婚約破棄? 承知しました。では、こちらにサインをお願いします。

猫宮かろん

文字の大きさ
2 / 28

2

しおりを挟む
「――お待ちください、マーヤ嬢! このまま帰られては困ります!」

大広間を出て、夜風を感じながら意気揚々と馬車へ向かおうとした私の背中に、悲鳴のような声が投げかけられた。

振り返ると、王家の紋章が入った重厚な礼服を着た初老の男性が、息を切らして走ってくるのが見えた。
王室の財務を取り仕切る侍従長、セバスチャンだ。

「あら、セバスチャン様。私、もう『ベルンシュタイン侯爵令嬢』ではありませんのよ? 先ほど、殿下から直々にクビを宣告されましたので」

「そ、そうですが……! 婚約破棄の手続きというものがございます! 書類への署名や、今後の話し合いを……」

セバスチャンは額の汗を拭いながら、必死に私を引き留める。
その顔色は悪い。
無理もないだろう。
次期国王が公衆の面前で、有力貴族であるベルンシュタイン家との婚約を一方的に破棄したのだ。
事後処理を任された彼の胃袋は、今ごろキリキリと悲鳴を上げているに違いない。

(かわいそうに。ストレスで痩せ細って……もっとプロテインを摂りなさい)

私は内心で同情しつつ、口元に優雅な(と自分では思っている)笑みを浮かべた。

「わかりましたわ。では、手短にお願いします。私、これから新しい人生(カフェ経営)に向けて忙しくなりますので」

「あ、ありがとうございます……! こちらへ」

案内されたのは、大広間の近くにある応接室だった。
ふかふかのソファに腰を下ろすと、セバスチャンが震える手で羊皮紙を広げる。

「ええと……まずは婚約解消の合意書です。こちらにサインを……」

「ええ、構いませんわ」

私は羽ペンを取り、さらさらとサインをした。
未練など微塵もない。
むしろ、筆圧が強すぎてペン先が潰れなかったことを褒めてほしいくらいだ。

「それで? これで終わりかしら?」

「は、はい。基本的には……あとは、その……慰謝料についてですが」

セバスチャンが言い淀む。
通常、王家側からの不当な婚約破棄であれば、莫大な慰謝料が発生する。
しかし、ジュリアン殿下は「マーヤのいじめ」を理由に破棄を宣言した。
これを理由に、慰謝料を支払わない、あるいは減額しようとする魂胆が見え隠れする。

「殿下は『有責はマーヤ嬢にあるため、慰謝料は支払わない』と仰っておりますが……」

「あら、そうですの」

私は予測済みとばかりに頷き、懐から愛用の魔道具を取り出した。
手のひらサイズの長方形の板。
表面には数字のボタンが並んでいる。
最新式の『魔導計算機』だ。

「では、計算させていただきますね」

「は? けい、さん……?」

「ええ。私が殿下のために費やした時間と経費、そして精神的苦痛の清算です」

カタカタカタッ!

静かな室内に、小気味よい打鍵音が響き渡る。
私の指先は残像が見えるほどの速度でボタンを叩いていた。
前世の記憶はないが、なぜかこの配置(テンキー)を見ると指が勝手に動くのだ。

「まず、婚約期間は3年と4ヶ月。日数にして約1200日です。この間、私が受けた『妃教育』の授業料、および教師への謝礼金。これは王家持ちのはずですが、一部実家が立て替えておりましたので請求します」

「そ、それは……確認が必要ですが……」

「領収書は全て控えてあります。次に、殿下の視察に同行した際の衣装代。王族の隣に立つために新調したドレスは、他で着回しがききません。全額請求します」

カタカタッ、ターン!

「さらに、殿下の公務の代行費用。殿下が『頭が痛い』『風邪気味だ』とサボられた際、私が代わりに決裁した書類の処理費用です。時給換算で……王太子の公務ですから、高めに設定させていただきますね」

「ちょ、ちょっと待ってください! そんな細かいことまで!?」

セバスチャンが目を白黒させる。
だが、私の指は止まらない。
止まるわけがない。
これは、私の「マッチョカフェ」の開店資金がかかっているのだ。

「そして何より重要なのが、『精神的苦痛』に対する慰謝料です」

「く、苦痛……? 殿下はあのように麗しいお方ですが……」

「ええ、見た目は麗しいでしょうね。ですが!」

私は計算機をテーブルにダンッ! と叩きつけた。
セバスチャンが「ひぃっ」と小さく悲鳴を上げる。

「想像してください、セバスチャン様。私の好みのタイプは『岩をも砕く剛腕』と『彫刻のような大胸筋』を持つ殿方です。それなのに、あのような……風が吹けば折れそうな、白くて細い『もやし』のような殿下の隣で、3年間も猫を被り続けなければならなかった私の苦しみを!」

「も、もやし……!? 一国の王太子殿下を捕まえて、もやし!?」

「ええ、もやしです。茹ですぎたもやしですわ! エスコートのたびに『腕が折れないかしら』とヒヤヒヤし、ダンスのたびに『私がリードしたほうが早いのでは?』と葛藤する日々……。これは、拷問以外のなにものでもありません!」

私は熱弁を振るった。
あの貧弱な腕を見るたびに蓄積されたストレス。
筋肉不足による目の乾き。
それら全てを、金額に換算してやるのだ。

「というわけで、合計金額はこちらになります」

私は計算機の液晶画面をセバスチャンに見せつけた。
そこに表示された桁数を見て、侍従長の目玉が飛び出しそうになる。

「なっ……!? こ、国家予算並みではありませんか!」

「あら、妥当な金額ですわ。これでも『手切れ金』として少し負けて差し上げたんですのよ?」

「こ、こんな金額、私の独断ではとても……!」

「払えない、とは言わせませんわ」

私はすっと目を細めた。
悪役令嬢として培った(?)威圧感を全開にする。

「もしお支払いいただけない場合……殿下が公務をサボってリリナ嬢と裏庭で『いちゃいちゃ』していた際の日時と会話内容を記した『観察日記』を、国王陛下に提出することになりますが?」

「……!!」

セバスチャンの顔から血の気が引いた。
もちろん、そんな日記は存在しない。
だが、私が殿下の行動を把握していたのは事実だ(サボりの尻拭いをさせられていたから)。
ハッタリだが、効果は絶大だった。

「わ、わかりました……! 王家の『特別会計』から支出いたします……! ですから、その日記だけは……!」

「話が早くて助かりますわ。では、支払いは即金で。小切手でも構いませんが、ベルンシュタイン家御用達の『鉄の銀行』で即座に換金できるものに限ります」

「は、はいぃぃ……」

がっくりと項垂れるセバスチャン。
数分後。
私は震える手で書かれた高額小切手をしっかりと懐に収めた。

(やった……! これで最高級のエスプレッソマシンと、業務用の製氷機が買えるわ! あと、店舗の内装もこだわり抜ける!)

頭の中で、筋肉質な店員たちが働くカフェの図面が具体化していく。
壁にはポージング用の鏡を貼り、床はダンベルを落としても大丈夫なように補強して……。
夢は膨らむばかりだ。

「それではセバスチャン様、ごきげんよう。殿下にもよろしくお伝えください。『しっかり食べて運動してくださいね』と」

私は意気揚々と席を立った。
もはやこの城に用はない。

応接室を出て、私は再び廊下を歩き出す。
窓の外には、丸い月が輝いていた。

「待っててね、お父様。可愛い娘が、大量の資金を持って帰るわよ」

屋敷に待たせている馬車まで、私はスキップでもしそうな足取りで向かった。
今度こそ、本当に自由だ。
私の「筋肉(マッスル)ロード」は、ここから始まるのだ。

しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

側妃の条件は「子を産んだら離縁」でしたが、孤独な陛下を癒したら、執着されて離してくれません!

花瀬ゆらぎ
恋愛
「おまえには、国王陛下の側妃になってもらう」 婚約者と親友に裏切られ、傷心の伯爵令嬢イリア。 追い打ちをかけるように父から命じられたのは、若き国王フェイランの側妃になることだった。 しかし、王宮で待っていたのは、「世継ぎを産んだら離縁」という非情な条件。 夫となったフェイランは冷たく、侍女からは蔑まれ、王妃からは「用が済んだら去れ」と突き放される。 けれど、イリアは知ってしまう。 彼が兄の死と誤解に苦しみ、誰よりも孤独の中にいることを──。 「私は、陛下の幸せを願っております。だから……離縁してください」 フェイランを想い、身を引こうとしたイリア。 しかし、無関心だったはずの陛下が、イリアを強く抱きしめて……!? 「離縁する気か?  許さない。私の心を乱しておいて、逃げられると思うな」 凍てついた王の心を溶かしたのは、売られた側妃の純真な愛。 孤独な陛下に執着され、正妃へと昇り詰める逆転ラブロマンス! ※ 以下のタイトルにて、ベリーズカフェでも公開中。 【側妃の条件は「子を産んだら離縁」でしたが、陛下は私を離してくれません】

愛する貴方の心から消えた私は…

矢野りと
恋愛
愛する夫が事故に巻き込まれ隣国で行方不明となったのは一年以上前のこと。 周りが諦めの言葉を口にしても、私は決して諦めなかった。  …彼は絶対に生きている。 そう信じて待ち続けていると、願いが天に通じたのか奇跡的に彼は戻って来た。 だが彼は妻である私のことを忘れてしまっていた。 「すまない、君を愛せない」 そう言った彼の目からは私に対する愛情はなくなっていて…。 *設定はゆるいです。

婚約破棄された悪役令嬢の心の声が面白かったので求婚してみた

夕景あき
恋愛
人の心の声が聞こえるカイルは、孤独の闇に閉じこもっていた。唯一の救いは、心の声まで真摯で温かい異母兄、第一王子の存在だけだった。 そんなカイルが、外交(婚約者探し)という名目で三国交流会へ向かうと、目の前で隣国の第二王子による公開婚約破棄が発生する。 婚約破棄された令嬢グレースは、表情一つ変えない高潔な令嬢。しかし、カイルがその心の声を聞き取ると、思いも寄らない内容が聞こえてきたのだった。

愛された側妃と、愛されなかった正妃

編端みどり
恋愛
隣国から嫁いだ正妃は、夫に全く相手にされない。 夫が愛しているのは、美人で妖艶な側妃だけ。 連れて来た使用人はいつの間にか入れ替えられ、味方がいなくなり、全てを諦めていた正妃は、ある日側妃に子が産まれたと知った。自分の子として育てろと無茶振りをした国王と違い、産まれたばかりの赤ん坊は可愛らしかった。 正妃は、子育てを通じて強く逞しくなり、夫を切り捨てると決めた。 ※カクヨムさんにも掲載中 ※ 『※』があるところは、血の流れるシーンがあります ※センシティブな表現があります。血縁を重視している世界観のためです。このような考え方を肯定するものではありません。不快な表現があればご指摘下さい。

完結 愚王の側妃として嫁ぐはずの姉が逃げました

らむ
恋愛
とある国に食欲に色欲に娯楽に遊び呆け果てには金にもがめついと噂の、見た目も醜い王がいる。 そんな愚王の側妃として嫁ぐのは姉のはずだったのに、失踪したために代わりに嫁ぐことになった妹の私。 しかしいざ対面してみると、なんだか噂とは違うような… 完結決定済み

次期国王様の寵愛を受けるいじめられっこの私と没落していくいじめっこの貴族令嬢

さら
恋愛
 名門公爵家の娘・レティシアは、幼い頃から“地味で鈍くさい”と同級生たちに嘲られ、社交界では笑い者にされてきた。中でも、侯爵令嬢セリーヌによる陰湿ないじめは日常茶飯事。誰も彼女を助けず、婚約の話も破談となり、レティシアは「無能な令嬢」として居場所を失っていく。  しかし、そんな彼女に運命の転機が訪れた。  王立学園での舞踏会の夜、次期国王アレクシス殿下が突然、レティシアの手を取り――「君が、私の隣にふさわしい」と告げたのだ。  戸惑う彼女をよそに、殿下は一途な想いを示し続け、やがてレティシアは“王妃教育”を受けながら、自らの力で未来を切り開いていく。いじめられっこだった少女は、人々の声に耳を傾け、改革を導く“知恵ある王妃”へと成長していくのだった。  一方、他人を見下し続けてきたセリーヌは、過去の行いが明るみに出て家の地位を失い、婚約者にも見放されて没落していく――。

最愛の番に殺された獣王妃

望月 或
恋愛
目の前には、最愛の人の憎しみと怒りに満ちた黄金色の瞳。 彼のすぐ後ろには、私の姿をした聖女が怯えた表情で口元に両手を当てこちらを見ている。 手で隠しているけれど、その唇が堪え切れず嘲笑っている事を私は知っている。 聖女の姿となった私の左胸を貫いた彼の愛剣が、ゆっくりと引き抜かれる。 哀しみと失意と諦めの中、私の身体は床に崩れ落ちて―― 突然彼から放たれた、狂気と絶望が入り混じった慟哭を聞きながら、私の思考は止まり、意識は閉ざされ永遠の眠りについた――はずだったのだけれど……? 「憐れなアンタに“選択”を与える。このままあの世に逝くか、別の“誰か”になって新たな人生を歩むか」 謎の人物の言葉に、私が選択したのは――

私が王子との結婚式の日に、妹に毒を盛られ、公衆の面前で辱められた。でも今、私は時を戻し、運命を変えに来た。

MayonakaTsuki
恋愛
王子との結婚式の日、私は最も信頼していた人物――自分の妹――に裏切られた。毒を盛られ、公開の場で辱められ、未来の王に拒絶され、私の人生は血と侮辱の中でそこで終わったかのように思えた。しかし、死が私を迎えたとき、不可能なことが起きた――私は同じ回廊で、祭壇の前で目を覚まし、あらゆる涙、嘘、そして一撃の記憶をそのまま覚えていた。今、二度目のチャンスを得た私は、ただ一つの使命を持つ――真実を突き止め、奪われたものを取り戻し、私を破滅させた者たちにその代償を払わせる。もはや、何も以前のままではない。何も許されない。

処理中です...