婚約破棄? 承知しました。では、こちらにサインをお願いします。

猫宮かろん

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王都を出発してから数日。
馬車に揺られる旅は退屈極まりないものだったが、窓の外の景色が変わるにつれて、私の心臓の鼓動は早鐘を打ち始めていた。

綺麗に舗装された街道から、ゴツゴツとした岩肌が目立つ山道へ。
優雅な花畑の香りは消え、代わりに土と鉄、そして微かな火薬の匂いが風に乗って漂ってくる。

「ああ……帰ってきたわ」

私は馬車の窓を全開にして、その空気を胸いっぱいに吸い込んだ。

「これよ。この鉄錆の香りこそが私の故郷。あの香水臭い王都とは大違いだわ!」

「お、お嬢様? 砂埃が入りますので窓を閉めていただけますか……?」

向かいに座るメイドのマリーがハンカチで口を押さえながら懇願するが、私は聞く耳を持たない。
視線の先には、荒々しく切り立った巨大な山脈。
ベルンシュタイン侯爵家が管理する鉱山地帯だ。

そこには私の夢が、希望が、そして何より「筋肉」が詰まっている。

「着いたぞ! 開門!」

御者の掛け声と共に、岩を削り出して作られた巨大な正門が重々しい音を立てて開く。
屋敷の玄関前には、すでに父上と使用人たちが整列して出迎えてくれていた。

馬車が止まり、扉が開かれる。
私はエスコートを待たずに地面へと降り立った。

「ただいま戻りましたわ、お父様!」

「おお、マーヤ! よくぞ無事で帰った!」

ドスドスドス!
地響きのような足音と共に駆け寄ってきたのは、熊――ではなく、我が父、バルカン・ベルンシュタイン侯爵だ。

身長二メートル超。
オーダーメイドの最高級スーツですら隠しきれない、圧倒的な筋肉の質量。
首の太さは私のウエストほどもあり、笑うたびに胸板がスーツのボタンを弾き飛ばしそうに波打っている。

(ああ、なんて素晴らしいの……! これよ、男とはこうでなくては!)

久しぶりに見る父の雄大な肉体に、私の目は潤んだ。
ジュリアン殿下の貧相な体を見慣れてしまった私の網膜が、急速に回復していくのを感じる。

「むっ! マーヤよ、なぜ泣いている!?」

父上が心配そうに太い眉を寄せる。

「もしやあの『もやし王子』に何かされたのか? 泣かされたのか!?」

「ええ、泣かされましたわ。あまりの筋肉のなさ、あまりの頼りなさに、毎日枕を濡らしておりました」

「なんと! やはりあの男では役不足だったか!」

父上は私の両肩をガシッと掴んだ。
その手はグローブのように大きく、温かい。
これこそが安心感だ。

「それで、どうなったのだ? 急に戻ってくるなど」

「婚約破棄されましたの。大勢の貴族の前で、盛大に」

私が事実を告げると、周囲の使用人たちが息を呑んだ。
だが、父上だけは違った。

「ガハハハハ! そうかそうか! 向こうから願い下げとは好都合だ!」

父上は豪快に笑い飛ばし、私の背中をバシバシと叩いた。
普通の令嬢なら吹き飛んでいる威力だが、私は足腰を踏ん張ってそれに耐える。

「あのような軟弱者に、我がベルンシュタイン家の至宝をやるのは惜しいと思っていたところだ! よくやったマーヤ!」

「ありがとうございます。それでですね、お父様。これを」

私は懐から、セバスチャンから巻き上げた小切手を取り出した。

「手切れ金と慰謝料、きっちり回収してきましたわ。当面の生活費と、私の『事業資金』には十分すぎる額です」

小切手の金額を見た瞬間、父上の目が丸くなった。

「ぶほっ! こ、これは……王家の隠し財産が吹き飛ぶ額ではないか! お前、一体何をしたのだ……?」

「正当な権利を主張しただけですわ。計算機と少しの『話術』を使って」

「ガハハ! さすがは我が娘! 腕っぷしだけでなく胆力も俺譲りだな!」

父上は再び大笑いし、私を力強く抱きしめた。
肋骨が軋む音がしたが、それすらも愛おしい。
これぞスキンシップだ。

「よし! 今日は宴だ! 山の男たちも呼んで、肉を焼こう!」

「素敵ですわお父様! ……ですが、その前に」

私は父の腕から抜け出し、キッと屋敷を見上げた。

「着替えさせていただきます。この窮屈なドレスとも、これでお別れです」

自室に戻った私は、マリーの手を借りてコルセットを外し、重たいフリルのついたドレスを脱ぎ捨てた。
床に落ちた布の塊が、まるで過去の抜け殻のように見える。

「お嬢様、次はどのドレスになさいますか? 流行のシルクのワンピースが……」

「いいえ、マリー。ドレスはもう必要ないわ」

私はウォークインクローゼットの奥、誰も開けることのなかった木箱を指差した。

「あれを出して」

「えっ? あれは……鉱山視察用の作業着ですが……」

「ええ、特注で作らせた『戦闘服』よ」

箱から取り出されたのは、丈夫なデニム生地で作られたつなぎ(オーバーオール)だ。
機能性を重視しつつ、シルエットは女性らしく補正してある。
足元には安全靴代わりの編み上げブーツ。

私はそれを身に纏い、腰のベルトをギュッと締めた。
鏡に映るのは、着飾った令嬢ではなく、野望に燃える一人の事業家だ。

「うん、動きやすい。最高ね」

腕を回し、屈伸をする。
可動域は完璧だ。

「お、お嬢様……本当にその格好で?」

マリーが困惑しているが、私はニヤリと笑った。

「ええ。これから『現場』に行くのですもの。ドレスじゃ邪魔なだけよ」

私はブーツの紐を結び直し、窓の外に広がる鉱山を見つめた。

あそこには、数百人の荒くれ者たちが働いている。
日々の労働で鍛え上げられた、嘘偽りのない本物の筋肉たちが。

「待っていなさい、原石たち。あなたたちの筋肉を輝かせるステージ(カフェ)を、私が作ってあげるから!」

私は部屋を飛び出した。
手には、事業計画書と、夢への片道切符を握りしめて。

「お父様! 北側の廃倉庫、一ついただきますわよ!」

廊下に私の声が響き渡る。
悪役令嬢マーヤ・ベルンシュタインの第二の人生が、いま力強く動き出した。
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