悪役令嬢は、婚約破棄の慰謝料計算に忙しい。

猫宮かろん

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「寒い! 寒すぎますぅ! ジェラルド様、ここ本当に人の住む場所なんですかぁ?」

ガレリア帝国の国境付近。
吹きすさぶ冷たい風の中、一台の馬車が頼りなく進んでいた。
車内では、ミナ様が毛皮のコートにくるまりながら文句を垂れ流している。

「我慢だ、ミナ。全ては愛するメリアドールを救い出すためだ」

ジェラルド殿下は、ガタガタと震えながらも悲劇のヒーローを気取っていた。
その鼻水が少し垂れていることには、本人は気づいていないようだ。

「でもぉ、お腹空きましたぁ。温かいスープとかないんですかぁ?」

「国境の警備兵に聞いたが、『うちは軍の補給所だ。一般人に売る飯はねぇ』と断られたのだ。……野蛮な国だ。客をもてなす心というものがない!」

殿下は憤慨しているが、アポイントメントなしで軍事施設に立ち寄れば門前払いされるのは当然の理(ロジック)である。

「もうすぐだ。地図によれば、カシウス公爵の居城はこの先だ」

殿下は窓の外を睨みつけた。
遠くに見える、切り立った崖の上にそびえ立つ堅牢な要塞のような城。
あれこそが、愛しの(と勝手に思っている)元婚約者が囚われている場所に違いない。

「待っていろ、メリアドール! 今、私が『真実の愛』で君の目を覚まさせてやるからな!」

          ◇

一方その頃。
ガレリア公爵邸の執務室は、いつになく穏やかな空気に包まれていた。

「――よって、北部の鉱山開発における採掘量の推移は、このグラフの通り上昇傾向にあります」

「なるほど。新型の魔導トロッコを導入したのが効いたな」

私とカシウスは、並んで座りながら月次報告書を確認していた。
暖炉の火がパチパチと燃え、淹れたての紅茶の香りが漂う。
平和だ。
私が来てからというもの、この屋敷の業務効率は劇的に向上し、カシウスも書類仕事にストレスを感じなくなっていた。

「メリアドール」

「はい?」

不意に、カシウスが私の肩に頭を乗せてきた。
重い。が、温かい。

「仕事が終わったら、街へ行かないか? 新しい菓子屋ができたらしい」

「視察ですか? いいですね。競合他社の市場調査(リサーチ)は重要です」

「……デートだと言え。お前、たまには仕事以外の楽しみを持てよ」

カシウスが拗ねたように私の頬を突く。
最近の彼は、隙あらば私を「仕事」から引き剥がそうと画策してくる。
どうやら『婚約者(仮)』という契約形態に、不満(バグ)を抱き始めているようだ。

「楽しみならありますよ。昨夜、貴方の資産運用の利回りが〇・五パーセント上昇した夢を見ました。最高にエキサイティングでした」

「……お前の夢に出てくるのは、俺じゃなくて数字かよ」

「当然です。数字は裏切りませんから」

「俺も裏切らんぞ。一生な」

カシウスが私の手を取り、指を絡ませる。
その赤い瞳が、甘く私を見つめる。
心拍数が上がる。これは低血糖ではない。……そろそろ、この現象に名前をつけるべき時期が来ているのかもしれない。

そんな、少しこそばゆい空気が流れていた時だった。

ドンドンドン!!

執務室の扉が、激しく叩かれた。
このノックの仕方は、副団長のガストンだ。

「入れ」

カシウスが不機嫌そうに、しかし私の手を離さずに応じた。

「失礼します! 緊急事態ッス、ボス! 姉御!」

ガストンが転がり込んできた。
その顔は、敵襲を受けた時以上に引きつっている。

「どうした? ドラゴンでも出たか?」

「いえ、もっと厄介なもんが来やがったッス!」

ガストンは窓の外を指差した。

「隣国の……えーと、なんちゃら王国の王子を名乗る男が、正門前で騒いでるッス!」

「……は?」

私とカシウスの声が重なった。

「『メリアドールを出せ! 不当に監禁されている彼女を解放しろ!』とか喚いてて……。門番が追い返そうとしたら、『国際問題にするぞ!』って脅してきて、埒が明かねぇッス!」

私は頭痛を覚えた。
まさか。
いや、確率論で言えば二パーセント程度の可能性として計算していたが、本当に国境を越えてくるとは。

「ジェラルド殿下……」

私が名前を呟くと、隣のカシウスから空気が凍りつくような殺気が漏れ出した。

「……あいつか。お前を捨てた、あのバカ王子か」

カシウスの声が低い。
執務室の温度が一気に下がる。

「ガストン」

「へ、へい!」

「大砲の準備は?」

「ちょ、ちょっと待ってください閣下!」

私は慌ててカシウスを止めた。

「大砲は過剰防衛です! 弾薬費が無駄ですし、外交問題に発展した場合の賠償金が莫大になります!」

「じゃあどうする。俺の敷地内で、俺の女の名前を喚き散らす害虫だぞ? 駆除するのが領主の務めだろ」

「害虫駆除にも手順があります。まずは状況確認(ヒアリング)と、法的根拠に基づく退去勧告です」

私はため息をつき、立ち上がった。

「私が行きます。直接引導を渡してきます」

「俺も行く」

カシウスも立ち上がった。
その手には、なぜか壁に飾ってあった儀礼用の剣が握られている。

「……閣下。抜かないでくださいね? 血痕が絨毯につくとクリーニング代が高いですから」

「善処する。……だが、手を出したら切り落とす」

私たちは連れ立って、玄関ホールへと向かった。

          ◇

正門前。
そこには、私の予想通りの光景が広がっていた。

「開けろ! ここを開けろと言っているのだ! 私は王子だぞ!」

ジェラルド殿下が鉄柵を掴んで揺さぶっている。
その後ろで、ミナ様が「寒いですぅ~、早く入れてよぉ~」と座り込んでいる。
黒狼騎士団の面々が、それらを生温かい目――というか、「こいつら何なんだ?」という困惑の目で取り囲んでいた。

「お静かに願います。近所迷惑です」

私が姿を現すと、ジェラルド殿下の動きがピタリと止まった。

「メ、メリアドール……!」

殿下の顔が輝いた。
まるで地獄で仏に会ったような、あるいは砂漠でオアシスを見つけたような表情だ。

「ああ、メリアドール! 無事だったか! やつれて……はいないな。むしろ肌艶が良いな」

殿下は私の姿を上から下まで眺め、安堵の息を吐いた。

「よかった……! 監禁されて、地下牢で水攻めにされているのではないかと心配していたのだ!」

「想像力が豊かですね。私はここで、非常に快適で生産的な労働に従事しております」

「強がるな! 君の目は言っているぞ、『助けて、ジェラルド様』と!」

言っていない。
私の目は「帰れ、邪魔者」と言っているはずだ。翻訳機能が壊れているのだろうか。

「待たせたな、メリアドール。さあ、この手を取れ!」

殿下は鉄柵の隙間から手を伸ばした。

「私と共に帰ろう! 君に、再び私の婚約者として……いや、側室として仕える権利を与えてやる!」

「……」

私は計算機を取り出す気力さえ失せかけていた。
ここまで来ると、一種の才能だ。現実を認識しない才能。

「おい」

私の後ろから、地獄の底から響くような声がした。
カシウスだ。
彼は私の肩を抱き寄せ、ジェラルド殿下を睥睨した。

「誰の敷地で、誰の女に何の話をしている?」

「ひっ……!」

ジェラルド殿下がビクリと後退る。
カシウスの放つ威圧感(オーラ)は、本物の猛獣のそれだ。

「き、貴様がカシウスか! 野蛮な『狂犬』め!」

殿下は震える足を踏ん張り、指を突きつけた。

「よくも私の大事なメリアドールを誑かしたな! 返してもらおうか! 彼女は私の頭脳……いや、私の愛する人なんだ!」

「愛する人?」

カシウスが鼻で笑った。

「お前、隣の女に乗り換えて婚約破棄したんじゃなかったか? その粗大ゴミ(・・・・・)はどうするつもりだ?」

カシウスの視線がミナ様に向けられる。

「そ、粗大ゴミですってぇ!?」

ミナ様が憤慨して立ち上がる。

「失礼しちゃう! 私は正妃候補のミナよ! ジェラルド様の運命の人なの!」

「だそうだぞ、王子。二股かける気か?」

「ち、違う! これは……その、人材の有効活用だ!」

殿下が苦し紛れに叫ぶ。

「ミナは心の癒やし! メリアドールは実務の処理! 役割分担(ワークシェアリング)だ! 二人が協力して私を支える、それが国のためになるのだ!」

「……クズだな」

カシウスが吐き捨てた。
周囲の騎士たちも、「うわぁ……」「最低だぜ」「うちのボスよりタチが悪い」とドン引きしている。

私は深くため息をついた。

「殿下。提案(プロポーザル)の内容が劣悪すぎます。却下です」

「な、なぜだ! 側室だぞ!? これ以上の好条件はないだろう!」

「私の現在の待遇と比較してください。ここでは公爵家筆頭管理官としての権限を持ち、高額報酬を得て、さらに福利厚生も充実しています」

私はカシウスを見上げた。

「それに、今のボス(カシウス)は、貴方のように仕事を丸投げしません。私の能力を正当に評価し、対等なパートナーとして扱ってくれます」

「そ、そんな野蛮人がパートナーだと!? 君は騙されているんだ!」

「騙されてはいません。数字は嘘をつきませんから」

私はキッパリと言い放った。

「お引き取りください。貴方たちの帰りの旅費くらいなら、手切れ金として貸し付けても構いませんが?」

「ぐぬぬ……!」

ジェラルド殿下は顔を真っ赤にして、ギリギリと歯噛みした。
プライドの高い彼が、ここで引き下がるはずがない。

「いいだろう……! 言葉でわからないなら、実力行使だ!」

殿下は懐から、何やら怪しげな魔道具を取り出した。
それは、王家に伝わる『強制転移のスクロール』――に見えるが、なんだか古ぼけている。

「これで君を強制的に王都へ送還する! さあ、覚悟しろメリアドール!」

「は?」

殿下がスクロールを広げようとした、その瞬間。

バシュッ!!

鋭い風切り音と共に、何かが飛んできた。
それは、カシウスが投げた『石』だった。
正確無比なコントロールで、殿下の手元のスクロールを弾き飛ばしたのだ。

「あちっ!?」

スクロールが地面に落ち、泥にまみれる。

「……次に変なマネをしたら、その手の指を飛ばすぞ」

カシウスが剣の柄に手をかけ、一歩前に出た。
その目は笑っていない。

「俺の庭で、俺の女に手出ししようとするなら――戦争(ケンカ)売ってるとみなす。ガレリア帝国全軍を相手にする覚悟はあるんだろうな?」

「ひ、ひぃぃぃッ!」

ジェラルド殿下とミナ様が抱き合って震える。
圧倒的な武力の差。
もはや、言葉も通じない領域だ。

「……か、カシウス! 覚えておれ! 今日はこのくらいにしておいてやる!」

殿下は捨て台詞を吐き、慌てて馬車へと逃げ込んだ。

「行くぞミナ! 戦略的撤退だ! 宿を探すぞ!」
「待ってくださいぃぃ! 置いてかないでぇぇ!」

馬車は泥を跳ね上げ、猛スピードで去っていった。
後に残されたのは、静寂と、少しの疲労感だけ。

「……やれやれ。嵐のような連中だったな」

カシウスが剣から手を離し、呆れたように肩をすくめた。

「閣下。ナイスコントロールです。投石スキルにも精通していたとは」

「昔、狩りで覚えたんだ。……で? 大丈夫か、メリアドール」

カシウスが私の方を向き、心配そうに覗き込んでくる。
かつての婚約者の、あまりの情けなさに傷ついていないか、気遣ってくれているのだろう。

「問題ありません。むしろ、改めて確信しました」

「何を?」

「私の『損切り』の判断は、正しかったと」

私はカシウスに微笑みかけた。

「今の私の居場所(ポジション)は、ここですから」

カシウスは一瞬目を見開き、それから嬉しそうにニカッと笑った。

「当たり前だ。逃がすつもりはねぇよ」

彼は私の腰を引き寄せ、おでこに軽くキスをした。

「さあ、戻るぞ。紅茶が冷めちまう」

「ええ。あと、門前の泥掃除を騎士団に指示しておきます。衛生上よろしくありませんので」

私たちは腕を組み、屋敷へと戻っていった。
ジェラルド殿下の脅威は去った――かに見えた。
しかし、あの諦めの悪い男が、ただで引き下がるわけがない。
次は、さらに斜め上の作戦(愚行)で仕掛けてくることを、私の計算機は予知していた。
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