朝凪の海、雲居の空

朝霧沙雪

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突然

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秋に、あの二人が出会った銀座の画廊で、さゆの個展が決まった。オーナーにはタキの独断で、さゆの両親についてと、さゆの記憶喪失を話した。話してしまった。それでもオーナーは、この頃のさゆの作品の写真を見て、個展をするべきだと勧めてくれた。
 作家の在廊なし、「朝霧紗雪」の看板はなく匿名の、異例の個展が控えていた。
 さゆが時間があれば絵に没頭しているあいだに、梅雨は終わりに向かっている。
(さゆ、少し落ち着いたな)
 相変わらず核心的な事は何一つ思い出せないままだ。それでも一時期よりは随分と体調の波が無くなって、バイトもコンスタントに出勤出来ていた。
(やっぱりさゆには絵が必要なんだな)
 タキは古物商の免許を取る為の貯金に四苦八苦していた。数万円貯めて、免許を取ったらいよいよ、治療費や弁護士費用の借金を返し始めたい。古物商の営業所の住所をどうするかなど、課題は山積みだけれども。
 なんとか、日々が、動き出している感触があった。

 白い、世界で一番可愛い大きな猫の絵に、さゆは細い水彩絵の具の筆で一本一本、毛を描き足してゆく。背景は金色だ。同じ白でも濃度や彩度が違う箇所が繊細に描かれた、細やかな作品だった。
「ほらルーク、もうすぐ完成だよ」
 さゆが絵を描いていると、ルークが抱っこをせがむので、さゆはこの頃、バイト先で貰ったスリングで、ルークを抱っこしている。中に入ったルークは、昼寝をしたり、ご機嫌だ。
 芸術家が絵を描いていると、近寄り難いようなイメージがあったけれど、タキはさゆに出会ってその固定観念を崩された。「鬼気迫って」「真剣に」描いているんだけれど、絵を描いている時のさゆはとても自然で、まるで息をする様に、活き活きと絵を描き続けている。他愛無い話をしながら描き続ける事も出来る。
「さゆ、夕ご飯どうする?」
 タキが後ろから声を掛けると、さゆもルークも振り向いた。
「買い物行こう?夕方のセールに間に合うね」
 今日はオレンジジュース飲みたいな、とさゆは微笑んだ。

 大平山に、夕陽に染まる橙の雲が掛かっている。辺りには、湿った雨の匂いが漂っていた。
「傘、忘れちゃったね」
 ビニール袋を片手で持ち、タキは空を見上げる。家を出た時には晴れていたのに、すっかり曇り空だ。さゆも小さく頷いて、視線を下げる。
(手、繋ぎたいな)
 タキの白い大きな手がすぐ横にあるけれど、恥ずかしくてそんな事言い出せない。この頃なんだか、タキの傍にいるとドキドキする。
(いつも、繋いで歩いてたのかな)
 自分達はどんな恋人同士だったのだろうと、この頃さゆは考える事が増えた。
(きっと仲良かったんだろうな)
「ん?どうした?具合悪い?」
「ううん」
 さゆがかぶりを振った所で、遂に雨が降り出した。ザアザアと、世界の全てを洗い流す様な、土砂降りの雨だった。さゆの脳裏を、いつかタキと行った雨の新宿が過った。
 思わず笑いながら二人は、雑貨店の軒下に駆け込み、雨宿りさせて貰う。いつの間にか、雨に降られても、身体が冷えない季節になっている。
「あ、これ!」
 さゆは自分のトートバッグの中から、この前海に行った時に使ってそのままだった、キャラクターのビニールシートを見つけた。
「いいね、ルークのごはんもあるし、走って帰っちゃおうか?」
「うん!」
 シートの端と端を持ち、二人は「せーの」で軒下を飛び出した。すぐ先も見えない様な豪雨の大粒が、二人の肩を、腕を、髪を濡らし、スカートの裾を跳ね回る。それでも、家に向かって二人三脚で駆け続けた。
 あまりにも遅すぎた青春の只中に、二人はいた。
 灰色に閉ざされた鎌倉の街に、色鮮やかなシートが翻った。
 激しい雨の中を、なんとか立ち止まらずに、眼一杯支え合って駆け抜ける。それは、まるで今の自分達の姿、そのものだなあとさゆは想う。
 どうにか家に辿り着き、雫を滴らせながら玄関のドアを開けると、ルークはリビングでお腹を出して眠っていた。二人ともずぶ濡れだ。何だかまた可笑しくなって、顔を見合わせて笑った。
 その時突然、雨に濡れそぼって微笑むタキの姿に、さゆは激しく胸を揺さぶられた。シャツの張り付いた白く滑らかな肌も、柔らかそうな髪も、未だ瑞々しさを失わない瞳も、その全てに鼓動が止まらなくなり、全身が熱くなった。
「さゆ、すぐお風呂入ろう?」
 タキは気付かず、靴下を洗濯機に入れながら振り返る。
 さゆは恋をしていた。
 オリンピックまでもう一ヶ月を切っていた。二千二十一年の夏が、始まろうとしていた。
  

 
 
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