が潤います」

「くっ……正論すぎて反論できねぇ……!」

カシウスは天を仰いだ。
彼のロマンチシズムは、私のリアリズムの前に粉砕されたのだ。

「……わかった。好きにしろ。お前の好きなように使ってくれ」

カシウスは抜け殻のようになり、フラフラと立ち上がった。

「俺は……剣の稽古に行ってくる。サンドバッグを殴りたい気分だ」

「いってらっしゃいませ。あ、怪我をしないようご注意を。治療費がかかりますので」

カシウスの背中が、心なしか小さく見えた。

          ◇

その日の午後。
宝石類の搬出作業が終わり、ホールは再び片付いた。

私は執務室で、得られた資金の配分計画書を作成していた。
ペン先が軽快に走る。
これで懸案だった予算不足が一気に解消する。カシウス様々だ。

コン、コン。

扉がノックされ、カシウスが入ってきた。
汗を流し、少しは気分が晴れたようだ。

「よう、筆頭管理官。換金は済んだか?」

「ええ。おかげさまで、当面の資金繰りは安泰です」

「……ふん。色気のない女だ」

カシウスは私のデスクに近づき、ふと書類の山の上に置かれた『小さな箱』に目を留めた。

「ん? これはなんだ? 売り忘れたのか?」

それは、今朝の山の中に埋もれていた、小さなラピスラズリのブローチだった。
決して高価なものではない。他のダイヤやルビーに比べれば、駄菓子のような値段のものだ。

「……それは、売りません」

私はペンを止め、少しだけ視線を逸らした。

「なぜだ? 鑑定額が低かったのか?」

「いいえ。……色が、綺麗でしたので」

深い青色。
それは、カシウスが夜会で着ていた礼服の色に似ていた。
それに、デザインもシンプルで、私の普段着にも合わせやすそうだったからだ。

「資産価値としては低いですが……個人的な『鑑賞用』として確保(キープ)しました」

「……」

カシウスが目を見開く。
そして、ニヤリと口角を上げた。

「へぇ。金貨三億のダイヤより、その安物が気に入ったと?」

「価格と好みは比例しません。それに、これは……」

「これは?」

「……初めていただいた、給与以外の報酬ですので」

私は少し恥ずかしくなり、早口で付け加えた。

「記念品(メモリアル・アイテム)としての価値を認めました。それだけです」

「……くくっ」

カシウスが嬉しそうに喉を鳴らす。
彼はそのブローチを手に取り、私の襟元に近づけた。

「つけてやる。じっとしてろ」

「自分でできます」

「いいから。……サービスだ」

カシウスの手が、私の胸元に触れる。
不器用だが、丁寧な手つきでブローチを留めてくれる。
その距離の近さに、またしても心臓が騒ぎ出す。

「よし。……似合うな」

カシウスは満足げに頷いた。

「お前には、煌びやかな宝石より、そういう知的な青がよく似合う」

「……お褒めいただき恐縮です」

私は胸元のブローチに触れた。
冷たい石のはずなのに、なぜか温かい気がした。

「で? 残りの三億はどうするんだ?」

「先ほど申し上げた通り、全額投資に回します」

「ちぇっ。少しは俺のために美味い飯でも食わせてくれよ」

「では、今夜の夕食に『特上ステーキ』を追加しましょう。予算内で」

「おっ、話がわかるな!」

カシウスは機嫌よく笑い、私の頭をポンポンと撫でた。

「ありがとな、メリアドール。……俺の贈り物を、最高に有効活用してくれて」

「どういたしまして。無駄にするのは嫌いですから」

カシウスが部屋を出ていく。
私は一人、胸元のラピスラズリを見つめた。

(……換金すれば金貨十枚にはなるけれど)

私は計算機を叩くのをやめた。
このブローチの価値は『プライスレス』――計算不能として、帳簿の隅に小さくメモを残すことにした。

たまには、非合理な資産があっても悪くない。
そう思い始めた自分に、私は少しだけ苦笑した。
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