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第三部混沌の足音(第7章:王都の陰謀)
しおりを挟む「世界の歪み」という、誰にも理解されない脅威の萌芽。その討伐という異質な戦果を手に、俺たちは王都アーガイルへと帰還した。
街路は、俺たちの名を呼ぶ民衆の歓声で埋め尽くされた。彼らは「神話の魔獣を討った英雄」と俺たちを称え、熱狂の渦は王宮にまで届いた。しかし、その熱とは裏腹に、王宮内に漂う空気はどこまでも冷たく、計算高いものだった。
魔王だった頃、俺はこの種の空気に飽き飽きしていた。人間の欲望、嫉妬、権力欲が渦巻く、粘ついた淀み。その中心にいる人物も、俺にはすぐに分かった。
宰相ダリウス。狐のように細い目をした、老獪な男だ。彼は国王の前で俺たちの功績を誰よりも高く称賛しながら、その瞳の奥では、俺という存在を天秤にかけ、利用価値と危険性を冷静に値踏みしていた。
特に、隣国の騎士団長であるガウェインが、俺に絶対の忠誠を誓っているという事実が、彼の猜疑心を煽っているようだった。勇者の影響力が一国の軍事にまで及ぶ。それは、彼のような権力者にとっては看過できない脅威なのだ。
数日後、宰相ダリウスの主催で、俺たちのための祝賀夜会が催されることになった。その招待状を受け取った瞬間、俺はこれから始まる戦いが、剣と魔法によるものではないことを正確に理解した。魔物との戦いよりも、はるかに厄介で、不快な戦いが。
壮麗なシャンデリアが輝く夜会の広間は、着飾った貴族たちの虚栄心で満ち満ちていた。
「これは見事な罠だな」
俺はグラスを傾けながら、独り言を放った。
ダリウスの狙いは、俺たち勇者パーティーを分断し、孤立させ、その上で俺を失脚させること。実に古典的で、それゆえに効果的な謀略だ。
案の定、ダリウス自らがガウェインに近づき、親しげに肩を叩いた。
「ガウェイン殿、あなたに是非お会いしたいという軍務卿がおられる。フォートレスとの新たな軍事同盟について、重要な話があるとか。さあ、こちらへ」
ガウェインは「勇者殿、申し訳ない」と俺に一礼し、ダリウスに連れられて人混みの中へと消えていった。まず、俺の最も忠実な「盾」が引き剥がされた。
次に、ダリウス派の魔術ギルド長官がエルザに接触する。
「エルザ嬢、君ほどの才能を、一介の勇者の護衛だけで終わらせるのは実に惜しい。王立魔術院の次期筆頭魔術師の座を考えているのだが、どうかな?」
甘い言葉と、破格の地位の提示。アレクへの不信感を募らせているエルザは、明らかに心が揺れていた。復讐という目的と、魔術師としての栄達。その天秤が、ぐらついている。
リリアナは、そのどちらでもなかった。聖女である彼女にとって、虚飾と欲望が渦巻くこの場所は牢獄も同然だった。好奇と嫉妬の視線を一身に浴び、誰に話しかけることもできず、壁際で小さくなっている。ダリウスは、彼女が精神的に消耗し、パーティーの癒やし手として機能しなくなることを狙っているのだ。
そして、俺自身への罠も、すぐにやってきた。
絹のドレスを纏った、魅惑的な女が、まるで計算されたかのように俺の腕にぶつかってきた。
「申し訳ありません、勇者様」
上目遣いに謝罪するその女の瞳には、安い芝居がかった媚態が浮かんでいる。他国の息がかかったスパイ。その懐には、おそらく記憶結晶(メモリークリスタル)か、あるいは毒針でも仕込んでいるのだろう。
俺は女が持つグラスを優雅に受け取ると、彼女の耳元で、囁くように言った。
「北の連邦の差し金か。ダリウス宰相は、お前のような美しい女を『毒』として使うのがお好きなようだ。だが、気をつけろ。毒蛇は、時に自らの毒で死ぬこともある」
女の顔から、一瞬で血の気が引いた。俺が彼女の正体を完全に見抜いていることに気づいたのだ。
「宰相にはこう伝えろ。『勇者は罠にかかった』と。そして、今後はお前の情報を俺に流せ。ただし、俺が許可した情報だけをな。さもなくば…」
俺はそれ以上何も言わなかった。ただ、魔王ゼノンとして魂に刻まれた覇気を、ごくわずかに彼女に向ける。女は小さく悲鳴を上げ、逃げるように去っていった。
次に、俺はエルザの元へ向かった。
「随分と楽しそうじゃないか、復讐者殿」
俺の皮肉な言葉に、エルザはハッとした顔でギルド長官から離れた。
「…あなたには関係ありませんわ」
「そうか? だが、お前の復讐は、そんな地位や名誉で満たされるほど、安っぽいものだったか?」
俺の言葉は、彼女の心の最も柔らかな部分を的確に抉った。エルザは悔しげに唇を噛み、
「あなたに私の何が分かるというのです!」
と吐き捨てて、その場を離れた。だが、その足取りに迷いがないことを、俺は見逃さなかった。
最後に、壁際で青ざめているリリアナの腕を、俺は無造作に掴んだ。
「おい、行くぞ」
「え…? どこへ…」
「こういう場所は性に合わん。少し付き合え」
俺は戸惑うリリアナを半ば強引に引きずるようにして、喧騒から離れた月明かりのバルコニーへと連れ出した。
冷たい夜風が、火照った頬に心地よい。
「…あの…アレク様…」
「お前は、お前であればいい」
俺は、リリアナの言葉を遮って言った。
「聖女だとか、癒やし手だとか、そんなものは知らん。他人の視線に合わせて自分をすり減らすな。無意味だ」
それは、勇者アレクからは絶対に出ることのない、あまりに魔王的な価値観に基づいた言葉だった。リリアナは驚いたように目を見開いた。彼女は俺の冷酷さの中に、時折見えるこの奇妙な優しさ(あるいは、それに似た何か)に、ますます混乱していくことだろう。だが、それでよかった。
夜会からの帰り道、ガウェインは何の成果もない軍事協議にうんざりし、エルザは何かを振り切るように前だけを見つめ、リリアナは俺と距離を置きながらも、その表情から怯えの色が少しだけ薄れていた。
俺は一人、静かに夜空の月を見上げていた。
魔物よりも、人間の方がよほど醜く、厄介で、そして弱い。
だから俺は――かつて、その全てを力で支配し、愚かな争いを終わらせようとしたのだ。
魔王軍との戦いの裏で、人間社会の陰謀という、もう一つの戦線が静かに開かれた。そして、その戦いにおいては、俺は勇者ではなく、魔王の知識こそを武器とするだろう。
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