朝凪の海、雲居の空

朝霧沙雪

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平穏な日々の終わり

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早朝の空気に身震いして、白い息を吐き出しながら、さゆはアパートの郵便受けを覗いた。二通封筒を見つけて、部屋に引き返して開ける。
(あ)
 一通は、古本屋店舗の契約更新の案内。来年二月。少しづつ貯金して来たので、更新料も火災保険料もなんとか払えそうだけれど、無事更新出来るまで生活は苦しい。
 そして、もう一通は。
 さゆは内封されていた書類を握り締めて一人小さくバンザイをした。百貨店から、さゆの絵が売れたので数週間以内に手数料などを引いて振り込む事、そしてまた新しい絵を搬入したい旨が書いてあった。
(あ、この絵がいいな)
 さゆは今描いている油絵を振り返った。ここ数日この絵に掛かりきりだ。真っ黒く塗り潰されたキャンバスに、無数の虹色の星座が踊っている。赤く光る流れ星が遠く、魂の断末魔の様に自らを燃やしている。
(今月中には仕上げよう)
 一度描き上げて、数日経ってまた直したい。
(タキと熱海に行く前に一度仕上げよう)
 そう思い、熱海旅行にさゆはまたドキドキし始めた。
 十二月。二〇一九年最後の月が、始まっていた。

「さゆ、朝早いの大丈夫?」
 上野での古本市を手伝って貰った後、二人でアトレ上野のハンバーグ屋で夕食にした。そこで熱海旅行の計画を練ろうという事になり、タキはスマフォで検索しながらさゆに聞いた。
「う、うん」
「じゃあ、ちょっと早いけど、朝六時に家までレンタカーで迎えに行くね。そこから、二時間くらいで箱根に着くから、富士山の見えるカフェで朝ご飯にしよう?その後、さゆの行きたがっていたMOA美術館に午前中は行って、午後から温泉に入って帰ろう。予算は一人六千円位かな。レンタカーは友達の所で安く借りられると思う」
「うん、ありがとう」
 この頃さゆが生活費を切り詰めているせいで、イベントを手伝って貰う時以外は、立川でカフェや公園に行く位しかデートをしていなかった。たまの贅沢だ。
「あ、この旅館安い」
 泊まりじゃなかったんだ、とさゆがホッと胸を撫で下ろしたのも束の間、「じゃらん」を見ていたタキが、一軒の旅館に眼を止めた。
「六時まで和室を借りられて、トイレはないけど、露天風呂入り放題で、二人で六千円だって。ちょっと古いけど、空きもあるし、ここにしようか?」
「へ、あ、あ………うん」
(へへへへ部屋を借りるの?)
 この前のカラオケボックスでのキスを思い出して、さゆは鼓動が高まるのを感じた。あれ以降、人目を忍んで軽いキスならするけれど、それ以上はタキが遠慮してくれている。
「あ、大丈夫だよ。お茶飲んで、ゆっくり温泉に浸かって、地元のテレビでも観ながらのんびりしよう?ね?」
「う、うん」
 さゆの手に向かいから自分の手を軽く添えながら、重ねてタキが優しく言った。
「大丈夫、さゆが嫌なことしないから」

 二週間後に、熱海への旅行は迫っていた。古本屋とライターなどの業務の合間にのみ制作する事を考えると、そんなに時間の余裕がない。
(それまでタキとはLINE通話のみかな)
 出勤前までに少し手を加えようと筆を取りながら、もし、とタキの事がさゆの頭から離れない。
(もし、流れでタキと身体を重ねることになったら)
 今度こそ、身体を預けてみようと、思う。他の誰でもない、タキになら、タキが望んでくれるなら、もう好きにされても良いと思えた。
 外で、ツグミが甲高く鳴いた。
  

 

 
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