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「……やはり、ここの夜風は体に毒だな」
ジュリアンはそう呟きながらも、離宮の裏庭に設えられた焚き火のそばから動こうとはしなかった。
パチパチと爆ぜる薪の音。オレンジ色の炎が、対面に座るアルカの横顔を柔らかく照らしている。
アルカの手元には、長い枝に突き刺された「何か」があった。それは雪のように白い塊に、琥珀色のシロップがたっぷりと塗られたものだ。
「殿下、そんなに眉間に皺を寄せていたら、せっかくの『雪解けリンゴのバター焼き』が酸っぱくなってしまいますわよ」
「……そんな非科学的なことがあるか。それより、それはいつ焼き上がるのだ」
「あと三十秒ですわ。表面のハチミツが小さな泡を吹いて、キャラメル色の香りを放ち始めた瞬間……そこが、このリンゴの『絶頂期』です」
アルカは真剣な眼差しで、枝をゆっくりと回した。
「……アルカ。少し、昔話をしてもいいか」
ジュリアンの唐突な言葉に、アルカは一瞬だけ手の動きを止め、すぐに再開した。
「いいですよ。ただし、リンゴが焦げない程度に短くお願いしますね」
「……私はずっと、君が怖かった。君はいつも冷めた目で私を見ていたし、舞踏会でも、お茶会でも、一言も楽しそうな言葉を口にしなかった。だから私は、君が王家を、そして私を蔑んでいるのだと思っていた」
ジュリアンは膝を抱え、炎の中に視線を落とした。
「だから、リディアが現れた時、救われたような気がしたんだ。彼女は笑い、驚き、私を必要としてくれた。……でも、今ならわかる。君があの時、なぜあんなに不機嫌だったのかが」
アルカは焼き上がったリンゴを枝から外し、木のお皿に乗せてジュリアンに差し出した。
「……お腹が、空いていたからですわ」
「……やはりそうか」
ジュリアンは苦笑いしながら、熱々のリンゴをフォークで切り分けた。
「ええ。王宮の夜会は、一皿の量が少なすぎるんですもの。それに、殿下がお喋りに夢中になっている間に、最高のご馳走が目の前で冷めていく……。あの時の私の絶望が、殿下にはわかりますか?」
「……すまなかった。私の不徳の致すところだ」
ジュリアンは一口、リンゴを口に運んだ。
「……っ! あ、甘い……。だが、リンゴの酸味がバターの重さを打ち消して、まるで春の嵐が口の中で踊っているようだ……」
「ふふ、表現が詩的になりましたわね。……殿下。私がリディア様にしていたという『嫌がらせ』、本当は何だったか、今ならわかりますでしょう?」
「……ああ。教科書を破ったのは、その紙で魚を包んで蒸し焼きにするため。階段から突き落とそうとしたのは、彼女の足腰を鍛えて、遠くの市場まで買い出しに行かせるため……だろう?」
「正解です。彼女、あんなに細いのに、食べる量だけは一人前でしたから。将来、私の厨房で助手として働くには、それなりの体力が必要だと思ったのですわ」
アルカは自分用のリンゴを頬張り、幸せそうに目を細めた。
「……君は、最初から最後まで、食べ物のことしか考えていなかったんだな。そこに悪意も、野心も、嫉妬すらもなかった」
「ええ。嫉妬する暇があるなら、新しいソースの配合を考えますわ。……でも、殿下。私、殿下のこと、嫌いじゃなかったんですよ」
アルカの不意の一言に、ジュリアンはリンゴを喉に詰まらせそうになった。
「……な、何だと?」
「殿下は、私の変な料理を、文句を言いながらも最後まできれいに食べてくださいましたもの。あんなに好き嫌いの激しい方が、私の作った『レバーとイチジクのテリーヌ』を完食した時、私、少しだけ感動しましたのよ」
アルカは焚き火の熱で火照った頬を、冷たい指先で押さえた。
「……君は、そんな小さなことを覚えていたのか」
「料理人にとって、空になった皿は最高のラブレターですわ」
ジュリアンの胸の中に、リンゴの甘さとは違う、熱い何かが広がっていった。
「……アルカ。私は、取り返しのつかない間違いをしたのかもしれない。君のような、純粋で、真っ直ぐな……いや、真っ直ぐすぎて食欲に特化した女性を、手放してしまったのは」
「あら。今さら後悔しても遅いですわよ。今の私は、北の食材たちと相思相愛なんですもの」
アルカは立ち上がり、ドレスについた土を軽く払った。
「さあ、殿下。夜風が本格的に冷たくなってきました。続きは、明日のお楽しみですわ。明日の朝食は、ガラン卿が全力で攪拌した『究極のふわふわオムレツ』ですから。寝坊したら、レオンハルトに全部食べられてしまいますわよ」
「……それは、死んでも阻止せねばならんな」
ジュリアンも立ち上がり、アルカの隣に並んだ。
二人の間に流れる空気は、王都にいた頃の刺々しさは消え失せ、穏やかで、どこか香ばしい。
「おやすみなさい、殿下。良い夢を。……できれば、美味しい夢を」
「ああ。おやすみ、アルカ」
去っていくアルカの背中を見送りながら、ジュリアンは自分の胸に手を当てた。
かつての婚約者は、もう「悪役令嬢」ではない。彼女は、この北の地で、誰よりも輝く「食の探求者」だった。
そして、そんな彼女に再び心を奪われている自分を、ジュリアンはもう、否定することができなかった。
「……バルサミコ酢どころか、私の心まで持っていくとはな。……食えない女だ」
ジュリアンの独り言は、薪の爆ぜる音と共に、北の夜空へと溶けていった。
ジュリアンはそう呟きながらも、離宮の裏庭に設えられた焚き火のそばから動こうとはしなかった。
パチパチと爆ぜる薪の音。オレンジ色の炎が、対面に座るアルカの横顔を柔らかく照らしている。
アルカの手元には、長い枝に突き刺された「何か」があった。それは雪のように白い塊に、琥珀色のシロップがたっぷりと塗られたものだ。
「殿下、そんなに眉間に皺を寄せていたら、せっかくの『雪解けリンゴのバター焼き』が酸っぱくなってしまいますわよ」
「……そんな非科学的なことがあるか。それより、それはいつ焼き上がるのだ」
「あと三十秒ですわ。表面のハチミツが小さな泡を吹いて、キャラメル色の香りを放ち始めた瞬間……そこが、このリンゴの『絶頂期』です」
アルカは真剣な眼差しで、枝をゆっくりと回した。
「……アルカ。少し、昔話をしてもいいか」
ジュリアンの唐突な言葉に、アルカは一瞬だけ手の動きを止め、すぐに再開した。
「いいですよ。ただし、リンゴが焦げない程度に短くお願いしますね」
「……私はずっと、君が怖かった。君はいつも冷めた目で私を見ていたし、舞踏会でも、お茶会でも、一言も楽しそうな言葉を口にしなかった。だから私は、君が王家を、そして私を蔑んでいるのだと思っていた」
ジュリアンは膝を抱え、炎の中に視線を落とした。
「だから、リディアが現れた時、救われたような気がしたんだ。彼女は笑い、驚き、私を必要としてくれた。……でも、今ならわかる。君があの時、なぜあんなに不機嫌だったのかが」
アルカは焼き上がったリンゴを枝から外し、木のお皿に乗せてジュリアンに差し出した。
「……お腹が、空いていたからですわ」
「……やはりそうか」
ジュリアンは苦笑いしながら、熱々のリンゴをフォークで切り分けた。
「ええ。王宮の夜会は、一皿の量が少なすぎるんですもの。それに、殿下がお喋りに夢中になっている間に、最高のご馳走が目の前で冷めていく……。あの時の私の絶望が、殿下にはわかりますか?」
「……すまなかった。私の不徳の致すところだ」
ジュリアンは一口、リンゴを口に運んだ。
「……っ! あ、甘い……。だが、リンゴの酸味がバターの重さを打ち消して、まるで春の嵐が口の中で踊っているようだ……」
「ふふ、表現が詩的になりましたわね。……殿下。私がリディア様にしていたという『嫌がらせ』、本当は何だったか、今ならわかりますでしょう?」
「……ああ。教科書を破ったのは、その紙で魚を包んで蒸し焼きにするため。階段から突き落とそうとしたのは、彼女の足腰を鍛えて、遠くの市場まで買い出しに行かせるため……だろう?」
「正解です。彼女、あんなに細いのに、食べる量だけは一人前でしたから。将来、私の厨房で助手として働くには、それなりの体力が必要だと思ったのですわ」
アルカは自分用のリンゴを頬張り、幸せそうに目を細めた。
「……君は、最初から最後まで、食べ物のことしか考えていなかったんだな。そこに悪意も、野心も、嫉妬すらもなかった」
「ええ。嫉妬する暇があるなら、新しいソースの配合を考えますわ。……でも、殿下。私、殿下のこと、嫌いじゃなかったんですよ」
アルカの不意の一言に、ジュリアンはリンゴを喉に詰まらせそうになった。
「……な、何だと?」
「殿下は、私の変な料理を、文句を言いながらも最後まできれいに食べてくださいましたもの。あんなに好き嫌いの激しい方が、私の作った『レバーとイチジクのテリーヌ』を完食した時、私、少しだけ感動しましたのよ」
アルカは焚き火の熱で火照った頬を、冷たい指先で押さえた。
「……君は、そんな小さなことを覚えていたのか」
「料理人にとって、空になった皿は最高のラブレターですわ」
ジュリアンの胸の中に、リンゴの甘さとは違う、熱い何かが広がっていった。
「……アルカ。私は、取り返しのつかない間違いをしたのかもしれない。君のような、純粋で、真っ直ぐな……いや、真っ直ぐすぎて食欲に特化した女性を、手放してしまったのは」
「あら。今さら後悔しても遅いですわよ。今の私は、北の食材たちと相思相愛なんですもの」
アルカは立ち上がり、ドレスについた土を軽く払った。
「さあ、殿下。夜風が本格的に冷たくなってきました。続きは、明日のお楽しみですわ。明日の朝食は、ガラン卿が全力で攪拌した『究極のふわふわオムレツ』ですから。寝坊したら、レオンハルトに全部食べられてしまいますわよ」
「……それは、死んでも阻止せねばならんな」
ジュリアンも立ち上がり、アルカの隣に並んだ。
二人の間に流れる空気は、王都にいた頃の刺々しさは消え失せ、穏やかで、どこか香ばしい。
「おやすみなさい、殿下。良い夢を。……できれば、美味しい夢を」
「ああ。おやすみ、アルカ」
去っていくアルカの背中を見送りながら、ジュリアンは自分の胸に手を当てた。
かつての婚約者は、もう「悪役令嬢」ではない。彼女は、この北の地で、誰よりも輝く「食の探求者」だった。
そして、そんな彼女に再び心を奪われている自分を、ジュリアンはもう、否定することができなかった。
「……バルサミコ酢どころか、私の心まで持っていくとはな。……食えない女だ」
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