婚約破棄? 承知しました。では、こちらにサインをお願いします。

猫宮かろん

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「――刮目せよ! これが、国家を守護する筋肉(ちから)だ!!」

バリバリッ!!

乾いた布の裂ける音が、オーケストラの演奏のように会場に響き渡った。
クロード公爵がシャツを引き裂き、その上半身を露わにする。

「きゃあああああっ!!」
「おおおおおおっ!!」

悲鳴と歓声が入り混じるカオスな空間。
シャンデリアの光を浴びて輝くのは、オイルを塗ったかのように艶やかな(実際、出発前に私が塗っておいた)大胸筋、腹直筋、外腹斜筋の完璧なカットだ。

「サ、サイドチェストぉぉッ!!」

クロード様が叫び、横を向いてポーズを決める。
ギュルルッ!
上腕二頭筋がボールのように盛り上がり、血管が浮き出る。

「な、なんだこれは……! 美しい……!」
「彫刻だ……いや、彫刻を超えた生命の輝きだ!」

隣国の使節団までもが、グラスを落として見入っている。
芸術に国境はない。
そして筋肉にも国境はないのだ。

「ま、待て! やめろ! 僕の夜会を汚すな!」

ジュリアン殿下が顔を真っ赤にして叫ぶが、その声は熱狂の渦にかき消されて届かない。
誰も彼など見ていない。
ステージの主役は、完全にクロード様だった。

「ふふっ……計算通りね」

私は扇を開き、優雅に立ち上がった。
視線が集まっている今こそ、真実を語る絶好のチャンス。

「皆様。素晴らしい筋肉でしょう? ですが、筋肉だけではありませんわ」

私はよく通る声で語りかけた。

「この強靭な肉体は、日々の過酷な鍛錬と、厳格な自己管理の賜物。……では、こちらの殿下はどうでしょう?」

私は呆然としているジュリアンを扇で指した。

「国政を停滞させ、重要な外交文書を放置し、あまつさえ自分の不始末を元婚約者に押し付けようとする。……その精神(メンタル)のたるみ具合、まさに贅肉そのものですわ」

「き、貴様ぁ! あることないこと言うな! 僕は毎日忙しく公務を……」

「あら、そうですの?」

私は懐から、一冊の帳簿を取り出した。

「これは王宮の『入退室記録』の写しです。ここ一ヶ月、殿下が執務室にいた時間は、一日平均わずか二時間。残りは全て、リリナ様との『お茶会』や『庭園散策』に費やされていますわね」

「なっ……!?」

「さらに、こちらが未処理の決裁書類リスト。……外交、治水工事、予算案。すべて期限切れです。特に治水工事の遅れは、来月の梅雨に致命的な被害をもたらす可能性がありますわ」

私は事実を淡々と読み上げた。
周囲の貴族たちの目が、熱狂から冷ややかな軽蔑へと変わっていく。

「そ、それは……マーヤが! 君が急にいなくなったから!」

ジュリアンが苦し紛れに叫ぶ。

「君がやってくれていたじゃないか! 黙って去るなんて無責任だぞ!」

「無責任? 婚約破棄を言い渡したのは殿下ですわよ?」

私は呆れて首を振った。

「それに、私は『補佐』をしていただけです。最終的な決裁と責任は、次期国王である殿下にあるはず。……それを他人に丸投げし、出来なければ逆ギレ。それを無能と言わずして何と言いますの?」

「うぐっ……!」

ぐうの音も出ない正論に、ジュリアンが口をパクパクさせる。
すると、隣にいたリリナが金切り声を上げた。

「ひどいですわ! ジュリアン様をいじめないで! ジュリアン様は繊細なんです! 書類仕事なんて地味なこと、王族がやる必要ありませんわ!」

「……は?」

会場が静まり返った。
リリナは自分が何を言ったのか分かっていないようで、得意げに胸を張った。

「王様はドーンと構えていればいいんです! 細かいことは下の者がやればいいのよ! そうでしょ?」

「……リリナ様」

私は哀れむような目で彼女を見た。

「王とは、誰よりも重い責任を背負う者。民の痛みを理解し、国の未来を設計する者です。……それを『地味』と切り捨てるその浅はかさ。貴女に王妃の資格など、筋肉の欠片ほどもありませんわ」

「な、なによ! 可愛ければいいじゃない! 国民だって、綺麗な王妃様の方がいいに決まってるわ!」

「見た目の美しさは衰えます。ですが、鍛え上げられた精神と知性は裏切りません。……筋肉と同じようにね」

私の言葉に、隣国の使節団長が深く頷いた。

「……ベルンシュタイン嬢の言う通りだ。一国の王妃に求められるのは、人形のような愛らしさではない。国を支える『芯の強さ』だ」

「そ、そんな……」

使節団長の言葉は決定的だった。
外交の要人がジュリアンとリリナに見切りをつけたのだ。

「殿下。貴方の国は、随分と不安定なようだな」

「い、いや、これは誤解で……!」

「誤解ではない!」

その時、威厳のある太い声が響いた。
壇上の奥から現れたのは、現国王陛下だった。

「ち、父上……!」

国王は鬼のような形相でジュリアンを睨みつけた。

「全て聞いていたぞ、ジュリアン。……情けない。ここまで腐っていたとはな」

「ち、違います! これはマーヤの罠で……!」

「黙れ! マーヤ嬢の提出した証拠、そしてクロードの報告。全て裏は取れている!」

国王は私の方に向き直り、深々と頭を下げた。

「マーヤ嬢。愚息が迷惑をかけた。……そして、我が国の危機を救ってくれたこと、感謝する」

「もったいないお言葉です、陛下」

私はドレスの裾をつまんでカーテシーをした。
クロード様も、ポージングをやめて(上着はないが)恭しく礼をする。

「ジュリアン。お前には王太子の資格はない。……廃嫡(はいちゃく)も含めて処分を検討する」

「は、廃嫡……!? 嘘だ、嘘だぁぁぁ!」

ジュリアンがその場に崩れ落ちる。
リリナも顔面蒼白で震えている。

「そ、そんな……王妃になれないの……? じゃあ、リリナのドレスは? 宝石は?」

「リリナ・マルス。貴様も同罪だ。男爵家への沙汰も覚悟しておけ」

国王の冷徹な宣告に、リリナは白目を剥いて気絶した。

「ざまぁみろ、ですわ」

私は小さく呟いた。
胸のつかえが取れたような、最高の爽快感。

だが、これで終わりではない。
私は倒れているジュリアンの前にしゃがみ込み、耳元で囁いた。

「安心して、殿下。……廃嫡されても、職は斡旋して差し上げますわ」

「え……?」

ジュリアンが涙目で顔を上げる。

「私の店で、皿洗いとして雇ってあげると言ったでしょう? ……安心なさい。一から鍛え直して、立派な『マッスル・マン』にして差し上げますから」

「い、いやだぁぁぁ! 筋肉なんていやだぁぁぁ!!」

王太子の情けない絶叫が、夜会のホールに木霊した。
その悲鳴すらも、今の私には勝利のファンファーレに聞こえる。

こうして、私の「復讐」と「筋肉布教」は、最高の形で幕を下ろした――かに思えた。
しかし、物語はまだ終わらない。
この騒動を通じて、私とクロード様の関係にも、いよいよ「決着」をつける時が近づいていたのだ。

(さて、クロード様。……あの告白の件、どう落とし前をつけてくださるのかしら?)

私はチラリと横目で、半裸のまま仁王立ちする最愛のパートナーを見つめた。
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