婚約破棄された悪役令嬢ですが、毒を盛る暇があるならお肉を焼きたい。

黒猫かの

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「……やはり、戻る。戻らねばならぬのだ、私は」


ジュリアンは、一度乗り込んだ馬車のステップに足をかけたまま、ピタリと動きを止めていた。


鼻腔をくすぐるのは、先ほどのトカゲとは比較にならない、重厚かつ甘美な肉の脂が焼ける香り。


離宮の裏庭では、アルカが巨大な猪肉の塊を、自作の回転式ロースターでじっくりと炙り始めていた。


「カイン、見て! この皮目の弾け具合。まるで真珠が踊っているようだわ!」


「左様でございますね。ハチミツと野いちごを煮詰めた特製ソースが、肉の熱でカラメル化し、最高の色気を見せております」


「色気……。そうね、この猪、今が一番の見頃だわ。……あら、殿下? まだいらしたんですか」


アルカが不思議そうに振り返る。その手には、肉にソースを塗るための大きな刷毛が握られていた。


ジュリアンは喉を大きく鳴らした。


「い、いや……御者が、その、馬の蹄鉄に不具合がないか確認したいと言い出してな。少し時間がかかるのだ」


「そうですか。それは大変ですね。……カイン、殿下が退屈そうだから、暇つぶしに薪割りでも手伝っていただいたら?」


「お嬢様、流石に王太子殿下にそれは不敬が過ぎます。……殿下、もしよろしければ、あちらの切り株にお座りください。ちょうど今、一番美味しい部位が焼き上がるところです」


カインが流れるような手つきで、ナイフを肉に突き立てた。


ザクッ、と小気味よい音が響き、中から溢れんばかりの肉汁が噴き出す。


「……っ!」


ジュリアンの目は釘付けになった。


黄金色の脂が炭火に落ち、ジッという音と共にさらに香ばしい煙を立ち上げる。


アルカはその中から、とりわけ脂の乗った一切れを器用にナイフですくい取った。


「殿下。これ、味見してみます? 一口だけですけれど」


「なっ……私を誘惑する気か! 私は王国の次期後継者だぞ。そのような、はしたない……」


「そうですか。では、カイン、あなたが食べて」


「はい。いただきます」


「待て!!」


ジュリアンは、カインが口を開くよりも早く、アルカの手首を掴み損ねるほどの勢いで身を乗り出した。


「……毒見だ。そう、毒見だ! 貴様がこの地で、変な毒キノコでも混ぜていないか、私が確認せねばならぬだろう!」


「毒なんて、旨味成分に比べれば誤差のようなものですわ。さあ、どうぞ。あーん、して」


「あ、あ……あーん……」


王太子としてのプライドは、胃袋の反乱によってあっけなく沈黙した。


アルカが差し出した肉が、ジュリアンの口内に滑り込む。


その瞬間、ジュリアンの世界は一変した。


「……っ!! ぬ、おおおおおおっ!?」


「いかがです? 北の猪は、王都のそれとは筋肉の質が違うでしょう?」


「な、なんだこれは……! 歯を押し返すような弾力があるのに、噛み締めた瞬間に、脂が甘いスープとなって溢れ出す……! それに、このソースの酸味! 肉の重さを消し去り、無限に食欲を加速させる……!」


「ふふ、野いちごの酸味が効いているでしょう? 殿下、顔がとろけていますわよ」


アルカは楽しそうに笑いながら、今度は自分用に切り分けた肉を頬張った。


「んー! 最高! カイン、これ、商品化できるわよ。……あ、でも殿下が独占禁止法とか言い出しそうね」


「……お嬢様、この世界にそのような法律はございませんが、殿下の独占欲を刺激する味であることは間違いございません」


カインの言葉通り、ジュリアンはもはや我を忘れて肉を見つめていた。


「アルカ……もう一口……いや、もう一枚だけ、毒見をさせてくれ……」


「ダメですわ。これは今夜の私のディナーなんです。殿下にはもう、トカゲを差し上げたでしょう?」


「トカゲとこれでは天と地の差だ! 頼む、私は王太子だぞ! 命令だ、その肉を私に差し出せ!」


「あら、婚約破棄をした相手に命令するなんて、野暮じゃありません? 今の私はただの『北の料理人』ですもの。食べたいなら、対価を支払ってくださいな」


「対価だと……? 金か? 領地か?」


「いいえ。次に来る時に、王宮の地下貯蔵庫にある『三百年物の熟成バルサミコ酢』を持ってきてください。あれ、ずっと狙っていたんです」


「……貴様、王国の国宝級調味料を、肉一切れと交換せよと言うのか!?」


ジュリアンは絶句したが、鼻の先で揺れる猪肉の誘惑には勝てなかった。


「……わかった。持ってきてやる! だから、その右側の、一番厚いところを食わせろ!」


「交渉成立ですわ! 殿下、意外と話がわかるじゃないですか」


アルカは満面の笑みで、ジュリアンの皿に山盛りの肉を盛り付けた。


雪の中、焚き火を囲んで夢中で肉を食らう王子と、それを満足げに眺める悪役令嬢。


その様子を、カインは静かに手帳に記録していた。


『本日、殿下の胃袋、完全に陥落。バルサミコ酢の確保に成功』


ジュリアンが王都への帰路についたのは、それからさらに数時間後、腹がはち切れんばかりに膨らんでからのことだった。


馬車の中で、ジュリアンは窓の外を眺めながら呟いた。


「……リディアの作るクッキーが、なぜか急に……砂のように思えてきた……」


彼の心(と胃袋)に、かつての婚約者が植え付けた「毒」は、あまりにも美味しく、そして深く回り始めていたのである。
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