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第3部混沌の足音(第8章:リリアナの疑念)
しおりを挟む王都の喧騒が嘘のように、俺たちの宿舎は静まり返っていた。祝賀夜会の一件以来、パーティー内の空気はさらに複雑なものへと変わった。エルザは俺と距離を置き、ガウェインは変わらぬ忠誠を示し、そしてリリアナは…その静けさの奥で、何か大きな決意を固めようとしているように見えた。
彼女の混乱は、手に取るように分かった。俺の内に宿る聖なる力と、時折漏れ出す魔王の気配。人々を救うための冷徹な采配と、夜会で見せた不器用な優しさ。そして何より、彼女の脳裏には、獣将ガランが死の間際に呟いたあの言葉が、呪いのようにこびりついているはずだった。
『我が、主よ』
その決定的なきっかけは、ある夜、訪れた。
俺は次の目的地である「妖姫メディア」の拠点に関する資料を読み込んでいた。それは、俺自身がかつて魔王として記させた、古代魔族語で書かれた戦術書だ。人間には到底解読できるはずもない。
不意に部屋の扉が開き、リリアナが入ってきた。おそらく、眠れずに薬湯でも届けに来たのだろう。
「…眠れんのか」
俺は書物から目を離さずに尋ねた。その時、俺の口からこぼれた言葉は、この世界の公用語ではなく、魔族の言葉だった。長年使い慣れた言語が、無意識に出てしまったのだ。
リリアナの身体が、凍りついたように止まるのが分かった。
「…アレク様…? 今、何と…?」
俺はハッとして顔を上げた。彼女の顔は蒼白で、その瞳は信じられないものを見たかのように大きく見開かれていた。
「いや…古い方言だ。気にするな」
俺はそう言って誤魔化したが、もはや手遅れだった。彼女の疑念は、今この瞬間、確信へと変わったのだ。リリアナは何も言わず、深々と頭を下げて部屋を出ていった。その背中が、かつてないほど固い決意を帯びているように見えた。
翌日から、リリアナは王都の大神殿に籠もるようになった。
聖女である彼女は、大神殿の最奥にある禁断の書庫への立ち入りを許された。表向きは「魔王を討つための古代の儀式を調べている」ということになっていたが、俺には彼女の真の目的が分かっていた。彼女は、俺の正体を探っているのだ。
書庫の冷たく湿った空気の中、リリアナは羊皮紙の山に埋もれていた。
最初は、過去の勇者が使ったとされる「聖なる異能」に関する記録を調べた。だが、どれだけ読み解いても、アレクのような未来予知や、魔族に精通する能力を持つ勇者の記述は見つからない。どの記録も「光が闇を討ち滅ぼした」という、ありきたりな英雄譚の繰り返しだった。
調査が行き詰まり、彼女が絶望しかけたその時。書庫の最も奥、異端の烙印を押された書物が封印されている棚で、一冊の古びた手記を見つけた。数百年前、時の魔王討伐に参加したという、無名の神官が遺したものだった。
ページをめくる彼女の指が、震える。
『――我らが勇者の戦いぶりは、あまりに完璧すぎた。まるで、これから起こる全ての筋書きを知っているかのように、常に魔王の行動を先読みしていた。そして、魔王は…まるで、自ら討たれることを望んでいるかのように、あまりにも致命的な隙を我々の前に晒したのだ。あれは本当に、光と闇の死闘だったのだろうか。それとも、壮大な戯曲だったのだろうか――』
手記の最後には、神官の狂気とも思える仮説が、インクの滲んだ文字で記されていた。
『――光と闇は、コインの裏表。魂は輪廻の輪の中を巡るという。ならば、もし、強大すぎる後悔を抱いた魂が、その輪廻の理を歪め、己が対極たる存在の器に滑り込むことがあるとしたら…? 前世で世界を滅ぼした魔王の魂が、来世で世界を救うべき勇者の器に宿る。そのような冒涜が、神の悪戯が、決してあり得ないと言い切れるだろうか?――』
「双魂転生の禁忌」。
その言葉を見た瞬間、リリアナの中で、全ての謎のピースが恐ろしい音を立てて繋がった。
アレク様の、未来を予知するかのような采配。
魔族の言語や戦術への、ありえないほどの精通。
獣将ガランの、あの敬愛に満ちた最期の言葉。
聖なる力と、時折見せるあの禍々しい力の共存。
そして、彼の若すぎる瞳の奥に、いつも宿っている深い絶望と、焼き付くような後悔の色。
「そんな…まさか…」
リリアナは口元を押さえ、壁に背をもたせかけた。恐ろしい結論が、彼女の心を支配する。
アレク様は、私たちが倒すべき魔王ゼノンが、転生した姿なのではないか?
ならば、私たちのこの旅は、いったい何なのだ。魔王を討つどころか、魔王本人に率いられて、彼の部下たちを殺して回っているだけではないか。それは神への冒涜であり、世界への裏切りだ。今すぐエルザやガウェインに伝え、彼を断罪しなくてはならない。
――本当に?
彼女の心に、もう一人の自分が問いかける。
本当に、彼は「悪」だったのだろうか。
ゴブリンに捕らわれた村の少女を、その身を挺して救ったのは誰だ。
死ぬ運命にあったガウェインを、その知略で救ったのは誰だ。
夜会の喧騒の中で、孤独に震えていた自分を、あの不器用な言葉で救ってくれたのは、一体誰だったのか。
彼の行動は、決して「魔王」の一言で片付けられるものではなかった。
もし、あの手記の仮説が正しいのなら。強すぎる後悔を抱いた魂が、やり直すために勇者として転生したのだとしたら。
彼の魂は今、本当は何を求めているのだろう。
リリアナは、震える足で立ち上がった。
恐怖は、まだある。だが、それ以上に、聖女としての使命感が彼女を奮い立たせていた。
真実を確かめなければならない。そして、もし本当に彼が魔王の魂を宿しているのなら、その魂が救済を求めているのなら、それに応えることこそが、聖職者としての自分の務めではないのか。
彼女は禁断の書庫を出た。
その足取りは、もはや怯えた少女のものではなかった。自らの意志で真実と向き合い、一人の魂を救わんとする、聖女としての覚悟を宿した、確かな一歩だった。
彼女はまっすぐに、全ての答えを知る男――アレクのいる部屋へと、向かっていった。
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