朝凪の海、雲居の空

朝霧沙雪

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大切なものは

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この頃日が登るのが少し早くなったな、とさゆはカーテンにくるまりながら朝の空を見上げた。いつの間にか、五月になっている。
 さゆは、冷蔵庫を開けて、ほうれん草を刻む。コーンと一緒に炒めながら、レンジでブロッコリーもチンする。タキが昨夜洗った弁当箱を二つ出し、前日に茹でて置いたかぼちゃの横に、それぞれバランを使って盛り付けた。春が過ぎた辺りから、さゆは朝早めに起きられた日だけ、二人分の弁当作りを始めた。まだまだモタつくけれど、大分慣れた。メニューは三日程、同じものにしている。
 朝はお弁当を作り、朝食を摂り、それぞれ仕事へ出掛け、さゆの方が大体早く帰って、夕食作りと洗濯、ルークの世話をする。空いた時間でひたすら絵を描く。掃除は休みの日にまとめてする。さゆはどうしても調子を崩し易いので、家事を多めにして、タキに眼一杯働いて貰った方が、二人の生活の為に良いと思っていた。
「おはよう、さゆ、無理しないでね」
 タキは起きてくるなり、さゆにそう声を掛ける。
「おはよう、うん、大丈夫。タキがこの前美味しいって言ってくれた、ほうれん草のバター炒め、また作ってみたよ」
「ありがとう。次の休みにまた、買出しに行かなきゃね」
 二人分のグラノーラとルークのご飯を器に盛り付けながら、タキは冷蔵庫の中身をチェックする。ルークがごはんの音と匂いを嗅ぎ付けて、足早にトコトコとやって来た。
 タキがふっとさゆを見ると、楽しそうにご飯を詰めている。亀戸で一緒に暮らしていた頃のさゆも、料理を良くしてくれたけれど、なんだかその姿は疲れていた。あの頃の自分は、そんな事にも気付けなかった。さゆに家事を押し付け過ぎるのを、今のタキは恐れている。
 自分達が別れたのは、丁度、一年前の、今頃だった。

 さゆがこの一ヶ月で仕上げた絵は、もう三枚になる。どれも、鎌倉の自然をベースに、動物や昆虫、月を印象的に描き足した、明るい絵だった。銀座の画廊のオーナーは、今年中にまた個展をしてはどうかと勧めてくれたけれど、さゆの安全をいかに確保するかが、大きな課題だ。オーナーには「さゆがストーカーに遭っている」と伝えている。
(それでも、さゆの絵は、世の中にどうにかして出るべきものだと、俺も思う)
 五月の一緒の休みの日。さゆの工場は五月中旬まで農繁期の為忙しく、さゆも出れるだけ眼一杯働いた。その分疲れが来ているようで、今日はタキが床に寝転んでルークと遊んでいると、そこにやって来ていつの間にか横で眠ってしまっていた。タキはブランケットを掛けてやる。
 スウスウと寝息をたてるさゆの頬が、また、昔のように少しぷっくりして来ているのに気付いて、タキは微笑んだ。さゆのどこが好きかと今更聞かれると困るけれど、身も蓋も無い事を言えば、顔が好きだなと思う。
(いや、可愛いな)
 久しぶりにじっくりさゆを見て、可愛いなと感じて、自分がそう思うのも本当に久しぶりだなとタキは気付く。
 きっと、余裕が無かったのだ、今まで。
 不意に、さゆと身体を重ねた夜の事を、彼女の吐息や声を思い出して、タキはさゆをどうしようもなく抱きたい衝動に駆られた。下唇を噛んで、ぐっと抑える。ため息を吐いた所で、ルークが不思議そうにやって来て、目の前でコテンと横たわったので、
「ルーク。ルークも可愛いよ」
 と言いながら、ふわふわの毛に顔を埋めた。換毛期の毛が宙を舞う。しばらくして再びタキがさゆを見ると、平和そのものでうたた寝している。
 その伸びた髪をタキは、そっと撫でた。

 昼間に買出しへ行って、久々にオレンジジュースとコーヒーを買った。一番安いものだけれど、飲み物にお金を使うのは久しぶりだ。
「えへへへ、かんぱーい」
 さゆは上機嫌だ。またお気に入りのアニメをTVで観ながら、二人で乾杯して味わって飲む。夜ご飯は二人で料理をして、野菜たっぷりのカレーにした。さゆは驚く程、野菜に詳しくなっていた。
「じゃがいもはねえ、いつも食べている部分、根っこだと思うでしょ?あれ、茎なんだって」
 ルークはおもちゃとじゃれている。永遠に続けば良いと思う時間がそこにあった。
(俺、もう、さゆの記憶にこだわるのは止めよう)
 さゆの通院だけは堅持しているけれど、医者も、失った過去をもう一度構築出来ないケースもある、と言っていた。
 夕ご飯を食べながらさゆは、ネットで見た美しい絵や、読んだ絵本について語り、タキは微笑みながら相槌を打った。いつもより、多めに食事が出来る気がする。付けっ放しのTVはそのまま、夕方のニュースになっている。ふとタキが観ると、立川特集だ。反射的にタキはリモコンを手にとったけれど、さゆは、
「立川?前私が住んでいた所だよね。観ようよ!」
 とTVに向き直った。
「さゆ、気分が悪くなるんじゃない?」
 そう、タキが言った時だった。
 忘れもしない、「あの店」が移った。いや、正確には、あの店の内装をまた弱冠工事して、期間限定でテイクアウト専門のクッキー店を始めたインタビューが映っている。
『ここはね、昔はカウンターバーだったんですよね。その後は古本屋だったんですけど、このご時勢で閉店してしまって。いやあ、若い人がチャレンジするのを応援したいので、こういった取り組みは是非とも商店街として誘致していきたいですね』
 カメラの前でそう語るのは、お世話になった理事長だ。
「さゆ!」
 さゆはスプーンを持ったまま、テレビにフラフラと近づいた。あの重厚な店のカウンターを凝視している。
「さゆ、大丈夫?」
 タキがそっと後ろから抱き寄せる。画面から眼を離さず、さゆは呟いた。
「これ・・・・私の店・・・だよね?私の・・・・大切な・・・・店」

 
 
 
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