婚約破棄? 承知しました。では、こちらにサインをお願いします。

猫宮かろん

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「はぁ……今日も素敵だわ、クロード様」

私はカウンターに頬杖をつき、目の前で静かにミルクを飲んでいるクロード公爵を見つめていた。

今日の彼は、軽装の騎士服姿だ。
生地が薄い分、胸板の厚みや腕のラインがダイレクトに伝わってくる。
特に、グラスを持つたびに浮き上がる前腕の伸筋群(しんきんぐん)の動きは、まるで生き物のようで飽きることがない。

「……マーヤ。見すぎだ」

「あら、減るものではありませんし。むしろ私の視線という熱量で、さらに筋肉がパンプアップするかもしれませんわよ?」

「……意味が分からん」

クロード様は呆れつつも、拒絶はしない。
この奇妙な関係もすっかり板についてきた。

しかし。
店内の空気は、どこか不穏だった。

カチャ……カチャ……。

背後のキッチンや、ホールの方から、殺気にも似た重苦しいプレッシャーが漂ってくるのだ。

「おい、見たかよ……」

「ああ、見てらんねぇな……」

「お嬢のあの目……俺たちには向けられたことがねぇ……」

ヒソヒソと交わされる野太い声。
私はハッとして振り返った。
そこには、ガンツをはじめとする店員(マッチョ)たちが、どんよりとしたオーラを纏って並んでいた。

「あら、みんな。どうしたの? プロテインが切れた?」

私が尋ねると、ガンツが一歩前に出た。
彼は涙目で、悲痛な叫びを上げた。

「お嬢! 俺たちはもう我慢できねぇ!」

「は?」

「最近のお嬢は、その公爵様ばっかりじゃねぇか! 『素敵』だの『最高』だの! 俺たちの筋肉には『もっと磨きなさい』とかダメ出しばっかりで!」

「えっ、嫉妬?」

「そうだ嫉妬だ! ジェラシー・マッスルだ!」

ガンツが自身の厚い胸板をドンッ! と叩いた。

「俺たちだって鍛えてる! 毎日スクワット千回やってる! なのに、なんでぽっと出の公爵様ばかりチヤホヤされるんだ!」

「そりゃあ、あなたたちの筋肉は『労役筋』で、クロード様のは『戦闘筋』という種類の違いが……」

「関係ねぇ! 男なら筋肉で語り合うしかねぇだろ!」

ガンツはバッとクロード様の方を向き、ビシッと指を突きつけた。

「おい、そこの公爵様! いや、『氷の処刑人』!」

店内が静まり返る。
クロード様がゆっくりとグラスを置き、ガンツを見た。
その瞳は冷ややかだ。

「……私になにか用か?」

「勝負だ! アンタが本当にお嬢の『お気に入り』に相応しい筋肉を持ってるか、俺たちが確かめてやる!」

「勝負……?」

「そうだ! この店で開催される神聖なる儀式……『マッスル・コンテスト』でな!」

ガンツが上半身の服を勢いよく引き裂いた(あ、それ制服なのに)。
ブチブチッ!
現れたのは、岩のような筋肉塊。
それに呼応するように、他の店員たちも次々と服を脱ぎ捨てる。

「うおおおおっ!」

「俺の大胸筋を見ろぉぉ!」

一瞬にして店内が裸祭り会場と化した。
客の女性たちが「きゃあ!」と悲鳴を上げつつ、指の隙間からしっかり見ている。

私は頭を抱えた。
なんてことだ。
神聖なカフェが、ボディビル大会になってしまった。

「……くだらん」

クロード様は冷たく言い放ち、席を立とうとした。

「私は帰る。そのような遊びに付き合っている暇は……」

「逃げるのか!」

ガンツが叫ぶ。

「公爵様ともあろうお方が、平民の挑戦から逃げるのかよ! やっぱりアンタの筋肉は見かけ倒しなんじゃねぇのか!?」

ピクリ。
クロード様の足が止まった。

「……見かけ倒し、だと?」

「ああそうだ! 地位や名誉は立派かもしれねぇが、筋肉はどうかな? 鎧の下はプヨプヨなんじゃねぇの~?」

ガンツの安い挑発。
だが、プライドの高い騎士団長、そして隠れ筋肉自慢の彼には効果てきめんだったようだ。

ゴゴゴゴゴ……。
クロード様の周囲の空間が歪むほどの闘気が立ち昇る。

「……面白い」

彼はゆっくりと振り返った。
その顔には、魔獣を屠る時のような獰猛な笑みが浮かんでいる。

「誰の体がプヨプヨだと? その言葉、後悔させてやる」

「クロード様、まさか……!?」

「マーヤ。場所を空けろ。……少し『教育』が必要なようだ」

彼は静かに上着のボタンに手をかけた。

「キャーーーーーーッ!!!」

店内の女性客(と私)から黄色い悲鳴が上がる。
ついに、ついにこの時が来た。
彼が公衆の面前で、そのベール(服)を脱ぐ時が!

「ルールはどうする?」

クロード様が上着を脱ぎ捨て、さらにシャツのボタンを外していく。

「シンプルだ! お嬢が『判定員』となり、より美しい筋肉(ポーズ)を決めた方が勝ち! 三本勝負だ!」

「いいだろう」

バサッ!
シャツが床に落ちた。

「っ……!!」

全員が息を呑んだ。
露わになったその肉体。

(なんという……!!)

私は思わず鼻血が出そうになり、ハンカチで鼻を押さえた。

ガンツたちの筋肉が「丸太」や「岩」だとすれば、クロード様の筋肉は「鋼の彫刻」だった。
無駄な脂肪は極限まで削ぎ落とされ、皮膚の下で強靭な筋繊維が束になっているのがはっきりと分かる。
体中に刻まれた無数の古傷が、彼の戦歴を物語り、それがまたワイルドな色気を醸し出していた。

「す、すげぇ……」

挑発したはずのガンツたちですら、圧倒されて口を開けている。

「さあ、始めようか。いつでもいいぞ」

クロード様が余裕の表情で構えた。

「くっ……! ビビるな野郎ども! 数ならこっちが上だ! 行くぞぉぉ!!」

第1ラウンド開始のゴング(フライパンの音)が鳴り響いた。

「まずは『サイドチェスト』!!」

ガンツたちが横を向き、胸の前で手を組んで力こぶと胸板を強調する。
「んんんっ!!」
血管が切れそうなほどの力み。
迫力はある。確かにすごい。

だが。

「……ふんっ」

クロード様が、静かに、しかし力強く同じポーズを取った。
瞬間。
バチチッ!
空気が弾けたような錯覚。

彼の胸板は、ただ分厚いだけではない。
大胸筋の上部、中部、下部が完璧に分離し、まるで生きた鎧のように盛り上がっている。
そして上腕の血管が、稲妻のように走る!

「なっ……!?」

「デ、デカさが違うわけじゃねぇのに、密度が段違いだ!」

「キレてる! 公爵様の筋肉、めっちゃキレてるよぉぉ!!」

客席から謎の歓声(主に男客)が飛ぶ。
私は判定員として叫んだ。

「勝者、クロード様! あの大胸筋のストリエーション(筋繊維の縞模様)は芸術点が高すぎます!!」

「ぐぬぬっ……!」

ガンツたちが膝をつく。

「次は『バックダブルバイセップス(背中のポーズ)』だ!」

男たちが後ろを向き、両腕を上げて背中の筋肉を見せつける。
「鬼の顔を出せぇ!」
広背筋を広げ、背中で語る男たち。

しかし、クロード様が背中を見せた瞬間、勝負は決した。

「……これが、国を背負う背中だ」

グググッ……!
彼の背中には、本当に「鬼」が棲んでいた。
僧帽筋から広背筋にかけての凹凸が、恐ろしいほどの立体感を描き出し、見る者を畏怖させる。
それはもはや筋肉ではなく、山脈の地形図を見ているようだ。

「うおおおっ! 拝みてぇ! あの背中を拝みてぇ!」

店員の一人が思わず拝み始めた。
もはや勝負になっていない。

「勝者、クロード様! 文句なし! 国宝に認定します!」

私が高らかに宣言すると、ガンツはその場に崩れ落ちた。

「ま、負けた……。俺たちの筋肉じゃ、公爵様には勝てねぇ……」

「わかったか」

クロード様は汗ひとつかかず、涼しい顔で振り返った。

「筋肉とは、ただ太くすればいいものではない。いかに使える筋肉にするか、いかに美しく仕上げるか。その『意識』の差が、この結果だ」

「公爵様……」

ガンツが涙を流しながら顔を上げた。

「あんた、すげぇよ……。俺たちが間違ってた。あんたこそ、真の『マッスル・マスター』だ!」

「……マスターはやめろ」

「兄貴! いや、師匠と呼ばせてくれ! 俺たちに、その筋肉の作り方を教えてくれぇぇ!」

「「「師匠ぉぉぉ!!!」」」

数秒前まで敵対していたマッチョたちが、一斉にクロード様に土下座して教えを乞うている。
なんという暑苦しい光景だろう。
そして、なんという美しい師弟愛(?)だろう。

クロード様は困ったように眉を寄せたが、彼らの熱意に折れたのか、小さくため息をついた。

「……非番の日なら、少しは稽古をつけてやらんでもない」

「やったぁぁぁ!!」

店内が歓喜の渦に包まれる。
私はその様子を見ながら、鼻に詰めたティッシュ(興奮しすぎて本当に出血した)を押さえ、満足げに頷いた。

「素晴らしいわ。これで店員たちの筋肉レベルも底上げされるし、クロード様も店に来る理由が増える。まさに一石二鳥ね!」

こうして、私の店には「クロード公爵による筋肉教室」という新たなメニューが(勝手に)加わることになった。

平和だ。
筋肉は全てを解決する。

……そう信じていた私が、甘かったのかもしれない。
この馬鹿騒ぎの裏で、王都から派遣された「軍隊」が、すぐそこまで迫っているとも知らずに。

「マーヤお嬢様! 大変です!」

興奮冷めやらぬ店内へ、見張り番の少年が飛び込んできた。

「こ、今度はマジでやばいです! 王家の旗を掲げた正規軍が、数百人規模で街道を塞いでいます!」

「……なんですって?」

私の笑顔が凍りついた。
数百人?
たかがカフェの店主一人を連れ戻すのに、戦争でも始める気?

「……ジュリアン。あのもやし王子、どこまで馬鹿なのかしら」

私は沸き上がる怒りで、手に持っていた空のグラスをパリンと握りつぶした。
静まり返る店内。
クロード様が、床に落ちていたシャツを拾い、バサリと羽織った。

「……どうやら、私の筋肉(ちから)が必要なようだな」

彼は背中の大剣を手に取り、私を見た。

「行くぞ、マーヤ。私の『師匠』としての初仕事だ。……弟子たちの店を、荒らさせるわけにはいかん」

「クロード様……!」

「うおおおっ! 師匠についていくぜぇぇ!」

マッチョたちもツルハシやフライパンを構えて立ち上がる。
最強の騎士団長と、最恐の筋肉集団。
受けて立とうじゃないの。

「総員、戦闘準備! 私の大切な店(筋肉の楽園)を守るために、害虫駆除といきましょうか!」

最終決戦の幕が、今上がろうとしていた。
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