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「……いたた。腕が、腕が上がりませんわ……」
北の離宮の朝。リディアは豪華な客室の天蓋付きベッドの中で、自身の筋肉痛に悲鳴を上げた。
昨日の猛烈なジャガイモ剥きの代償は、華奢な令嬢の体に容赦なく襲いかかっていた。
「おはようございます、リディア様。お目覚めのレモン水でございます」
カインが音もなく部屋に入り、盆をサイドテーブルに置いた。
「カイン……。私、もう動けませんわ。今日こそ王都に帰らせていただきます。アルカ様にそう伝えて……」
「それは残念です。お嬢様は今、厨房で『幻のハチミツ』を使ったパン生地を叩きつけていらっしゃいます。あれは、日頃のストレスをぶつけるほど美味しくなるとか」
「ハチミツ……パン……」
リディアの胃袋が、飼い主に反抗するようにグゥ、と鳴った。
「……顔を洗ってきますわ。少しだけ、様子を見るだけですわよ!」
リディアがふらふらと厨房へ向かうと、そこには異様な光景が広がっていた。
アルカが、純白の小麦粉にまみれながら、巨大な粘土のような塊を調理台に叩きつけていた。
「せいッ! これがあの時私を突き飛ばした衛兵の分! こっちが、私のティーセットを勝手に片付けた侍女の分よ!」
ドゴォッ、と凄まじい音が響くたび、生地は艶を増していく。
「……アルカ様。朝から何をしていらっしゃいますの?」
「あ、リディア様。見てちょうだい。この生地、昨日より弾力があるわ。……あ、そうだわ。あなたもやってみる?」
「私が!? とんでもない! 昨日のジャガイモで懲り懲りですわ!」
「あら。パン生地を捏ねるのは、美容にいいのよ。指先の血行が良くなって、お肌がツヤツヤになるわ。それに……」
アルカはリディアに歩み寄り、その耳元で悪魔の囁きをした。
「嫌いな人間の顔を思い浮かべて叩きつけると、最高のストレス解消になるわよ。やってみたくない? あの、いつもあなたを影で笑っている取り巻きの令嬢たちの顔とか」
「……っ! あ、あの高慢なミレーヌ様の顔を……」
リディアの瞳に、危うい光が宿った。
彼女は無言で袖を捲り上げると、アルカから生地をひったくった。
「……えいっ! これが、私の髪型を古いって言ったミレーヌの分! これが、お茶会に呼んでくれなかったシェリー様の分ですわっ!」
ドカッ! バキッ! と、およそ淑女が出すべきではない音が厨房を満たしていく。
「いいわ、リディア様! その憎しみが生地のグルテンを鍛えているわ! もっとよ、もっと心を込めて!」
「うおおおおおっ! 私だって、本当は刺繍なんて嫌いなんですのよ! 毎日毎日、お城の退屈な噂話ばかり……私はもっと、自由に生きたかったんですわ!」
リディアの絶叫と共に、生地は見事なまでの弾力と輝きを手に入れた。
数十分後。焼き上がったパンの香ばしい匂いが厨房を包む。
「……はぁ、はぁ。なんだか、とてもスッキリしましたわ」
リディアは汗を拭いながら、焼き立てのパンを一口齧った。
「……美味しい。……何これ、信じられない。私、自分で作ったからでしょうか。王宮の最高級パンより、ずっと愛おしい味がしますわ」
「そうよ、リディア様。料理は裏切らないわ。かけた愛情……いえ、ぶつけた憎しみの分だけ、美味しく応えてくれるの」
アルカは満足げに自分のパンを頬張ると、リディアの肩に手を置いた。
「どう? 王都に帰って、また偽りの笑顔で刺繍をする生活に戻る? それとも……ここで私と、最強のパン職人を目指してみる?」
「……アルカ様」
リディアは、自分の手を見つめた。泥に汚れ、小麦粉にまみれ、少しだけ逞しくなった自分の手を。
「私……もう一日だけ、残ってもよろしいかしら? あの大根の収穫というのも、少し気になりますし」
「大歓迎よ、リディア様! カイン、彼女に新しいエプロンと、一番頑丈な長靴を用意して!」
「かしこまりました。……リディア様、ようこそ『泥と美食の迷宮』へ」
カインの冷ややかな、しかしどこか歓迎の色を含んだ言葉に、リディアは力強く頷いた。
ヒロインが、悪役令嬢の指導のもと、物理的な強さと料理の喜びに目覚めた瞬間であった。
「さあ、リディア様! 次は大根よ! 地面から引き抜く時のあの快感、病みつきになるわよ!」
「楽しみですわ、アルカ様!」
二人の令嬢は、満面の笑みで雪の積もる畑へと駆け出していった。
北の離宮の朝。リディアは豪華な客室の天蓋付きベッドの中で、自身の筋肉痛に悲鳴を上げた。
昨日の猛烈なジャガイモ剥きの代償は、華奢な令嬢の体に容赦なく襲いかかっていた。
「おはようございます、リディア様。お目覚めのレモン水でございます」
カインが音もなく部屋に入り、盆をサイドテーブルに置いた。
「カイン……。私、もう動けませんわ。今日こそ王都に帰らせていただきます。アルカ様にそう伝えて……」
「それは残念です。お嬢様は今、厨房で『幻のハチミツ』を使ったパン生地を叩きつけていらっしゃいます。あれは、日頃のストレスをぶつけるほど美味しくなるとか」
「ハチミツ……パン……」
リディアの胃袋が、飼い主に反抗するようにグゥ、と鳴った。
「……顔を洗ってきますわ。少しだけ、様子を見るだけですわよ!」
リディアがふらふらと厨房へ向かうと、そこには異様な光景が広がっていた。
アルカが、純白の小麦粉にまみれながら、巨大な粘土のような塊を調理台に叩きつけていた。
「せいッ! これがあの時私を突き飛ばした衛兵の分! こっちが、私のティーセットを勝手に片付けた侍女の分よ!」
ドゴォッ、と凄まじい音が響くたび、生地は艶を増していく。
「……アルカ様。朝から何をしていらっしゃいますの?」
「あ、リディア様。見てちょうだい。この生地、昨日より弾力があるわ。……あ、そうだわ。あなたもやってみる?」
「私が!? とんでもない! 昨日のジャガイモで懲り懲りですわ!」
「あら。パン生地を捏ねるのは、美容にいいのよ。指先の血行が良くなって、お肌がツヤツヤになるわ。それに……」
アルカはリディアに歩み寄り、その耳元で悪魔の囁きをした。
「嫌いな人間の顔を思い浮かべて叩きつけると、最高のストレス解消になるわよ。やってみたくない? あの、いつもあなたを影で笑っている取り巻きの令嬢たちの顔とか」
「……っ! あ、あの高慢なミレーヌ様の顔を……」
リディアの瞳に、危うい光が宿った。
彼女は無言で袖を捲り上げると、アルカから生地をひったくった。
「……えいっ! これが、私の髪型を古いって言ったミレーヌの分! これが、お茶会に呼んでくれなかったシェリー様の分ですわっ!」
ドカッ! バキッ! と、およそ淑女が出すべきではない音が厨房を満たしていく。
「いいわ、リディア様! その憎しみが生地のグルテンを鍛えているわ! もっとよ、もっと心を込めて!」
「うおおおおおっ! 私だって、本当は刺繍なんて嫌いなんですのよ! 毎日毎日、お城の退屈な噂話ばかり……私はもっと、自由に生きたかったんですわ!」
リディアの絶叫と共に、生地は見事なまでの弾力と輝きを手に入れた。
数十分後。焼き上がったパンの香ばしい匂いが厨房を包む。
「……はぁ、はぁ。なんだか、とてもスッキリしましたわ」
リディアは汗を拭いながら、焼き立てのパンを一口齧った。
「……美味しい。……何これ、信じられない。私、自分で作ったからでしょうか。王宮の最高級パンより、ずっと愛おしい味がしますわ」
「そうよ、リディア様。料理は裏切らないわ。かけた愛情……いえ、ぶつけた憎しみの分だけ、美味しく応えてくれるの」
アルカは満足げに自分のパンを頬張ると、リディアの肩に手を置いた。
「どう? 王都に帰って、また偽りの笑顔で刺繍をする生活に戻る? それとも……ここで私と、最強のパン職人を目指してみる?」
「……アルカ様」
リディアは、自分の手を見つめた。泥に汚れ、小麦粉にまみれ、少しだけ逞しくなった自分の手を。
「私……もう一日だけ、残ってもよろしいかしら? あの大根の収穫というのも、少し気になりますし」
「大歓迎よ、リディア様! カイン、彼女に新しいエプロンと、一番頑丈な長靴を用意して!」
「かしこまりました。……リディア様、ようこそ『泥と美食の迷宮』へ」
カインの冷ややかな、しかしどこか歓迎の色を含んだ言葉に、リディアは力強く頷いた。
ヒロインが、悪役令嬢の指導のもと、物理的な強さと料理の喜びに目覚めた瞬間であった。
「さあ、リディア様! 次は大根よ! 地面から引き抜く時のあの快感、病みつきになるわよ!」
「楽しみですわ、アルカ様!」
二人の令嬢は、満面の笑みで雪の積もる畑へと駆け出していった。
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