悪役令嬢は、婚約破棄の慰謝料計算に忙しい。

猫宮かろん

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「……閣下。少々、よろしいでしょうか」

誘拐未遂事件から三日後。
私は執務室のデスクで、ペンを置いてカシウスに向き直った。

「ん? なんだ、メリアドール。休憩か? 茶なら俺が淹れてやる」

カシウスは即座に反応し、いそいそとティーポットを手に取った。
彼の機嫌は良い。良すぎる。
問題はそこではない。

「いえ、業務環境(ワークプレイス)に関する改善提案です」

私は部屋の四隅を指差した。

「なぜ、私のデスクの周囲に、完全武装した騎士が四名も配置されているのですか?」

そう。
今の執務室は異様な光景だった。
私のデスクを囲むように、黒狼騎士団の精鋭たちが直立不動で警備しているのだ。
ガストン副団長に至っては、窓の外でロープにぶら下がりながら監視している(窓ガラス越しに目が合った)。

「警備だ」

カシウスは当然のように答えた。

「あのバカ王子のような不審者が、いつまた現れるかわからん。万全を期している」

「過剰(オーバー)スペックです。ここは屋敷の三階、しかも貴方の執務室ですよ? 彼らの圧迫感で、私の事務処理能力が一五パーセント低下しています」

「なら慣れろ。お前の安全が最優先だ」

カシウスは紅茶を淹れ、私の前に置いた。

「トイレに行く時も護衛をつけるか迷っているくらいだ」

「セクハラ及びプライバシーの侵害で訴えますよ」

私はため息をつき、紅茶を一口飲んだ。
美味しい。悔しいが、最近のカシウスは紅茶を淹れるスキルがメキメキ上達している。私の好みの濃さを完全に把握しているのだ。

「閣下。あの一件以来、貴方のリスク管理は異常です。私の『背負い投げ』をご覧になったでしょう? 自衛能力は証明済みのはずですが」

「……あんな危なっかしい真似、二度とさせるか」

カシウスの表情が、ふと曇った。
彼はカップを置く手が少し震えているのを隠すように、強く拳を握った。

「俺は……怖かったんだ」

「怖い? 『狂犬』と恐れられる貴方がですか?」

「ああ。お前が路地裏で襲われていると聞いた時、血の気が引いた。もし俺が間に合わなかったら……もしお前が怪我をしていたら……そう考えただけで、心臓が止まりそうになった」

カシウスは立ち上がり、私のデスクに回り込んできた。
そして、椅子に座る私の目線に合わせて膝をついた。
騎士が主人に傅くような姿勢だ。

「メリアドール。お前は強い。それはわかっている。だが、俺にとってお前は……壊れ物を扱う以上に慎重にならざるを得ない、大切な存在なんだ」

「……」

カシウスの手が、私の頬に触れる。
その指先は温かく、そして少しだけ強張っていた。

「頼むから、俺の目の届く範囲にいてくれ。お前がいなくなったら……俺の城(ここ)はまた、ただのガラクタ置き場に戻っちまう」

真剣な眼差し。
赤い瞳が、揺るぎない熱を持って私を射抜いている。
そこには、契約上の「婚約者」に対する義務感を超えた、重く、深い感情が宿っていた。

ドクン。

私の胸の奥で、大きな音がした。
心臓だ。
カシウスに見つめられた瞬間、鼓動が跳ね上がり、呼吸が浅くなる。

(……な、何?)

私は胸を押さえた。
苦しい。いや、痛い?
顔が熱い。体温調整機能にエラーが出ている。

「……閣下。少し、離れていただけますか」

「嫌だ。納得するまで離さん」

「いえ、そうではなく……酸素濃度が……」

私は息も絶え絶えに訴えた。

「至近距離での会話により、二酸化炭素濃度が上昇しています。換気が必要です」

「……また理屈か」

カシウスは苦笑したが、私の顔が赤いことに気づいたのか、ハッとして手を離した。

「おい、顔が赤いぞ。熱でもあるのか?」

彼が心配そうに額に手を当てようとする。
その手が近づくだけで、また心拍数が加速する。
ドクン、ドクン、ドクン。

(異常事態(エマージェンシー)。平常時の二倍の心拍数を記録)

私は慌てて椅子を引き、距離を取った。

「……不整脈です」

「は?」

「あるいは自律神経失調症。最近の激務と、ジェラルド殿下によるストレス、さらに貴方の過剰な警備による圧迫感が原因で、循環器系にバグが発生したようです」

私は早口でまくし立てた。

「直ちに精密検査が必要です。……い、一時退室を許可してください!」

「お、おいメリアドール!?」

私はカシウスの返事も待たず、逃げるように執務室を飛び出した。
警備の騎士たちが「あ、姉御!?」と驚く中、私は廊下を疾走した。

          ◇

自室に駆け込み、扉を閉めて鍵をかける。
私は背中を扉に預け、ズルズルと座り込んだ。

心臓がうるさい。
耳の奥まで鼓動が響いている。

「……計算できない」

私は震える手で懐から魔導計算機を取り出した。
いつもなら、どんなトラブルも数値化して冷静に対処できる。
だが今は、指がうまく動かない。

「なぜ? ただ心配されただけ。ただ触れられただけ。それなのに……」

脳裏に焼き付いているのは、カシウスの真剣な表情と、「大切な存在だ」という言葉。
それを思い出すだけで、胸がキュッと締め付けられるような感覚に襲われる。

「……不整脈じゃない」

私は薄々勘づいていた。
この症状に医学的な病名はつかないことを。
かつて読んだ恋愛小説のヒロインたちが、似たような症状を訴えていたことを。

『恋』。
非合理的で、生産性がなく、感情で判断を誤らせる、最も厄介なバグ。

「まさか、私が……?」

私は首を横に振った。
ありえない。
私はメリアドール・オルコット。感情を捨て、効率だけを愛する女だ。
カシウスとの関係は、あくまで「雇用主と従業員」、そして「契約上のパートナー」であるはずだ。

「……そうよ。これは吊り橋効果の一種。危機的状況下での錯覚に過ぎないわ」

私は自分に言い聞かせた。
一時的なホルモンバランスの乱れだ。時間が経てば収まる。
そう結論づけ、私は無理やり立ち上がった。

「冷静になりなさい、メリアドール。明日の予算会議の資料を作らなければ」

私は机に向かった。
だが、ペンを握っても、紙の上に浮かぶのは数字ではなく、カシウスの笑顔ばかりだった。

「……仕事にならないわ」

私はペンを投げ出し、机に突っ伏した。
赤面している自覚がある。
鏡を見なくてもわかる。今の私は、きっと「氷の令嬢」とは程遠い、間抜けな顔をしているに違いない。

(カシウス……貴方という男は、どれだけ私の計算を狂わせれば気が済むの?)

私の「鉄壁の防御」に、小さな、しかし致命的な亀裂が入った瞬間だった。

          ◇

一方、執務室。
取り残されたカシウスは、ポカンと扉を見つめていた。

「……不整脈?」

彼は首を傾げた。

「あいつ、あんなに顔を赤くして……息を切らして……」

カシウスは自分の手をじっと見た。
彼女の頬に触れた感触が残っている。

「……もしかして」

彼の口元が、ニヤリと歪んだ。

「照れてたのか? あいつ」

鈍感なようでいて、野生の勘が鋭い男は、核心に近づいていた。

「へぇ……。不整脈ねぇ」

カシウスは楽しそうに喉を鳴らした。
彼の目から「心配」の色が消え、代わりに肉食獣のような「狩り」の色が宿る。

「いいぜ、メリアドール。それが病気だと言い張るなら、俺が徹底的に治療(・・・)してやる」

彼は立ち上がり、窓の外でぶら下がっているガストンに合図を送った。

「ガストン! 作戦変更だ!」

「へい、ボス! どうしますか?」

「警備は解除する。その代わり……『攻め』に転じるぞ」

「攻め? どこの国に攻め込むんで?」

「メリアドールの鉄仮面だ。……あいつを完膚なきまでに陥落させる」

カシウスは不敵に笑った。
すれ違いと勘違いのラブコメディは、ここから「公爵による怒涛の求愛(攻撃)」へとフェーズを移行しようとしていた。
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