悪役令嬢は、婚約破棄に舞い踊る!

猫宮かろん

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「……ヴォルフさん」


「なんだ」


「これは、何かの嫌がらせですか?」


私は自室の真ん中に鎮座する、白い巨塔を見上げていた。


いや、塔ではない。


ベッドだ。


ただし、高さが私の腰ほどまであり、その上には雲のようにふわふわとした布団が、これでもかというほど積まれている。


「嫌がらせ? 心外だな。これは我が帝国の最高級品、『天使のまどろみ』という羽毛布団だ」


ヴォルフがドヤ顔で胸を張る。


「お前、最近クマができているだろう? 戦争の準備だなんだと根を詰めすぎだ。まずは睡眠環境から改善しろ」


「……だからといって、この量は異常です。埋もれて窒息死させる気ですか?」


「死なん。俺が毎晩、生存確認をしてやる」


「通報しますよ?」


私は呆れつつも、その白い雲に手を触れてみた。


ふわり。


指先が吸い込まれるような、驚異的な柔らかさ。


(……ッ!?)


私の「素材鑑定スキル」が反応した。


これはただの羽毛ではない。極寒の地で育った最高級の水鳥の、それも一羽から数グラムしか取れない希少部位のみを使用している。


「試してみろ」


ヴォルフに促され、私は恐る恐るベッドにダイブした。


ボフッ。


体が沈み込む。まるで無重力空間に浮いているようだ。


全身の筋肉の緊張が、瞬時に解けていくのが分かる。


「……なにこれ」


「どうだ?」


「……危険です。これは人間をダメにする装置です」


私は枕に顔を埋めたまま呻いた。


「一度入ったら二度と出られない……『コタツ』と同等の魔力を感じます」


「気に入ったようだな」


ヴォルフが満足げに笑い、私の頭を撫でた。


「これからは、好きなだけ寝ていいぞ。朝起きる必要もない。畑仕事も俺がやる。お前はこのフカフカの中で、ただ呼吸をしていればいい」


「……呼吸だけでいいのですか?」


「ああ。お前が息をしている、それだけでこの屋敷の空気清浄効果は抜群だ」


「私は観葉植物ですか」


ヴォルフの溺愛は、これだけでは終わらなかった。


パンパン、と彼が手を叩くと、セバスチャンがワゴンのようなものを押して入ってきた。


そこには、色とりどりのスイーツが山のように積まれている。


「帝都の有名パティシエを呼び寄せた。全部お前のものだ」


「……糖尿病になります」


「専属医も雇った。管理は完璧だ」


「そういう問題ではありません」


目の前には、宝石のようなタルト、濃厚なチョコレートケーキ、プルプルのプリン。


祖国では、ギルバート王子が「甘いものはミミが好きだから」と独占していたため、私の口に入ることは稀だった高級菓子たちだ。


「……食べていいのですか?」


「ああ。脳を使うには糖分が必要だろう? さあ、口を開けろ」


ヴォルフはフォークでケーキをひと掬いし、私の口元に差し出した。


いわゆる「あーん」である。


「……自分で食べます」


「俺の腕の筋肉を使わせてくれ。この角度で静止するのは、上腕筋のアイソメトリック・トレーニングになるんだ」


「トレーニングと言われれば断れませんね」


私はパクっと一口食べた。


濃厚な甘さと、甘酸っぱいベリーの香りが口いっぱいに広がる。


「……んんっ、美味しい」


「そうか。ならもっと食え」


ヴォルフは次々とケーキを私の口に運んでくる。


ベッドの上で、極上の布団に包まれ、イケメン(ただし筋肉バカ)にケーキを食べさせてもらう。


はっきり言って、堕落の極みだ。


悪役令嬢として、常に気を張り、分刻みのスケジュールで動いていた私が、こんな自堕落な生活をしていいのだろうか。


(……いいえ、待って)


私はモグモグと咀嚼しながら、冷静に分析した。


『良質な睡眠』=『脳のパフォーマンス向上』。


『適度な糖分』=『計算速度のアップ』。


『ストレスフリーな環境』=『寿命の延長』。


つまり、これは堕落ではない。


「……効率化だわ」


「ん?」


「ヴォルフさん、気づきました。この生活は、私のポテンシャルを最大限に引き出すための、極めて合理的な投資なのですね!」


「……ま、まあ、そういうことにしておこう」


ヴォルフが微妙な顔をしたが、私は確信した。


今まで「働くこと」こそが正義だと思っていた。


だが、「働かずに最高のコンディションを維持し、ここぞという時に出力する」。


これこそが、真のエグゼクティブではないか。


「素晴らしいです、ヴォルフさん。私、新たな才能に目覚めそうです」


「ほう、なんの才能だ?」


「『ヒモ』としての才能です」


「……お前、言葉の選び方が独特すぎるぞ」


ヴォルフは苦笑しつつ、私の頬についたクリームを親指で拭った。


その指を、彼が自分の口へ運ぶ。


ペロリ。


「……ッ!?」


私はボンッと音が出るほど顔を赤くした。


「な、な、何をして……!」


「ん? クリームがもったいないからな」


ヴォルフは何食わぬ顔だ。


「それにしても、お前が甘いものを食べている顔は、毒気が抜けていて可愛いな」


「……っ、うるさいです!」


私は布団を頭まで被って隠れた。


心臓の音がうるさい。


このベッドの吸音性が高いことを祈るばかりだ。


「照れるな照れるな。可愛いと言っただけだ」


ヴォルフが布団の上から抱きついてくる。重い。でも温かい。


「シューク。約束する」


布団越しに、彼の低い声が聞こえた。


「あの国でお前が味わった苦労の分だけ、いやその百倍、俺が甘やかしてやる。お前が『もう勘弁してくれ』と言うまで、徹底的に幸せにしてやるからな」


「……変な約束ですね」


「俺は皇帝だ。約束は絶対だ」


私は布団の中で、小さく微笑んだ。


かつて「氷の悪役令嬢」と呼ばれた女は、今、温かい羽毛と不器用な愛に包まれて、骨抜きにされようとしている。


(……悪くないわね、こういうのも)


私は目を閉じた。


明日には、祖国からの侵略軍がやってくるかもしれない。


でも、今はこの幸せな「充電時間」を享受しよう。


十分に休んで、英気を養って。


そして、万全の状態で、あのバカ王子たちを迎え撃つのだ。


「おやすみなさい、ヴォルフさん」


「ああ、いい夢を見ろよ。俺の夢とかな」


「それは悪夢ですね」


軽口を叩き合いながら、私は深い眠りへと落ちていった。


これまでで一番、深く、安らかな眠りへと。
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