婚約破棄された悪役令嬢ですが、毒を盛る暇があるならお肉を焼きたい。

黒猫かの

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「……騒々しいな。王宮の神聖な厨房で、女子供が何をおままごとしているのかと思えば」


厨房の喧騒を切り裂くような、低く、冷淡な声が響いた。


入り口に立っていたのは、豪奢な毛皮を羽織り、眼鏡の奥で蛇のような瞳を光らせる男。この王国の政務を牛耳る実力者、宰相のゼノス・ド・ブラック公爵だった。


彼の背後には、武装した私兵たちがずらりと並び、調理の手を止めた料理人たちを威圧している。


「おやおや、宰相閣下。こんな油臭い場所に、何の御用かしら? 権力のスパイスでも探しにいらしたの?」


アルカは、スノーマンモスの肉にハーブを擦り込みながら、顔も上げずに答えた。


「アルカ・フォン・ベルム。貴様を王都へ呼び戻したのは、王妃様の気まぐれに過ぎん。だが、私は許さんぞ。一度追放された犯罪者が、再び王宮の心臓部に返り咲くなどという醜聞をな」


「犯罪者、ねぇ……。確たる証拠もないのに、よく仰るわ。それとも、あなたがその『証拠』を作った張本人だから、そんなに自信満々なのかしら?」


アルカがピタリと手を止め、ゼノスを正面から見据えた。


厨房の温度が、一気に数度下がったかのような静寂が訪れる。


「……ほう。少しは知恵が回るようになったか」


ゼノスは嘲笑うように口角を上げた。


「左様。リディア嬢をそそのかし、貴様に冤罪を被せたのはこの私だ。公爵家の力を削ぎ、王子と貴様の婚約を解消させる。すべては王国の『秩序』のためよ。……だが、貴様は北の地で死ぬどころか、妙な力をつけて戻ってきた」


「秩序、ね。あなたの言う秩序って、不味いレバーパテを無理やり食べさせられるような、息苦しいものなのね」


アルカは再び肉に向き直り、鼻を鳴らした。


「残念だったわね、宰相閣下。あなたの陰謀のおかげで、私は最高の食材に出会えたわ。……ところで、そこの私兵さんたち。ちょっと邪魔よ。その位置に立たれると、竈の火力が安定しないわ。どいてちょうだい」


「無視するか……! えい、衛兵! この女を再び捕らえよ! 王妃様への毒殺未遂の疑いでな!」


ゼノスが合図を送ると、私兵たちが一斉に踏み出した。


「……師匠に手を出すな、この三流政治家が!」


「うおおおおおっ! 愛の防壁ッ!!」


レオンハルトがスパイスの粉末を煙幕のように撒き散らし、ガラン卿が巨大な麺棒を振り回して兵たちの進路を塞いだ。


「な、何だ貴様らは! 他国の王子と王宮騎士団の副団長が、なぜこんな小娘の肩を持つ!」


「小娘ではない、『食の守護神』だ! 閣下、あなたのその淀んだオーラは、最高のディナーを台無しにするわ。……カイン、あれを持ってきて」


アルカの指示に、カインが小瓶を持って現れた。


「お嬢様、例の『超高濃度・魔界唐辛子の抽出液』でございますね。一滴で象が気絶し、二滴で魂が口から飛び出すと言われる……」


「それを、そこの宰相さんの足元に。……あ、間違えて口に入らないように気をつけてね」


「畏まりました」


カインが流れるような動作で、ゼノスの足元に液体をぶちまけた。


瞬間、厨房にこの世のものとは思えない刺激臭が充満する。


「……ぐ、ぐあああああああっ!? 目が、目がぁぁぁ! 鼻がもげるぅぅぅ!」


ゼノスとその私兵たちは、あまりの激痛と刺激に悶絶し、その場に転げ回った。


「……ふぅ。これで静かになったわ。……リディア様、パンの焼き加減はどう?」


「バッチリですわ、アルカ様! 宰相閣下の悲鳴が良いBGMになって、生地がよく膨らみましたわ!」


「……アルカ。君というやつは、本当に恐ろしいな」


様子を見守っていたジュリアンが、額を押さえて溜息をついた。


「あら、殿下。私はただ、調理の邪魔を排除しただけですわ。……さあ、いよいよメインディッシュの仕上げよ! 王妃様をお待たせするわけにはいかないわ!」


床でのたうち回る「真の黒幕」を完全に踏み台にし、アルカは再び黄金の包丁を振るった。


王宮の陰謀など、彼女の情熱という名の高火力の前では、一瞬で灰になるだけの存在に過ぎなかったのである。
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