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あの頃
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その燃え盛る古城は、さゆの部屋の壁一面に描かれている。タキが都内で調達して来た大きな画用紙を、なんとか壁に貼り付けた。
梅雨の最中、時間を見つけてさゆは、そこにずっと城の絵を描いている。ヨーロッパのどこか、尖った無数の塔が、天を目指している夜の城だ。
そして、その真夜中の古びた城は、ゴウゴウと音が聞こえてきそうな程に、激しく燃えている。スケールからしても、描写の正確さや精緻さ、そして奥底に通低音のように流れる絶望感も、間違いなく「かつての」さゆが描いた絵に近づいている。タキは昔見た、さゆの土砂降りの夜の森の絵が、ふと頭の中に蘇った。タキの思い出以外からは、跡形も無く消えてしまったのだと思っていた、記憶を失くす前のさゆが、亡霊の様に、タキの前に立ち上がろうとしていた。
「タキ、起きたの?オレンジ食べようよ!」
ドアの前に立ちすくむタキに、振り返ってさゆは笑った。
さゆの記憶が、戻り始めている。と言っても、いきなり全部思い出したという事はなく、持ち物や映像、食べた物など、ふとしたきっかけで、まだらに、断片的に思い出すのみだ。今の所、レイプ事件やタキとの不和など、重要で核心に迫る出来事はむしろ思い出せない。都庁の展望台でのデートや、一緒に働いた古本屋イベントなど、ささやかな思い出を、ダイヤモンドの様に小さく、取り戻している。
(でも、みんな思い出すのも、時間の問題かもな)
タキは思い切って家の中では半袖で過ごしてみたけれど、さゆはタキの傷跡を見ても、特に驚かなかった。タキは、さゆがみんな忘れてしまった事が、かつてはあんなに悲しく、寂しかったのに、今ではさゆの記憶が戻る事を、とてつもなく恐れている。
それは、自分との別れを、意味するのだ。きっと。
(さゆはいつまで、俺の傍にいてくれるんだろうか)
さゆは、バイトだけはなんとかほぼ出勤しているけれど、より躁鬱が激しくなり、絵を描くか寝込むかになっている。さゆの感情の嵐から上手くタキも距離を取るのが難しい時が多く、タキもストレスを自覚する事が増えた。
タキは、久々に、自身のカウンセリングに出掛けた。
そして、ある日の夜。タキはバイト先でのパート同士の不和の仲裁で、タキ自身も酷く消耗して帰宅した。もう十年以上同じ職場に勤めて、人間関係のギクシャクも何度も経験しているはずなのに、今のタキには、ボディブローの様に効いている。
「ただいま」
夜八時過ぎ。帰ると電気が付いていなかった。ルークが鳴きながら足元に絡まり付く。
「・・・・・さゆ?」
ふと、タキはさゆが出て行ったのではないか、という思いに捕らわれる。ルークを一撫でし、足早にさゆの部屋の扉に手を掛ける。
「さゆ、入るよ?」
ノックもそこそこに、思い切り開け放つ。
暗闇の向こうに、黒く横たわるシルエット。さゆだ。
タキは小さく溜息を吐いた。そのまま閉めようとすると、
「・・・・タキ?」
と微かなさゆの声が聞こえた。
「さゆ、ごめんね。起こしちゃった」
「ううん・・・・・なんか・・・頭痛くて」
「今日の薬、飲んだ?」
「うん」
「ご飯は?」
「止めとく・・・ルークのご飯」
「俺があげとく。何かして欲しかったら呼んで」
「うん」
風呂も入っていないだろうけれど、もうそのままさゆは沈黙する。何日かに一度は、こんな感じだ。そのままタキも、ルークにご飯をやり、ベッドに転がった。枕元にやって来たルークを吸って、深呼吸する。
もし記憶が戻っても、二度と平穏な日々が戻って来ないのだとしたら。
たださゆとルークと静かに暮らしてゆきたいだけなのに。多くを望まなくても、どうすれば幸せになれるのか、もう、タキには分からなかった。
翌朝、タキはキッチンからの音で眼が覚めた。
「・・・・さゆ?」
全身がひたすらに重い。うつ状態なのかも知れない。それでも、仕事には行かなくてはならない。
「あ、タキ!今朝ね、すごく調子が良くなったから、お弁当作ってみようと思って」
さゆは、昨晩とは別人の様にハキハキ喋る。タキは曖昧に頷いた。
「ね、こういうキャラ弁、みたいなの、タキ好きかな?前に見せて貰った写真にあったから」
さゆが机の上に置いた弁当に視線をやる。タキはそれを見て息を呑んだ。煮物に可愛らしいピックが幾つも刺さっている。
出会った頃のさゆが作ってくれた弁当にそっくりだ。
タキは、喉の奥から熱いものが込み上げてくるのを感じていた。
「タキ・・・・・?」
さゆの不安そうな声がする。自分が揺らいだり、弱い所を見せてはいけないと、分かっているのに。
涙が後から後から零れ出て、もう、止まらなかった。
「さゆ・・ごめん・・・嬉しいよ・・・ありがとう」
ここにあるのは、もう、この世のどこにもない、永久に戻らない、ただただ幸せだった頃の二人だ。
手の平で涙を拭うタキを見て、さゆは俯き、唇を噛みながら頷いた。
その夜は、二人とも八時には帰宅出来たので、簡単な夕食を食べながら、タキは初めて、自分にもメンタルの不調がある事をさゆに話した。
「さゆの記憶が無くなる前、からなんだ」
「私のせい、じゃなくて?」
「違う!それは違うよ。・・・・生まれつきに近いものだから」
さゆは、レタスをフォークに挟んだまま、神妙な顔をしている。
「俺はさゆに出会えた後、本当に、人生で一番、幸せだったよ」
ルークがおもちゃで遊んでいる鳴き声が、後ろで微かにしている。
「こんなに迷惑かけてても?」
「いいんだ、それは。確かにすごく大変だけど、でも、俺の人生はさゆやルークの為に使いたいから、良いんだ」
「ありがとう、タキ」
噛み締めるようにさゆが言った。しばらくの沈黙。この頃のさゆは、また少し大人びて、感情や考えている事がタキから分かりづらくなった。幼児向けのアニメも、あまり観なくなっていた。
「タキ、あのね・・・・」
「うん?」
意を決した様に、さゆは顔を上げた。
「私、また、古本屋をやりたい」
梅雨の最中、時間を見つけてさゆは、そこにずっと城の絵を描いている。ヨーロッパのどこか、尖った無数の塔が、天を目指している夜の城だ。
そして、その真夜中の古びた城は、ゴウゴウと音が聞こえてきそうな程に、激しく燃えている。スケールからしても、描写の正確さや精緻さ、そして奥底に通低音のように流れる絶望感も、間違いなく「かつての」さゆが描いた絵に近づいている。タキは昔見た、さゆの土砂降りの夜の森の絵が、ふと頭の中に蘇った。タキの思い出以外からは、跡形も無く消えてしまったのだと思っていた、記憶を失くす前のさゆが、亡霊の様に、タキの前に立ち上がろうとしていた。
「タキ、起きたの?オレンジ食べようよ!」
ドアの前に立ちすくむタキに、振り返ってさゆは笑った。
さゆの記憶が、戻り始めている。と言っても、いきなり全部思い出したという事はなく、持ち物や映像、食べた物など、ふとしたきっかけで、まだらに、断片的に思い出すのみだ。今の所、レイプ事件やタキとの不和など、重要で核心に迫る出来事はむしろ思い出せない。都庁の展望台でのデートや、一緒に働いた古本屋イベントなど、ささやかな思い出を、ダイヤモンドの様に小さく、取り戻している。
(でも、みんな思い出すのも、時間の問題かもな)
タキは思い切って家の中では半袖で過ごしてみたけれど、さゆはタキの傷跡を見ても、特に驚かなかった。タキは、さゆがみんな忘れてしまった事が、かつてはあんなに悲しく、寂しかったのに、今ではさゆの記憶が戻る事を、とてつもなく恐れている。
それは、自分との別れを、意味するのだ。きっと。
(さゆはいつまで、俺の傍にいてくれるんだろうか)
さゆは、バイトだけはなんとかほぼ出勤しているけれど、より躁鬱が激しくなり、絵を描くか寝込むかになっている。さゆの感情の嵐から上手くタキも距離を取るのが難しい時が多く、タキもストレスを自覚する事が増えた。
タキは、久々に、自身のカウンセリングに出掛けた。
そして、ある日の夜。タキはバイト先でのパート同士の不和の仲裁で、タキ自身も酷く消耗して帰宅した。もう十年以上同じ職場に勤めて、人間関係のギクシャクも何度も経験しているはずなのに、今のタキには、ボディブローの様に効いている。
「ただいま」
夜八時過ぎ。帰ると電気が付いていなかった。ルークが鳴きながら足元に絡まり付く。
「・・・・・さゆ?」
ふと、タキはさゆが出て行ったのではないか、という思いに捕らわれる。ルークを一撫でし、足早にさゆの部屋の扉に手を掛ける。
「さゆ、入るよ?」
ノックもそこそこに、思い切り開け放つ。
暗闇の向こうに、黒く横たわるシルエット。さゆだ。
タキは小さく溜息を吐いた。そのまま閉めようとすると、
「・・・・タキ?」
と微かなさゆの声が聞こえた。
「さゆ、ごめんね。起こしちゃった」
「ううん・・・・・なんか・・・頭痛くて」
「今日の薬、飲んだ?」
「うん」
「ご飯は?」
「止めとく・・・ルークのご飯」
「俺があげとく。何かして欲しかったら呼んで」
「うん」
風呂も入っていないだろうけれど、もうそのままさゆは沈黙する。何日かに一度は、こんな感じだ。そのままタキも、ルークにご飯をやり、ベッドに転がった。枕元にやって来たルークを吸って、深呼吸する。
もし記憶が戻っても、二度と平穏な日々が戻って来ないのだとしたら。
たださゆとルークと静かに暮らしてゆきたいだけなのに。多くを望まなくても、どうすれば幸せになれるのか、もう、タキには分からなかった。
翌朝、タキはキッチンからの音で眼が覚めた。
「・・・・さゆ?」
全身がひたすらに重い。うつ状態なのかも知れない。それでも、仕事には行かなくてはならない。
「あ、タキ!今朝ね、すごく調子が良くなったから、お弁当作ってみようと思って」
さゆは、昨晩とは別人の様にハキハキ喋る。タキは曖昧に頷いた。
「ね、こういうキャラ弁、みたいなの、タキ好きかな?前に見せて貰った写真にあったから」
さゆが机の上に置いた弁当に視線をやる。タキはそれを見て息を呑んだ。煮物に可愛らしいピックが幾つも刺さっている。
出会った頃のさゆが作ってくれた弁当にそっくりだ。
タキは、喉の奥から熱いものが込み上げてくるのを感じていた。
「タキ・・・・・?」
さゆの不安そうな声がする。自分が揺らいだり、弱い所を見せてはいけないと、分かっているのに。
涙が後から後から零れ出て、もう、止まらなかった。
「さゆ・・ごめん・・・嬉しいよ・・・ありがとう」
ここにあるのは、もう、この世のどこにもない、永久に戻らない、ただただ幸せだった頃の二人だ。
手の平で涙を拭うタキを見て、さゆは俯き、唇を噛みながら頷いた。
その夜は、二人とも八時には帰宅出来たので、簡単な夕食を食べながら、タキは初めて、自分にもメンタルの不調がある事をさゆに話した。
「さゆの記憶が無くなる前、からなんだ」
「私のせい、じゃなくて?」
「違う!それは違うよ。・・・・生まれつきに近いものだから」
さゆは、レタスをフォークに挟んだまま、神妙な顔をしている。
「俺はさゆに出会えた後、本当に、人生で一番、幸せだったよ」
ルークがおもちゃで遊んでいる鳴き声が、後ろで微かにしている。
「こんなに迷惑かけてても?」
「いいんだ、それは。確かにすごく大変だけど、でも、俺の人生はさゆやルークの為に使いたいから、良いんだ」
「ありがとう、タキ」
噛み締めるようにさゆが言った。しばらくの沈黙。この頃のさゆは、また少し大人びて、感情や考えている事がタキから分かりづらくなった。幼児向けのアニメも、あまり観なくなっていた。
「タキ、あのね・・・・」
「うん?」
意を決した様に、さゆは顔を上げた。
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