婚約破棄? 承知しました。では、こちらにサインをお願いします。

猫宮かろん

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「――おーっほほほ! ここが噂の、マーヤ様の掃き溜めですのね!」

青空に不釣り合いな高笑いが、鉱山街に響き渡った。

『喫茶・マッスル』の入り口に立っていたのは、ピンク色のフリルをこれでもかと重ねたドレスを身に纏い、日傘を優雅に差した少女――リリナ・マルス男爵令嬢である。

彼女の後ろには、王都から連れてきたと思われる数人の騎士が控えていたが、どいつもこいつも線が細く、この街の空気には全く馴染んでいない。

「あら、リリナ様。わざわざ王都から砂埃を吸いにいらしたの?」

私はカウンター越しに、氷を入れた冷たいプロテインを飲みながら応対した。

「見てのとおり、ここは『掃き溜め』ではなく『聖域(ジム)』ですわ。ドレスの裾が汚れる前に、お帰りになったほうがよろしいのでは?」

「ふんっ! 相変わらず生意気な口を……。ジュリアン殿下がお困りなのよ。マーヤ様が余計な嫌がらせをして書類を溜めるから、リリナとのデートの時間が減ってしまったんですもの!」

リリナはぷうっと頬を膨らませ、上目遣いで周囲を見た。
彼女の計算では、これで周囲の男たちが「なんて可愛いんだ」と鼻の下を伸ばすはずなのだが。

「……おい、あのお嬢ちゃん。何言ってんだ?」

「さあな。デートの邪魔がどうとか……そんなことより、背筋を鍛えたほうがいいんじゃねぇか? 日傘を持つ手が震えてるぞ」

客席の鉱夫たちは、リリナの媚びた態度に一切動じない。
彼らにとって、細いだけの女は「健康状態が心配な個体」でしかないのだ。

「な、なによ貴様ら! このリリナの可愛さが分からないの!? これでも王都では『守ってあげたい令嬢ナンバーワン』に選ばれたんですからね!」

リリナが日傘を振り回して憤慨する。
私は溜息をつき、カウンターから出て彼女の前に立った。

「リリナ様。その『ナンバーワン』とやらは、この店では通用しませんわ。ここでは、どれだけ重いものを持ち上げられるか、どれだけ長くスクワットを続けられるか。それが全てですの」

「なんですって……? そんなの野蛮ですわ! 女は守られるものでしょう!?」

「いいえ。女も、守るための筋肉が必要なのです」

私は一歩、リリナに詰め寄った。
悪役令嬢としての威圧感に、日々のトレーニングで培った体幹の安定感が加わり、リリナは思わず後ずさる。

「リリナ様、見て差し上げて。あちらのテーブルでお肉を召し上がっているご婦人を」

私が指差したのは、近所の農家に嫁いだ肝っ玉母さんだ。
彼女は今、片手で三キロの骨付き肉を掴み、豪快に齧り付いている。

「彼女のあの太い腕こそが、家族を守り、大地を耕す力。あなたのその、今にも折れそうな枝のような腕で、何が守れるというのかしら?」

「ひっ……! き、汚らわしいわ! リリナはそんな、獣みたいな体になりたくありませんもの!」

「汚らわしい? 今、この街を支える人々を侮辱しましたわね?」

店内の温度が、スッと下がった。
店員のマッチョたちが、静かにリリナを囲む。
オイルで輝く大胸筋が、彼女の目の前でピクピクと威嚇するように動く。

「ひぃっ、な、なによこの裸の男たちは!? 騎士さん、助けて!」

リリナが後ろの騎士たちに助けを求めるが、彼らもまた、鉱山夫たちの圧倒的な体格差に気圧されて動けない。

「リリナ様。一つ、良いことを教えて差し上げますわ」

私は彼女の耳元で囁いた。

「ジュリアン殿下がなぜ、私に帰ってきてほしいと言っているか、分かります? それはあなたが、ただ可愛いだけで『無能』だからですわ。愛だけでは、国の予算は組めませんものね」

「うぐっ……! そ、それは……!」

図星だったのか、リリナの顔が般若のように歪んだ。

「おだまりなさい! こんなむさ苦しい店、今すぐ壊してやるんだから! 騎士さん、やってしまいなさい!」

「し、しかしリリナ様、相手はただの市民ですし……」

「いいからやりなさい! これは王太子の名代としての命令よ!」

騎士たちが渋々剣を抜こうとした、その時。

カランコロン♪

「……騒々しいな」

入り口から、冷徹な声が響いた。
重厚な足音と共に現れたのは、誰あろうクロード公爵である。
彼はリリナの騎士たちが抜こうとしていた剣の柄を、無造作に上から押さえつけた。

「なっ……公爵閣下!?」

騎士たちが凍りつく。

「わ、わたくしはリリナ・マルスですわ! 殿下の愛を一身に受ける――」

「知らん。……退け。私のプロテインの時間が遅れる」

クロード公爵はリリナを一瞥もせず、まるで邪魔な石ころをどけるように、その肩を指先で軽く押した。
それだけで、リリナは「あうっ!」と声を上げて尻餅をついた。

「マーヤ。いつものやつを」

「はい、ただいま! ……あ、リリナ様。床を磨いたばかりですので、ドレスが汚れてしまいますわよ?」

私は転んだまま震えているリリナに、最高に嫌味な笑顔を向けた。

「お帰りはこちらですわ。次にいらっしゃる時は、せめて腹筋を十回できるようになってからにしてくださいね。……ガンツ、お客様をお出口までエスコートして差し上げて」

「がってんだ!」

ガンツがリリナを軽々と(米俵のように)肩に担ぎ上げた。

「いやぁぁぁ! 降ろして! この筋肉ダルマぁぁぁ!!」

リリナの悲鳴が遠ざかっていく。
彼女を連れてきた騎士たちも、逃げるように店を後にした。

「ふぅ……。お騒がせしました、クロード様」

「……気にするな。不純物が混ざっただけだ」

クロード様はいつものカウンター席に座り、出されたミルクを一口飲んで、ようやく表情を和らげた。

「……リリナと言ったか。あのような貧弱な女が、王妃を狙うとは。正気の沙汰ではないな」

「あら、意外と厳しいんですのね」

「当然だ。王妃とは、国という重荷を背負う者。……彼女の脊柱起立筋では、数分も持たんだろう」

「ふふっ、公爵様らしい評価基準ですわ」

私は可笑しくて堪らなくなり、声を上げて笑った。

王都の「ヒロイン」を、筋肉の理論で一蹴する。
これほど爽快なことはない。

(さあ、これで王都側も少しは大人しくなるかしら?)

だが、私はまだ気づいていなかった。
リリナを追い返したことで、ジュリアンのプライドが完全に粉砕され、彼がさらなる暴挙――軍隊の派遣という最悪のカード――を切ろうとしていることに。

そして、クロード公爵が私の店に通い詰める真の理由が、単なる「ミルク」だけではなくなっていることにも……。
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